連載は続く~SF掌編『ちらっと浜離宮庭園のコスモス群生を見ていた』編


歴史知賢にしろ、原典の"翻訳"版にしろ、文字面(もじづら)を撫でていることに気づけずに時間をついやしてしまうようなことも起こりがち、と素人的なことをつい言ってしまうのだけど、そこらを時々避ける意味合いから、観点を少しばかり変えて言及するタイプの本などに目を通す。
今回は、文庫で沢山出てもいる竹村公太郎氏の著作『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫 '14)。
その第6章、第7章、第16章を参照、引用したい。

 第6章 なぜ江戸城の「天守閣」は再建されなかったか
 第7章 なぜ勝海舟は「治水と堤防」で明治新政府に怒ったか
 第16章 なぜ日本文明は「海面上昇」でも存続できるか

幕府とごく近い岩槻藩の城にも天守閣は見当たらない。
その理由は調べていないので、安直な素人類推に過ぎない持ち出しではあるけれど、明暦の大火のあと、天守閣は再建されなくなったとウィキペディアでは紹介されている。
竹村氏の指摘から、保科正之氏が相当な支えとなって、そういう方向をやり方として選択できたことがわかる。
保科正之氏の人生についてはテレビ報道などから多くの諸氏において当方よりも多くを知っておられると見なして、ざっとふれると、後の初期大奥での大人物が密接に育ちと関わっている。
その後にかの更に有名な春日局(斎藤福)氏が影響を発揮する。

保科正之氏はその大奥の大人物との繋がりから武田氏ともそれなりにつながる。
こう持ち出してしまうと治水と話題にした場合、古い知識のままの諸氏においては一定の先入観を呼び覚まされることになる。でも、今やネットでも信玄堤についてはそれなりに検証されている感じで紹介されている。ここらは一応押さえてもらいたい。
勝海舟氏が仕事していた幕府の長年月がもたらした堤防については竹村氏の指摘によると、今時見慣れた堤防とは相当に異なる。
それにはそれなりの理由があって、氏の指摘から2点引用。(p167)
①少しでも水位を低く保って堤防にかかる水圧を抑えること。
②堤防の基礎側からの水の浸入を防ぐこと。
具体的にどうしていたか、その結果、今時の景観とどう違った様だったのか。
今時の洪水のとらえ方が3つネット上で紹介されていた。
堤防を超え出てくる。
堤防にしみ込んで、最悪の場合、部分的に崩壊させる。
堤防への水圧によって堤防そのものを部分的に壊してしまう。
発想に違いが既に生じていることに気付かれるかどうか。
旧堤防の形跡を見ることのできる利根川堤防を解剖したときにわかることも竹村氏は紹介している。(p168)
(江戸期は)堤防の基礎にあたる部分を掘り下げてしっかり固めている(水圧に耐える仕掛け)。
更に堤防を2段構えにしている。
川の流れに対して内側の堤防は低い。大変な水量の時には越水してしまう。またそうさせることが目的にもなっている。
第二の外側の堤防との間は水田が広がる。ここらの指摘で、今時だとすぐにピンと来られるに違いない。
田畑は全滅状態になりうる(しかも列島環境では収穫時期とか収穫前の大事な時期が台風や大雨と重なり易い)。そこで、竹村氏の指摘では江戸期はその部分の田畑は無税扱いされていたということだ。
明治政府はそうしていない。そこも勝氏は怒った。動機付けほかにまったく欠ける。
江戸期の蓄積が伝承されていない"頭"の持ち主を想定できそうだ。
古いことも知らないで、ただ新しいことというか思いこめていることを成した勢力というのに近いようだ。
第二の堤防が決壊したらどうしょもないので、とにかくそれは頑丈に作ることが求められた。
今の利根川関東平野の周辺の流れ。中の方となると荒川水系だ。
昭和の30年代頃までは堤防の重層作りを(部分的に)振返れる。(川筋変更とか明治以後の変化は進行していたのだけど)
宅地化のためか急激にその姿は変わった。
とてつもなく水位を上昇させて堪(こら)えて、それが我慢しきれなくなって洪水となれば、その際生じる水の勢いは近場では相当なことになりそうだ。そこらも江戸期には気を使っていたわけだ。
病院が公私に関わらず公的性格を持つように、水田農業の担い手諸氏においても、公的性格を自覚してもらえる誘いくらいは働かせていた江戸期を想起させる。
そのことで食糧事情が一気に悪くなってしまう、ということにならない程度の余分生産が各農家で可能になっていることも重要だ。

農業生産となれば環境条件で左右されやすい。気象条件の変化はかなり影響してしまう。
昨今の話題は人為による気象変動だ、ということになっている。
竹村氏もその線で工学系っぽい操作を駆使して推論されていた。
p343の図を是非参照してもらいたい。今日の状況について所説芬々(しょせつふんぷん)な感じだけど、それらに惑わされず、長期趨勢のどの辺りなのかを一応押さえやすくしてくれそうに素人は受け止めた。
(新参者はつい)「ちなみに」(を口にしてしまうようだ。)この図は国立極地研究所が提供したデータを国土交通省河川局河川計画課の若手諸氏が成した。(p343-344)
グラフを頭に置きながら、竹村氏の計算を参照する。
(核エネルギー系蒸気機関の)原発は(電気を起こす)エネルギー変換のために大量の水を温水にして流し続ける。その温度は7℃だ。それが絶えず流れ続けるし、大量だ。
世界の電気を大量に食う諸国で大量に原発が稼働している。
当然海水温度は上昇する(はず)。希釈されるから・・、という科学者からのアドバイスも得ているようだ。
それプラス、石油とかの大規模な発電と関わって出る温水。こちらも大量だ。
合算すると多分・・と竹村氏は指摘している。(p352-355)
ここらは元になるデータを調べる力量の持ち主諸氏においては、残るは簡単な計算のみ、ということで、かなりの精度で自らのデータを持ち出せる。
石油消費から電気への生活パタン変化を促す理念先行はどうも上手く行きそうにない。
電気に依存する限りで、安定した生活を望むならば、温排水とともにが限りなく続く。
不安定だし、極端な変化ゆえに経済の営みを破壊しかねない代替(発想)系依存は、当面は無茶な代案ということになる。
(核エネルギー利用の仕方は他にもあるけれど、今時はこれ一辺倒なので)原発に傾けすぎて、逃げ場を失うのか、石炭、石油を上手に使いこなしていくのか、大量電気消費の生活を手放したくない諸氏においては、無難な線と可能性を考え続けるための猶予を得る条件ということになりそうだ。

発想の方向が凝り固まり勝ちかも、と少しでも冷静になれるようなら、昨今のワクチン騒動にもそれなりのオルタナティヴ発信が活発であることに気づけそうだ。
たとえば、人の動きが万が一、大量の感染者を生じさせてしまってはということで心配する。例外的な事象に注意してさえいる。
なのにワクチン接種という事態については意外に大雑把でやり過ごして、接種することにのみ関心が行きがちにしている。知識たっぷりなはずのマスメディア系諸氏においてさえそうだ。
ワクチンは万全ではないですよ、と質問の硬直性に政治家諸氏は苦心して答えているのが今時の熱狂だ。(ワクチン接種強引派と見なされがちな野党勢だって、政治家頭だから直ぐにピンと来て、無茶言うなとまではことばにしなけれど、ワクチンが全て解決するわけではない旨くらいはことばにしている。でもマスメディア部門勤めの問う側はそうはいかない熱気を帯びてしまっているようだ。だからリアルにはわけのわからない質問を平気で投げてしまう。ワクチン接種達成率をどう上げるつもりですか!!!!など)
ワクチン接種証明でオーケーで、集まった人々にクラスター発生、はもう政治家諸氏のせいではない。マスメディア部門の煽(あお)りだ。政治は”世論”の姿を取る要請には(質量はともかく)応じる。
重症化を避けるからしないよりはした方がいい。仮にごく少数それで亡くなることがあっても、という観点とは別観点が可能なことに気づけないと、そうなる。
インフルエンザという強烈なのにヒトの世は下手なりに対応してきている。そこに自信を持って、急かせない対応でいくことが必用な時期だ。せっかちになっては判断を誤る。
そしてヒトが成してきたことを振返る、観点の置き方を世の知見から得ることも出版だけに限っても上記のように可能なわけだ。