連載は続く~ SF 掌編『木組み住宅』編


その昔、夢のような生活をしていた人々のことを思い浮かばせる。

今の岐阜を旅するテレビ番組をBSにてちらっと見た。
一辺が4,5間(1.8m×4ないし5)は少なくともありそうな、石の台の上に柱を立てるタイプの住居が紹介されていた。
土地の農生産を監督する担当たちがそこを拠点に働く所ということで、広い地域をその住宅を移築しながら移動して監督を続けるということだった。

移築可能な建造物となると、一応、木造で3つの条件を満たしていればそれが可能とのこと。

木組み、土壁、石場建て

仕組みさえ理解して、組み立て、解体に慣れていさえすれば、修理しての移築も含め、簡単にできてしまう。

宮大工系に限らず、基本のところは、伝統建築として、列島においては大工諸氏が伝承して普通にこなしてきた。


海外生活事情を紹介してくれるテレビ番組には馴染んでいる今日この頃だ。
モンゴルの遊牧系の人々が住居をたたんで移動する。
たたんだのを展開して住居にする。
丸ごと持って移動できる。

列島にも、恐らくは半島経由でやってきた人々の中に木組み細工を得意とする人々が居て、その人々は、住居の素材を材木から木工仕事で作って、持ち歩いていた。担いでというほど小物ではないので、多分、荷を載せて運ぶ道具も作っていた。
そのうち遊牧して生活する人々ならば、季節とかで移動を繰り返していたかもしれないが、列島にやってきたのはもう少し定住に近い形を既に繰り返してきた人々がぐっと多かった。

礎石も持ち歩いているならば、それにそう長い期間同じところに住み続けていなかったとか、小規模とかで後の世の中で、考古学が栄えたとしても、その痕跡を見つけるのは余程意識的にしつこくしないと無理だった。

そんなわけで後の世の歴史からの関心のことなど心配することも無く、環境変化に応じるとか、世の趨勢に応じるとかで、手軽に移動生活を堪能できていた。
必須の生活技術だから(性別に関係なく)子供たちもかなり熱中して木工、木組みの技を身につけてしまった。
そして道系が中央集権利害で整理される分野から少しでも外れていれば、伝承的に無茶しない思考の伝承系を支える生き物たちの中での共存可能性に関わる膨大な知恵を更新しつつ世代間・世代越えでの学びもこなしていた。

そろそろ移動だよ、となると、木組み完成品をばらす順を各自が想起して、作業にかかって、いざ組むときは、のことを考えながら部分部分の作りを点検しながら分解、そして組み立て易いように、ばらした素材をまとめる。
荷にして移動。
移動先では、早速荷をといて、完成像を想像しながら整地、礎石を配置。
柱だなんだと、組み立てていって、ここらもどこをどういう順で、どう組みなどお手の物。
土壁作りは、仮りの宿で一夜過ごして翌日の天気次第。

昨今では、勝手に土地を占有して我が家とするわけには当然いかない。
とはいえ、素材で可能な建物を構想してからそれに合わせて土地を得て、そこに移築することは手順、木組み、木工、左官仕事に慣れただれかたちにとってみればお手軽な仕事なわけで、どうってことない。

列島の義務教育期間でも1970年代前半くらいならノコギリやノミすら使う教科が行われていた。だから基本発想には木組み工法が控えていたかも、と想像したくさせる。

一応時間がかかる手仕事なので、生活費のことを考えると、双方から制約が生じ易い。
生活のために稼ぐ。少しでも収入が多いほうが良いだろう。
世の中はいつでもそう高収入な層は多くない。そこそこがもっぱらだから、費用を節約できるところはとにかくそうしてしまう。
自らの方向性からする制約。
他所から向かってくる制約。
手仕事だからという”付加価値”稼ぎもできたりできなかったり、そこらは風まかせにしがち。
すると数をこなさない単価の安い仕事は生活を圧迫し続けてしまう。後継者を生みにくくする。
そういう生活の形以外も容易に想像できる。
稼ぎは別。自分の嗜好の中で、仮に時間を持てさえすれば、資金がある程度ありさえすれば、木組みの素材だけ準備できてしまえば、なんとかできるはず・・・、となる。
多少老いても木組みの際に苦労しなくて済む程度の素材の大きさ、重量でできる建物を構想できれば、一生ものというよりは、世代を越えて、使い続けられる可能性を秘める。
木を組める。素材の劣化を修理して、基本素材にできる木工技術も一応習得できている。
ならば、部分部分の修繕もお手軽に、”自分ち”を比較的気軽にメンテナンスさえ楽しみの一つにして使い続けられる。分解するような目に合っても、ちょっと修理して、木組みするだけで再生だ。


この知見を継承することなく建築基準法が作られて、リサイクルには向かない建て方の一つ在来工法ほかが継承されているのが現状。

列島における建築史をネットで調べると、591年建立の法興寺が出てくる。
発掘調査から三百m四方の敷地に独特の伽藍配置を持つ寺であることがわかっている。
当初のとされる立地場所が最初のはずがない、と「列島古代の歴史」素人は考える。
半島で八百万発想が整理されて氏神よりも総合的になってしまった神を拝む系になったのを担ってやってきた渡来系の時期以後とそれ以前の八百万発想の先住民からも素直に学べて世代をかなり重ねた渡来系世代とのギャップも生じたろうが、半島での熟練技を持って、しかも列島の各地でさんざん試されて、ある時、なにかをきっかけとして近畿圏へも移築移動して、根城にした人々もいておかしくないが、それも親戚筋の誰か程度のネットワーク性質と察する。
突如、伽藍建築の新築が現れるというあり方よりは起こりうる事態と伺える。