連載は続く~SF 掌編『様々に動作を習慣化できることと老後の安心』編


認知症ないし高齢期ボケ症状のいかんに関わらず生活し易くしておける知恵のいくつか。続き物になるか、単発止まりか、そこらはほんのちょっぴり期待していただく程度にとどめていただいて、早速その話、一回目。

心身に染み付いた習慣がなによりも有効に働く。
眩しい、とベッドから起き上がる。このちょっとした瞬間でさえ眩しさ=起床時刻知覚、で応じている心身かどうかの違いがその後に影響してしまう。
とりあえず起きた。でぼっとしてしまう。もし習慣づいているなら、洗面台を意識しているかもしれない。
口をゆすぎたい。ちょっとトイレへ用足しに。こんな程度のことが反射的に順序だてて発想されるかどうか。
更に、その動作について、細かい瞬間瞬間を実は週感づいた心身ならば、滑らかにこなせるような連続性のためのくせを帯びさせている。
ここらは個々の心身条件に応じてきたし加齢ともご一緒してきたはずだ。
こんな調子で一日のすべてに触れることができる。
これらをヒトは習慣の中に収めて、何気なくこなしてきた。そうしてきたけれど、いざ振り返って一々となると、かなり面倒な作業になりうる。
だからこれからについても、何かするに当たって、その都度そのことはこうして身につけようかな、程度に習慣化をめざしておくことがきっと無難だ。
しかし、それを怠る分量に応じて老後の生活へ、口うるさいだれかしらが関与しだすようになると、決定的な混乱要因として降りかかることになる。
習慣化している心身ならば、一々指示しなくても自分でできるから、とかなんとか言って当面応じておけるし、それなりにこなしている様を日ごろ披露しているはずなのでそれなりに説得力を発揮させる。
万が一認知症状を顕著にするようになったとしても、心身に習慣化していることで、思わずそうできてしまう形はかなり長期に持つ。心身の芯のところで意味作用が混乱し始めて、たとえば食べることのおなかが空いたという当たり前そうな起点がちっとも食欲、摂食へと誘わないようなことになり始めると一まとまりの連続動作が意味系を逸して発揮されたり、更に細分化して連続動作の断続となって現れたりが生じるようになって、終末期の一面を帯びるようにもなりうる。ただその時点での自覚について不問にできるということはありえそうにない。心身全体の中で、自覚の筋は強靭と思える。見掛け我侭に振舞っているとして、そういうことは不快だからしないでね、のだれかが持続しているはずだ。
アルツハイマー型の重症な方の流れをかつて経験させていただいた。その最後に近い時期だよとか他の所で紹介されたケースでは、心身がとても弱っていた。内実が持続していてもそれを支える心身がもう弱体化していて、他人がいることでやっと支えられているような状態だった。その氏と比べれば、未だにっこり返していただけるとか、ことばを投げれば、話そうとしているのね、めいた反応でもごもごっとことばを返していただけるくらい大変にお元気だった。でも、だ、食べることがおなかが空くという貴重な系を通して、養分摂取を促しているのに、その意味系がどこかへ吹っ飛んでしまうようなことがヒトには生じうる。習慣化の耐性を超えてしまうと、という事態も待っていたりする、そうではない、人生を全うしてしまう形もいくらでもありうる。
転ばない歩き方を自分の心身条件に応じて学びなおす。そして習慣化させる。遅すぎるということはありそうだけど、でもやっておくに越したことはない。
施設の時間割というのがあるから、難しいけれど、何時頃に食事を摂る、という習慣も大状況既定として機能してくれそうだ。
意識しすぎてぎこちなくしないように、習慣化の方を意識して茶碗や箸やの持ち方、持ち運び方の習慣化も心身に溶け込ませておけば安心だ。
手ぬぐいでなにかするその何かに応じた変化技もそれぞれとして習慣化できることが欠かせない。日常の必要な事については全ての習慣化が要る。
これまでの力技での部分や、思いつきのねじ込みにしやすい動作について、改めて、習慣化のための動作を学習しなおして、心身技にしておく。高い所に置いたものを取りたい、で踏み台を使って・・こういう場合も、しっかり安全で自分こそがやりやすい形を身につけておく、習慣にしておくことが肝心。
火を使ったり、水を使ったりの諸々の動作については、どの年齢まで自らのことに出来るかとかなり関わってきそうだ。

 

 

私:お先に、だから、さ。
君:ふふっ。たまには、役に立ちそうなこと、言うの、ね。
私:それ、厳しくない?
君:そぉおかしら。
私:暑いね。
君:今年の台風、変、でしょ?
私:うん、そのことも話題にしたかったけどぉ・・、天気予報とか、ここまで偏った動きが続くんで、さすがに話題にしづらいのか、なんなのか、その種の材料提供がないもので、言わないのが無難かな、って、ね。
君:つい言ってしまう人が・・・そうなのぉ・・。つまらない、言ってしまえば・・。スキって。
私:えっ?!なんか言った、今。
君:言ったわ、よ。
私:そぉ・・・。
君:暑いし、冷たいもの、ご馳走になろうかしら?
私:うっ、うん、行こっ、行こ、行こ。

付記:形にしておくことの重要性の一方で、概念ことばの件でふれたように、生々しく、より実態に即した動作の感受をいかに言葉的に認識のところへ持っていけるかの契機自体をとりあえず棚上げしてしまうよりは、その微妙なところに身をおけることの僥倖を指摘したい時に、型こその論へ数十年前、異論を発信したことがある。形化できることをめぐっては、ヒト人生という時間軸想起の下である落ち着きを得られると推測する。
一緒くたにした動作観察によってある大雑把な理解から特定の教科書に則ったこうこうしなさいね、で通されてしまうことの不具合へ、個々性への細やかな観察と本人の感受とがうまくフィードバックしあいながら形にしていく、そういうプロセスをとりあえず想起して、ないし、一人が自覚の何層もを経て、この形ならへと誘えてしまう辺りなども想起できるなら、その前提には”過去以来”ずっと心身についての生々しい実態に近い感受がある程度可能だったり、反省的思考過程など使い慣れていて、とりあえずが実態への近似を生じやすくしている心身などを想起させやすくする。そうでないと型通りの話になってしまって、だれのでもない平均の中に埋没するとか、形式的認識のどれかに収まるとかの話になりかねない。田舎の頑固者たちが独立移転後の子供たちとの同居を巧みに避けて、田舎に済み続けた知恵の辺りに気づけるような気がする。サヴァイヴァル状況とまで言わなくても、ある非常時における錬度など、その場判断について、だれかが何気に積極的になってしまって、それに付いて行かない異常行動はとるな的空気が醸成されそうな場合、そこを回避するには人付き合いの悪さが悪さをしない、良好な判断となりうる的、たとえも提供できる。あわてず、知識も持ち合わせてそれをあわてずに操作もできて・・。なんていうある短時間経過でのだれかたち。映画『ロード』ではそんな過酷だけど、過酷さに打ちのめされず、判断材料にできそうな進行の中、映画娯楽的に受容できた感じだ。