連載は続く~SF掌編『”無理”をめぐって』編

横山氏の原作『第三の時効』をテレヴィドラマにしたという事件物も見た。

横山氏作品を原作とするシリーズものは既に沢山放送済で、その再放送だ。

このドラマもテレヴィ事件物同様に、事件が起こっているところから導入される。 だれかが見たか、経験した現場を一応客観的なカメラの視線がとらえている格好を採用するモデルだ。

そう受け止めって最終盤まで見ていると、突然、それは経験者が騙った話に過ぎず、そう語ったけれど内容的には騙ったものだった、ということで、どんでん返し手法として応用されていた。

あくまでも誰かの弁明に過ぎない事象映像だ、という映像表現上の約束事めいたシーンはこの作品では無かった、ので、素人的には、横山氏はきっと・・と推察してみたくなった内容が大変に興味を誘ったので、興味を損じる展開手法を残念に受け止めた。

ケチを付けるのはここらにして、興味を誘った方を是非ふれてみたい。

世の趨勢として、無理がことばの演じ合いとは裏腹に内包されている動作の群れには、淘汰圧がどうしてもかかってくる。働きかけあいの持続が集団の営みとして習俗化している場合は底流としての無理が減じているから、当然、残り、持続していく。そう見なせる。 段田氏演じるある刑事部門の長は、はったりもかますけれど、より”リアル”な事態理解でことばにしようとするタイプだ。一方、緒形氏演じるその部下の現場で活躍するやや若手の刑事は自前(育ちの中でくせとして身に着けた)のふるまいを少しだけ客観視はできるけれど無頓着にそれに従ってしまうところがあるように設定された人物で、長の足元を見透かしたようなことばのシャワーに憤懣(ふんまん)やるかたない。

先のように仕掛けを意識してしまうと、このドラマが成り立たないほどの作りの脆さが表に出てきやすいのだけど、そこらをとにかく棚上げにして、ひょっとしたらやや若い刑事が同情したくなるような真犯人についてあくまでも突いて突いて突きまくる長のふるまいに異常さを感じさせるようで感じさせない演出とは?と視聴者は先の困った面を省いたうえでも充分に楽しみながら考えさせられるはず。

ここらが横山氏の原作のニュアンスだとしたら、確かに長の目の届かせ方こそが、無理を少なくしている、と他人を殺(あや)めることの次元の違いという見方から、指摘できるように素人には思えた。

どう相手の仕打ちに感情を激したとしても、そうするしないの間には断絶があるような観点こそが市民社会も含め、伝統的な集団の営みは採用しようと試行錯誤してきている。どうそれを留めさせるか、止めさせるかの最終手段としては同じ手法を使ってしまう土地柄も沢山残っている。けれども、その先への視線を確かに受け止め可能だ。

どういう理由だろうが、そこを超えてしまった真犯人にはそれ相応のルールが適用される。その適用されるにあたっての過程で、事情を勘案されないほどケチな世の中でもない。

 

無理かどうかの話の先には、介護現場の話も相当に参考にできそうだ。

とにかく巨体だらけのお国柄の介護担当諸氏のご意見を聞きたいと素人はこれから時間をかけてみる気になりかけている。探偵氏が調べてくれるかもしれない、そうなると楽だ。

介護していて、その負担感は巨体(重かったり、単に大きかったり)ならでは、の実質というのを指摘できる。だれもが大変なことになる。

もちろん、三好氏らに連なる人々の知見・技術がかなり楽な動作を可能にはするので、その手の技量を獲得できた人々には、それよりも巨体なとか、重いとかを想定した方が負担感のリアルを持ち出しやすいとは思える。

でも技能を習得し損ねたり、食わず嫌いでそれらを習得しないできた介護担当諸氏にとっては重い利用者、大きい利用者は介護ストレスを日々提供しかねない。

そこから一気に推測話に移したい。ヒトの集団の営みにとっても、重かったり、かなりの巨体というのは面倒を見る関係になった場合、ただただ不利な状況を作る(はずだ)。

つまり、今でも巨体化とか太るとかメタボになりやすい人々が目立つ、ということは、そういう形質要素が伝わってきたということで、それが仮に可能とするなら、介護関係が成り立たないような大きなヒトの集団が各地で生活していたかもの想定が必要のように思えたわけだ。だれも過酷な自然条件の中で、からだの蓄えが豊富なだれかたちほど生きて子孫を残しやすかった時期を通過してきたのではないか。そうではない時期になってだれもがある程度長生きするようになると、重さ、巨体は途端にとてつもない負担となって集団の営みにとっては無理の要素になってしまう。持続のための条件を欠く要素として働く。

そこからヒトにとって、重くなることは例外的で、巨体化もなんらか例外的ななにかと関わっているはずだ、とかの推測をしてみたくなる。

糖尿病体質について、条件次第では、それこそが有利だったとかの話は簡単に読める。けれども、高血圧とかおしなべて生活習慣病のくくりでその中を構成する病気群は、とにかくそれひとつで済まないデパートのように個人の中に生じている。そして体を蝕むという言い方がより相応しいような経過をとり易い。安保説のように、無理がたたって、という結果のことも含めて、ヒトにとってどういう生活がより相応しいかを振り返るのに、きっと参考になるのではないか。

分業という工夫の一つとして、介護現場をそう見なせる。介護する立場と介護してもらって生活のなんらかを手伝ってもらえる立場が遭遇する。その分業をお互いが認め合って、お互い様が成り立つ。ところが、メタボでひーひー状態の介護する側が、それゆえのストレスを抱えていて、助けてぇーと訴える介護される立場のだれかに、こちだって大変なのだから、自分でやれーとか心ひそかに思うだけでは済まないで、実際にそういう介護分業を拒絶するのに似た行為に出たとしたような場面を想像してもらいたい。或いは、メタボもいいところの介護される立場のだれかが、それでももっとうまくやってくれと協力的ではないような場面を想像することも、ストレスの度合いを想像しやすいのではないか。後者では先の技量次第だから、想像できる場面も一つや二つではないのは言うまでもない。上手くやってのける連中も今なら大勢いるはずだ。でもストレスに潰れる介護担当者も無視できない数いるはずだ。

 

 

探偵氏:ふーん、そうなの。俺、調べる気、ないから。それと・・・、ここ、居心地いいよ。でも退屈だから、な。で、頻繁に外出することにしてるんだ。それなりのおカネ払ってるし。

君:そうよね。今は、未だ、支払い能力次第で、ラッキーならば、選べる場合もあるわ、ね。外れることもあるとは、思うけれど。

私:キミさ、探偵なんかと話してないで、ぼくとお茶、どぉ?行こうよ、探偵なんて、ほおっておきなよ。

君;珍しい、・・やいてるの、かしら・・・、ふふっ。

私:先に、行ってるから。

君:待ってよ、いくわ、よ。情けないん、だから、もぉ。上手にトシ、取れないのかしら、ね。