連載は続く~SF掌編『頭寒足熱話の前に』編



食糧難を近い将来の心配事としてどう準備できれば、というのが丸山氏のヒント発信を一般が受け止めうる事態だ。
現に食糧難も生じてきた。普通、その土地で食っていけないと判断すれば、移動して・・となる。どこかしら、生産適地があるはずだ、とかで。でも列島でもそうだけど、ある程度定住の形が安定して時間的な蓄積を伴えば、むしろ動いて探すことは折角の安定とか試行錯誤の地盤をとてつもなく不安定にさせかねない要因に近くなる。今時はだからたとえば産業っぽい方ではない農に携わってきた人々でさえ適地を探して出るっぽい動きはしづらい。しかも今時のグローバル世界では農で培った技能がそのまま役立って食っていける場は、農での人手を必要としているところに限られる。農の土地柄さえあるのだから、自分の知らない栽培にいきなり熟練技を直観できることも難しい。また相当に込み入ることになるはずなんだが、物の値段が土地土地でかなり違っているはずなので、手持ちの支払い手段がどれほど役立てられるかどうかはかなり当てにできないかもしれない。生業は生活の形とも密接になりたっていたのだからそれを捨てて勤め人になるための準備なんてことは相当な負担だ。移動に当たって、その程度のことが要る条件変化はしかし、だれもがそうなのでたまたま移動が要る立場の人々のみが不利というとらえ方では実のところを捉え損ねてしまう。つまり食えない、農で食べ物を作ろうとしても宇極端にうまくいかない、という場合、そういう境遇を得た人々が時代の要請としてそう勝手に移動して試行錯誤するということは相当に難しいことになっていることを子供のころから学習して、万が一の避難手段として農の他に生業に使えそうな技能なりを身に着けておくことが要る。そうしても中々今時に限らないだろうけれど、他所が快く受け入れてくれるということにはならない。そこは移動が自由だろうと、規模の程度問題みたいなのを簡単に想像させる。今は、受け入れればとてつもない規模で移入しかねない土地の近さを想起できる土地柄があったりしてそれなりに争点を形成している。そこへ行けば稼げるから、差異を利用できるから、とか知恵を働かせてやってくることは動機までは認め得ても、一般にとっては中々実感しづらい原因が絡んで、ある豊かさと忙しさで目いっぱいの生活をしている、ということで余裕をもって、事態を受け止め思考してみる、ということが質的には難しい。
生き物の世界が様々を生じさせて淘汰圧にさらしてきたことは事実に違いない。けれどもそれら過程的な事態はかなりの新ステージが生じたごく初期のことでかなりのスピードで大局的には淘汰圧が働くし、そこでも偶然が相当に入り込んで、たまたまその時期の適応に過ぎないかr、やがての変化にさらされて淘汰圧に遭遇してしまう。ヒトにとっての氷河期がやがて終わる時が来るのと似ている。それに絶えずやはり様々な形が誕生しまくっているので、そこでは継承があるために変異の幅がかつてほどではない範囲で納まっている程度のはずだ。しかも先にも指摘してみたけれど、ある程度の落ち着きを得る過程に入っているわけだ。やがて氷河期が終わるとかの極端な変化の時にまた振るいに掛けられる。ヒトすべてが終わるわけではないけれど、相当に変なと思われてたのが次なる条件にはたまたま適していて残ることになる。子孫を残す役を担う。そう意識しているかどうかはわからないけれど。だから現に起こってもいる食糧難という事態にもある程度の答えを示せる。今はなにも淘汰圧によって食糧難に晒されているわけではない。けれどもより近いところでヒトなのだから工夫しないとまずい。そうできている上で、他から助けることができる。まずは自分たちで工夫することが要る。氷河期が終わる前に氷期がもう一回くらいは来てしまう気配だ。だからその時には今無理してでも雇おうと思えば少しはやとって生活の足しの機会を提供できるかもしれない土地柄がヒトの生活の場には過酷となる時期にかなりの肥沃な土地柄と演じているはずのことをいかに想像できるだろうか、と問われているとも思える。そのためには移動の自由だけでは解決困難と思える。今時は固定集住による秩序を将来的にも予定出来ての日々の大変さ受け入れの上で成り立っている世の中が結構栄えている。老後を心配する程度には貧しいけれど、自分なりに形を試行錯誤できる集団の営みの中に居られる人々がそうできているのは結構差異を利用できている。だからたまたまな事態だ。もちろん、そう利用できる工夫の関りは認め得る。でもだからこそやはり忙しいわけだ。工夫し続ける。でもやはり差異を利用していることに違いは無いわけだ。気付ければ、均しの過程はすぐそこなのだ。だからこそ、棲み分け術を応用することにしている市民的な秩序形成の各単位ではそれなりに工夫して自活できる力量を継承し続けられることが求められてしまうし、そうしてきたのに、そうできにくくてかなり格差を生じて食っていけない人々がその土地柄では莫大だ、となると、一般の立場ではその伝聞に困るだけだ。
その土地柄では本当にもう食糧生産はむずかしくなっているのだろうか。その手の情報発信が要る。
もしそうなら、差異利用の商売的な活動に出ることも知恵の一つだ。ただ面倒をみる一族労働的リーダー層の継承を市民社会を選んだ諸国のように壊してしまっているとしたら、難しい。
ただ、稼げるからと簡単に海外が受け入れる前に、その余裕を食えないひっ迫した土地柄の底上げのための工夫に費やせないかどうか。人材難は人為要員が大きい。余っているので芸能やサービス業やで吸収できた方が良い、という状況とは異なる。捌き方が下手な状態ともいえる。必要なところにヒトが集まりにくいだけのようにも映る。そしてなんどか指摘してきたことだ。投機筋利害に乗せられて土地の値段が地方まで上がったとかで話を膨らませる。そういう迂回ではない工夫が要るわけだ。膨らませれば、ババを引くやつ探しがもうはじまっているわけだし。売り買いだから、一時的には、だれが持つのかも大揺れだ。
その程度でも個々の生活は揺さぶられかねない。
自律した国民国家の営みを頼りつつ、物や人の往来の自由度を高めておければ、そう危ないことにはならないし、格差もあくどいことばかりに役立た世界ないで済ませられる。多少の余裕において海外旅行出来て、話題にしてもらうことで一応市民社会的秩序の中でのヒトの往来は演じてもらえる。またそれ以上には応用しずらい。メディアの担い手個々においても、似ている。そこは謙虚に冷静に、だ。ジャーナリズムがどう利用できるかのコマのようなものにすぎない質的な事態把握に謙虚かどうかでふるまいが違ってきて居s舞うのにも似ている。そういうことに冷静に気付けるようにしてきた19、20世紀を引き受けた今時として、どういう工夫ができるか、どう発信力、届けられる力量と学んで内容に生かせる力量とかをまとめて個々に育てていけるかなど、市民社会構成員には問われている。それを面倒と見るよりは、そうできることで結構そこそこ集団の営みと家族の営みとかがうまく混ざり合えるとか想像できれば、いいのではないか。




君:あら、家族、なんて・・・。一人でもいいようなあなたが、めずらしいわ、よ。
私:キミの刺激かも、ね。家族的なまとまりの中で自覚的に役割分担を嗅ぎ分けて、自発性が育ってしまうようなことを市民社会的な擬制ができるかっていうことだから・・・・。
君:単語は難しいけど、話はわかるわよ、確かに、むずかしいわ・・・。それに食べ物が届かない問題。もっとわかりにくい。
私:そうだよね、市民社会を保つ工夫の方に相当なお金が流れる仕組みを働かせている最中に言いにくいけどさ、その効用を台無しにしてまで、ではまずいはずだけど、ヒトに技能を付けてもらって、土地土地で産業化以外の試行錯誤の第一歩くらいは初めて見てもいいように思えるよ。結局産業を育てて土地と切り離す場合、雇用ってことがとてつもなく基本問題になってしまうから。
君:花粉症、軽くなったの、かしら?
私:そ、だね。そうだ。花粉症っぽい気分の時って、新しいことにとてつもないエネルギーを注げなんてのは、とても無理そう。それを想像しただけでも、とりあえず昨日してたことをきょう、ここでできることの貴重な面ての、意識できる、よ。そういうのって些細だし、瀬古そうだけど、ヒトの営みには欠かせない。継承を見通せる気分くらいにはなる。
君:ね、でしょお。だから・・・・・。
私:わかった!おごる、おごるよ。きょうも有難い。なんていうヒントくれるんだ、ろう。いいな、いいな。
君:ふふっ。