連載は続く~SF掌編『ヤフーから別のところへ引っ越し』編

きょうはとりあえず、お知らせめいた話から。
yahoo のブログページが今年末をもって無くなるとのことで只今移行作業中。
最低でもなんとか(無料のホームページ/ブログサービス)10年間くらい続いてほしいと期待しながら、急な変更など考慮して jimdo と wix.com を並行させることに。


情報を伝え合えることにおいて参考になりそうな事例を一つ。
自転車関連の知識です。
一つの自転車をずっと使っていると気付きにくいこと。
でも買い替えたりが生じると、?!と気付ける。
”フレームサイズ”。
ざっと検索してみてもらいたい。
簡単に読みに行けるところの記述は、フレームサイズはどこのこと?と戸惑わせるに十分な記述が目立つ。
フレームサイズの概念は一応、定義されているようで、サドル(座面)の軸が刺さっているパイプの所の長さが位置的には当たっている。
それに、足を地面につけたり、ペダルをこいだりに直接関わるのでその長さを知ることは必須の一つ。
それに加えて、ハンドルバーが刺さっているないし、前タイヤを支えている軸(パイプ)とサドルの軸の刺さっているところの水平な長さも乗りやすさ、力の入りやすさの観点からして、必須の長さ知識だ。
で、折角自転車購入のための情報として発信されているにもかかわらず、実にそこらの長さはなんという名称で表現されているのかを知るのが大変だったり、自転車販売の際の紹介記事がそこらに無頓着だったり、とにかく情報発信の質としては整っていない現状のようだ。ここらは啓蒙の世の中、終点はないかもしれないとしても工夫の暫定的落ち着きくらいはいつでも生じていておかしくないはず、と素人的には思える。

啓蒙の時代は一方でより多くがことばを持って工夫し合える構想を共有しようとしているとも言える。自給自足ではなく、しかも遠隔地貿易系発想とはことなるコミュニケーションを試行しようとしているわけだから、いつもが啓蒙の働きかけあいの場とも言いうる。
そして、だからこそ、緊急時にのみ許されそうな決まり文句で一義的に受け止められる内容とそれの受け取り・実践を強要されることのない方で啓蒙が模索される余裕くらいは持てていないと、日々が窮屈になりかねない。
おたがいさまで、棲み分けできている程度のゆとりを持ちあえている場が想定されている。

教科書がいつも書き換えられてきたように、啓蒙の趨勢はしっかり改訂、修正をほどこす努力を怠ることはない。そこがすばらしいけれど、実に地味な作業だ。それと改訂や修正やの作業の担い手には序列が想定されてそうでもあったりする。そうでないだれかが修正したりすると途端に修正主義者と名指しされることがネットの時代、気づけるようになった。でも本格的な専門分野ではいつもこの瞬間にも改訂や修正作業が営まれている。でないと知識はすぐに陳腐化するか飽きられるというか、知識としての吸収のされ方に不都合が生じてしまう。ここらはヒトの思考の生理と関わるので”変”人が現れて、思考生理の癖が変化してしまえばまた違ってくる話には違いない。
制度もより良くを目指して、変化してやまない。税率だって変化している。
交通規則だって変化している。
ぐっと日常の風俗習慣も気付かれないように変化してしまうものだ。
たとえば飲料と飲むことの習俗はかなり変化した土地柄を指摘できそうだ。

啓蒙の話を持ち出したのは、探偵氏に登場してもらって、それっぽいSF噺にできればという思惑があるためだった。
そこでこのところPCよりはテレヴィ放送に時間を費やしがちにしていた。
刑事・探偵ものを散々見た。その暫定的感想は以前ヤフーブログにて書き込んだとおり。
2010年ころからUKで放送され始めたらしい刑事ルーサーの作りは、ごく日常の錯綜した出来事にもてあそばれやすい公式筋とりわけ職業柄外れにくい刑事の立場は大変だ。何が心を誘導しかねないか。もう大変、という辺りを素直に取り込んでいる作りだった。だから終盤で刑事の側が整然と事件の顛末を語れるなんていう作りにはなりようがない。ということで一見とっつきにくい、結果わかりにくまま?で終わってそうでいてい、経過の関りの諸力を描いていることで、実際にはその誘惑に晒されやすい刑事の立場でもって追体験できるような作りになっている。
ここらはどの職業でも、わかりやすい派手なやらせでは済まない、もっと入り組んだ日常の諸力の駆け引きとかを面倒くさがらずに、たとえばどういう人脈が優勢でいたずらしてるの?的な追跡を試みるだけで、刑事の立場に限らずのところにはだれもが気付けそうだ。
そうなると、こいつら生きててもしょうがないとか考えること自体が錯覚というか、思慮不足そのもので、ちょっと考えてから行動しなよ、で済んでしまう程度の事態を御大層にいじりかねない啓蒙の世の中の微妙な一面にも気付かせたりする。
弁証法的人生に逃げたくなる気持ちもわからないではない、という大譲歩もポロっと言ってしまいかねなかったりする。
どういう行動基準がなんていうことを考えることはできても、それがなんなのか、に気付かせる、と言い換えることも出来そうだ。
とにかく最善を尽くして、する。その積み重ね。躊躇の暇とか、躊躇してしなくて後悔しても遅いわけだ。
最善感覚は必要なような記述になってしまっているので、ちょっと弱いけれど、その辺りは察してもらいたい。

人生百年時代の観念が当たり前のように個々の実相に即して身に付くようになってくれれば老後ということはヤフーブログでふれてみたように、若年時代が余りに短いことをより気付かせるようにすると予想する。
しかも、お友達ごっこで済まない長年月を生き合うのだ。
親しくなるだれかたちの中で次々に世代交代が生じてしまう。いつも一人かちょっとの知り合いの中で、だからより激しく動態化しているのだけど、その一人にヒトは慣れる必要を人生百年時代は求めていると素人は観測する。その一人一人が次の亡くなる人なのだけど、ちょっと知り合い、だけどそれは若年時に想定されてきた既存観念の知人とか友人とか親友ではありえない。そうではないけれど、人生の短い時間を共有し合ったりがありうる人々には違いない。選ばないで済むお互い様をしっかり身に着けた老人たちが必要だ。
個々の個性は邪魔にならないお互い様はそれが前提でしかも認識としてのお互い様の実践だから。
それまでの特技であり、地位とかの話ではなくなる発想が必須と思える。仕切らないけれど、なんとかうまくやっていける結果的な集団の営み。

たまたまJ-WAVEポッドキャストで聞けた噺になるけれど、旧世代の知識系は虫が今後の食糧問題の解決に通じる的発想を気の利いた話のつもりで持ち出すような知識扱いに慣れている感じだった。受けるこれからの世代のお一人は、費用計算的には割に合わないけれど宇宙食くらいには使えそうと検証の手続きを厭わない知識扱いに慣れているようだった。だたしやはり知識の大包みからミツバチが絶えると大変話をまんまで紹介していたから、過渡期の知識系とも言えそうだ。
知っていることをひけらかして序列政治につい使ってしまう連中が集団の営みを非円滑にしてきた。そこらを啓蒙の魂や精神やの急所を押える世代が育って、披歴してお互いの土俵つくりに貢献できてしまうことを当たり前にできる発想が普通感覚にできるようになれば、知ってる?知らないの!っぽい日常のつまらない遠回りも回避して面白い話で盛り上がれるというもの。もちろん盛り下がることもあるわけだけど。下上は楽しもう。

 


君:なんだかぁ・・・。わけのわからにことになってきたような・・。意味深?
私:探偵氏の代わりに・・ってことで。
君;ふーん、そぉなのぉ・・・・。涼しかったり、暑かったり、年寄りのからだには・・・。
私:施設の探偵氏の話?
君:とぼけちゃって・・。
私:寒いのも、暑いのも嫌いじゃないし・・・。
君:強がってる?
私:別にぃ。
君:そうなの・・・。私たちの育った頃は知ってる、知ってないは、知らず知らずこだわってしまうように仕向けられてきたような・・気がする。
私:だと思う、よ。むしろ年寄りの方が、といっても人によるのかもしれないけれど試験の成績云々はその時々で心の響いたかもしれないけれど、引きずらないでやってこれてたように思うけどね。知らなけりゃ教えるし、教えてもらえて当たり前みたいな。そのところは省いて本題は別の所、っていう発想っぽい。
君:それって、いいわよ、ね、。つい知ってることのお披露目は知ったかぶりしてるとか優劣の方で受け止めて、出来事にしてしまう、そういう年代もいるわけ、よ。あなたが言ってたような啓蒙が目指してきたのとは少し違う方向性?
君:そんなことでストレスためて、事件が起きてとか心理誘導されやすくなって主犯の立場になってとか、それを探偵氏が話の最後に整理整頓してわかった風にこの事件はこうこうこうだったのだよ、なんてね。テレヴィドラマはこのタイプが多い。
君:ふふっ。散歩、・・しない?
私:うん。