連載は続く~SF掌編『ヒトはだれでも・・・』編


お年寄りが体験的に語ってくれたことによると、物事をなんらか進行中の時に、たとえその動作に関わることであっても他人によることばでの介入は、耳を傾ける必要からくる動作の中断のみならず、動作が意識的、惰性的状態のまじりあった状態であるからこそ、そのすぐ次の円滑な連続性への障害に、簡単になってしまうらしい。とかく忘れがちなことを自覚されているお年寄りにとっては、そのちょっとしたきっかけは、すぐ次になしていて当然のことを想起させないような事態にもなりかねない。混乱し、更に、その動作へのヒント発信のつもりの他人にとってはどうしたの?できないの?で更に余計な介入の口実にしてしまいかねない。当人は更に戸惑いの中で、心も動作も思考も修復を図ることになる。
ここらはお年寄りの場合は時間の幅としてより顕著な事態となりうるというだけで、どの年代でも生じることと素人からは思える。しくじりへの嫌がらせ的介入は手慣れた連中にとっては簡単な事に属する。
更に、ここらの知見を敷衍(ふえん)するなら、どなたにとっても記憶のか弱さといっしょの生活に慣れるという老後生活のためには、いつもの習慣で可能になる生活設計が実に大事だ、ということに気付けそうだ。
今の収入でできることをずっと同じように晩年まで継続できる諸氏ならば、そしてそれが一人であっても可能ならば、それは続けるべきくらいに、押さえられるけれど、前提条件が変化してその変化後の状態で老後の晩年までのたとえば数十年間が継続するようなら、むしろ今において、変化後にある程度近づけて、習慣の動作にしておくことが老年ゆえの失敗を失敗にしないですませられる手立てとなりそうだ。
熟練動作が、理屈付けより前に可能になって事態を進められてしまう辺りを想起したい。からだが勝手に動いてくれる。
ここらとアフォーダンス的な道具開発の相乗くらいは期待できそうだ。
昨今のガスコンロに(限ら居ないはずだけど)関しては温度センサーなどが機能していて、湯沸かし程度なら安全に放っておける。ただし、その機能をセットする手続きが要る機器だと、そこらに慣れないとか先のように習慣化できていない習熟状態だと、危なっかしさは残る。



君:私の年代にも関わるってことよ、ね。
私:多分。
君:言われてみれば、って思う、わ。
私:たまには、いいこと言うでしょ。
君:いいことかどうか、は、ともかく、、役にはたちそうね。あなたはもうそうしてるの?
私:そういうことを多くの事にしておきたいのだけど、準備中、ってとこか、な。
君:頼りない。これから習慣にする、ってこと?
私:すでに習慣になってることに期待して、追加でもう少し年寄りに無理にならないもろもろを整理してみたいかな、なんてね。
君:なんてね・・・ね。
私:ふふっ。
君:気温や湿度や、過ごしやすくなってきてるけど、お気づき?こもってばかりなんでしょ?
私:直通だから・・・・。
君:?!そうだった。そうよ、ね。吹き抜け・・・ふふっ。
私:そうは言っても暑さ、のこってるし、素麵ゆでて一緒に食べたい気もするけど、どうする?
君:食事済ませてる。もういくらなんでも入らないわ。散歩しておかな空かせましょ。どぉ?
私:いんじゃない、そうしよう。
君:お茶ならいただくわ、よ。
私:ちゃっかり姐さん、だ。
君:姐さん?なによぉ。
私:くっ、くっ、くっ、くっ、く。