連載は続く~SF掌編『中央集権化事業は未完だけど貴重過ぎる歴史"遺産"の進行形だ』編


"勢い"という捉え方で心身の状態を表現できる一面を指摘できる。
盗人(ぬすっと)だけど考古学知見をしっかり学習もするくらいの落ちつきも持ち合わせていた。
大抵本とか紙資料の数をこなす読込み時の心身状態はというと、免疫に適した体温の状態を保ちにくい内臓の働き方へと誘うような状態に誘いがちと素人なので想像してきた。
だから盗人動機が勢いを伴わせて知見応用に実際的時間内に成功することを学者諸氏に求めることは相当に難しそうだ。
私財をなげうっての探求心、興味津々(きょうみしんしん)のり、好奇心旺盛(おうせい)のりならば勢いもつくかもしれないけれど、その他の雑用に時間を取られがちな研究生活の一コマはきっと勢いを失速させるような日々ともさけかねない、と素人流の勝手な想像。
BSNHKにて盗掘が偶然にも貴重な遺跡・遺物を発見させたことを紹介していた。
盗掘だから、まったく壊してしまう、ということではないのだが、どうしても破壊を伴う。しっかり保存を意識した採掘ではないための傷が残る。
しかも一旦開けてしまうと、空気が入り込んで、成分との化学反応等、劣化の進行度合いがより進みやすくなってしまう。
だから開けずに時期を待って・・という作戦も相当に昔のことならば説得力を発揮できるけれど、少しずつの劣化が進行中で、数十年先の劣化した状態の発掘となるのが目に見えている昨今という経年的条件をしっかり踏まえてもらえれば、温存策は、劣化の度合との相談の時期であることいつも頭の片隅に置くことが不可欠だ。そういう切羽詰まった時期と(素人は)想像する(し心配もできる)。
かつての原型は密閉状態において火を灯し、酸化による成分の不活性を生じさせて長持ちするような工夫を持ち込んでいる。けれどもそれが持つのは完璧な密室の場合で、恐らくかなりの以前から徐々にの劣化が進み始めたはずだ。だから残り時間は今の時代において古代とされる考古遺物に漢詩て、時間はそれほど残されていないように思える。
資料読みの心身状態に引きずられ過ぎないように心身のトレーニングに慣れて、勢いを失うことなく研究の目標に向かって研鑽を積んでいるタイプの諸氏においては、きっと昨今の発見ほかを取り込んで、相当な研究内容を抱えておられるのではないか。
その番組でついでにほんのちょっとだけふれられていた称軍(でいぐん)墓碑についても、ネットで簡単に調べられるけれど、所説芬々(しょせつふんぷん)の状態のようだ。
しかも学者諸氏の仮説よりも漢文くせとかに精通してそうな書き込み諸氏が溢れてそうな雰囲気だ。
学究肌を忘れていない団塊の世代諸氏の多くがなんらか探求して暫定的な答えを公開しつづけてくれたりすることで、勢いを伴うとここまで、実際的時間内での研究成果を生めるかもよ、の仮説くらいは提供してくれるのではないか。条件付けで”縛らなくても”、自由でおおらかな環境下でこつこつと研究成果を生める。ただし(スパコンほか)巨大装置が要るとかのタイプの事象は除外だ。

素人仮説から、文字扱いに不慣れな古代列島。各地にリーダー層が割拠していて、戦闘的な土地争いを回避もしていて、仕切り方も土地それぞれ。そして、長年列島に清み続けてきた先住系にあたる縄文の文化をも身に染みつかせてきた人々(恐らく後に渡来してきた厖大な弥生系とひとくくりに一応できる人々の数と比べてかなり少なかったと想定される)は、持って生まれた素質が女性を惹き付けることもあってあたかもヨーロッパにおけるネアンデルタール人諸氏のように血として新参者諸氏に浸透して形としては消え去ってしまう。アフリカ系の超身体能力系に限らず欧米からもとてつもない身体能力系タイプが出現する。列島生まれからも時々各地でそういうタイプが育っている。そしてどちらかというと女性たちを(男性たちを)実質の所で魅了し続けているわけだ。建前上昨今は騒がないのかもしれないが(ここらは実際にそうなのであって女・男性からする差別の問題ではないと素人老人は察する)。その際、土地(列島環境)での生活を積み重ねる中で、先住系の智慧の厖大量に徐々に気付き始め、感服もし、面子との相談で、面子を意識しなくても済む世代の頃には相当に深く学んでしまったと想定できる。
その中身のうち芯となることの一つが欧米系発想ではアニミズムとかで整理されている類で、万物にアンテナを働かせて生活と連係させてしまうスゴ技の辺りだ。
なぜそう言えるかのちょっとしたきっかけをたまたま本日の多摩丘陵紹介の番組で得られた気がした。
少々若そうな坊さんだったけれど、”野仏”と自らことばにして、野ざらしの墓石にも貴重さを感じ取っていた。その状態に放置しつつ大切に扱える心身のところをことばにしていた。
普通、仏系の場合、掃き清めてしまうくらいキレイ好きだ。だけどそういうのが切羽詰まって襲ってこないのが多分列島(育ち)気質(かたぎ・きしつ)の持ち主諸氏だ。
今も外来で列島に住み着く諸氏が大勢いると思うけれど、世代を重ねればきっとそういう気質を身に着けてしまう。
それだからこその、聖武天皇へと至る時期(100年から150年ほど)と見なせそうに古代歴史”探索”への新参者である素人には思えてしまう。
いつ九州勢の主力が近畿域へ移住してきたのだろうか。蘇我氏の名が登場する時期と関係がありそうだ。聖徳太子の名よりは蘇我のなんとかさんたちだ。
そこにエピソードを彩る後の藤原のなんとかさんたち。中大兄。話を持ちあげる必要。
九州の一勢力が中央集権のために担がれたとしても、それがわかってしまったら、自立的な古代の各勢力にとっては力でのとか色々が要請されてしまったに違いない。エピソードとしての壬申の乱が語られているが如く。
なんと壬申の乱が起こったとして郭務悰氏一行が帰国してすぐのことだ。
武装解除に近い贈り物を同じ年にしていたのだし(672年)。
先の禰軍氏も当時の倭には郭務悰氏らとやってきている(660年代のこと)。

色々が続いて、一応格式ばった中枢がそういうものだと思いこめる時代をしばらく構成してしまう。(BSテレ朝の("相棒"コンビでもある岸部氏と水谷氏コンビを見られる)"無用庵"参照)
一方で宗派系も独特の格式を整える方向を採用してきた。
ここらは中央集権化以前を意識できるならば相当な作為、人為が働いているとたっぷり目に予想できそうだ。
文字にも慣れていなかった優秀な諸氏が中央集権の官僚制を担った。
とにかく少数の慣れた連中にこき使われながら(少数の連中は目標に向かって必死だったはずだ)熟達していくわけだけど、身にあたる要素をどう空想してしまうかでその後が変わってくる。
偉そうに振舞うことに多少感じ過ぎたかもしれない。
その為に格式ばる、といってもそのやり方を個別具体的に列島的に外を学びつつ工夫してしまった。元気で活発で狡猾だったかもしれない遠隔地貿易系の智慧と振舞いからも相当に学んでいた可能性を想像できる。
中秋の中秋はともかくお手本である唐の時代のテキストからより多くを学んで、それゆえのとてつもない何処の国柄?と決めつけにくい海外性も身に着けてしまっていた可能性も山口博氏知見から気付かせてもらえる。
しかし文字熟達は世代を重ね、しかも持続できた脈のみが達しうる。そこらが難しはずなので、少しずつ1000年間とかかけて学者なみの文字資料熟達者が巷に輩出するようになる。
その過程では中央集権の為、のために自らを投じていると思いこんでいる中央からの距離が様々な諸氏が担って、形を成していった。
そこにたとえば神道という形(かたち)化も含みうる。
だから中央集権と秩序維持とかの脈絡上、勘違いのその先として相当に格式ばるやり方を採用した可能性大だ。
もしも、様々に未完のままの中央集権化の端々で質の持続性に問題ありとお考えならば、その勘違いが時代に晒されていると、ちと振返ってもらえれば、きっと代案はすぐに出てくると素人には思える。
ヒトはある程度ざっくばらんな場でことばを鍛錬して、個々に持ち帰った場で目標などを意識して集中を発揮できればそれなりの仕事を成すことができるようにする。
心身に染みつかせた方が良い事象に関してでも、やり方についての試行錯誤は要る。
仏系についても神道と似たことがきっと生じていると察せられる。
これからの仏系の担い手諸氏が試行錯誤することに躊躇は要らないのではないか。

藤原氏探索の流れで、つい去年くらいまでの古代探索素人である老人の当方は、或る思い込みができていた。
藤原氏天皇系の試行錯誤を取り巻いて邪魔してそれが戦争的な殺戮事を生じさせやすくしていたのでは・・という仮説だ。
だから天皇系の諜報脈と藤原氏系の諜報脈を分けて考えていた。
浄土真宗系ならば当然藤原氏だ。日蓮もそうだ。
けれども、九州王朝知見の古田氏に関わる諸氏の熱心な発信のおかげで、九州王朝のトップは呪術王に近い在り方であることに気づけて、トンでも系に近いことを踏まえる必要が出てきた。
しかもどういうわけかやがて尊敬の対象となるくらいのヒトの熟成に至っている。なにかが作用して変身してしまったわけだ。そこに大陸系・半島系の仏教が相当に関わってそうに思えた。
その時代こそが九州の呪術王を他の教養も身に着けた人々をも魅了するし、だれからも尊敬に値すると見なされるようなリーダーに仕立てた。
そして九州から近畿圏に集団でまとめて移動する機会まで到来する。
八女の石造物が有名らしいけれど、斉明期の石造物ほかの造り物群も有名だ。
他の教養の持ち主からすると、相当にヤバイ感じだった九州王朝系リーダー層なのだけど、その片鱗を発揮してしまうなら、他からすれば珍奇ななにがしを造らせてしまう可能性もなきにしもあらずだ。
或る時期の前後に遣唐使が盛んで、その時期以後には名を遺す人物が中国からも何度もやってくることになる。
そして山口氏紹介の山上憶良氏のように突貫工事のシツラエ準備作業に熱心に加担する優秀な人物たちが登場し始める。山口氏の指摘する原万葉集(歌1-53)では、勘違い系の柿本人麻呂氏が列島の継承・伝統知らずの神概念を明け透けに文字にして残してしまっている。
それは引き継がれることなく、八百万発想の地底(ちぞこ)を踏まえつつ仏の生き物への尊厳を虚ろに走らない発想でつかもうと以後模索し続ける。
それはだけど中央の中央の話で、端々で威厳を装う中央集権の一つの試行錯誤の形を思いこんで、仏もまたある道を形成していく(だけど根源を忘れないだれかたちがかならず時々に現れていることは種々の作品として残っているから一応知ることができている)。

 

連載は続く~SF掌編『(つまらない競り合いにしない)良きライバルをお互いが試行できる関係』編


列島の経済の営みについては、好んで不安定さといっしょの可能性大な渡り歩ける自由を謳歌できるタイプの職に付けていることをラッキーと思える極く少数な諸氏の一方で、その不安定さに(持っている支払い手段を)使うに使えない境遇を引き受けることになるしか就職の機会を得にくい諸氏をかなりの層として持続化するような状況を続けることにしてしまった新自由主義系発想にもとづく”改革”下およびそれを是認する政治勢力の跋扈ということを一応指摘できることで、こらからのグローバル環境下での改良の筋道へのヒントくらいにはできそうに素人は想起する。
グローバル経済下、どう内輪形成するのか、どの仲間に入れてもらえるのかなどなど、思惑は熾烈に渦巻く。そこらは漠然と素人にも勢いのところくらいは想像しやすい。
より為政者にとっての内輪を食わせていく利害が作用しやすい。その錯綜という現場を想像できる。
だからそこにただ競争的な奪い合いとか駆け引きがのさばるようなことにしないための、歴史知賢とかも踏まえられるグローバル下の為政者集団、施政者間のできればすんなり感じ合えて、無茶の方に走らない工夫に時間をかけられる方法を次から次へと編み出し続けてもらいたい気がする。
そうは言っても、この間の新自由主義発想では、政府に代わりうる経済規模の個人か会社などを育てるような、そしてそれらが政治的な実効性を担うような志向もちらほらさせて、巷や専門家や事情通諸氏を心配させてきた。
ある種の理性をふまえつつ勝手を許されるその担い手こと企業というような理念型を持ち出せる。そこら民間企業における試行錯誤のうま味だし、それゆえの新陳代謝を引き受け得る。どこから必用を満たせなくなり潰れることになるとしても、他のどこかで既に試行錯誤、雇用機会が育っている。その重層ゆえの安定感。またそこには暗黙の前提として、最低限必要なものであっても形としての具体性において、需要の量的な不変などありえそうにないことが踏まえられている。なんらか浮沈を伴わせる。だけど世の必用を嗅ぎ取って、必ずその勝手さゆえに試行錯誤がどこかしらで始まっていて、成功・失敗のフィルターを経て、安全だったり、便利だったりの商品として一定の評価も得るようになっている。
だからそこに雇用の機会も生じている。
それがまた円滑に進行していれば雇用の機会を巡っての不安定を心配することはないのだけど、残念ながら、給料水準(ここらは給料の仕組みをめぐる議論とも絡んで、両論のようなことも生じがちにするけれど、生活がらみだから安定性・保守点検的な性格が強く働く場面と考える方が適切と素人は見る)が人生の途中で大き目に動きかねない生活上の不安定要素ともなりかねない。それではまずいわけだ。
で、これまでの難しいグローバル経済の営み下でも工夫して何とかやってきた列島版経済の営みではあるけれど、その弱点も実は明確に指摘され続けてきたわけだし、そこに手をつけるにはグローバル人脈上のしがらみと距離をいかに取れるかの巧み技がどうしても必用だったしそれが難しいからこそ問題は残ったままで、実際の多少は相対的に豊かな列島の経済の営みには脆弱な要素がもぐりこんでしまっている。もちろん、財政依存の隠れた経済要素もあるけれどそれは(必要に応じて、応用のためのツールだから)置いて、日銀の問題、財政の問題はいつかは解消されないとやはり、駆け引きに遭遇しやすい弱点のままだ。
でも一応、素人観測では、生活パタンの一部についてちょっと譲れるかもの話はしているので、ここは、そうではあっても石炭火力や石油火力やガソリン車を認めなくするやり方には大変な器具を持つというようなことばを使ってみたい。
でも政府系は工夫してグローバルな流れに折れて、そのことである範囲で悪だくみの駆け引きにしない範囲を持てているようにも見える。
その方向での工夫を一応受け入れることで、邪魔し合う駆け引きの嵐に巻き込まれることを避けているというような。
でもついていきすぎると、途中で梯子を外されると素人は想像してしまう。
なにしろ長期趨勢での寒冷化の論を先駆的に成したのはむしろヨーロッパ勢だった。
気温の趨勢の変化は如実で、それは地質年代からすれば短期に移ろいやすいことがデータからハッキリしている。
いつ何時(なんどき)ちょっと上昇傾向になるか、低下傾向になるかわかったものではない。気候モデルは未だごく限られた確実な媒介しか取り入れることに成功していないみたいだ(先日の丸山本)。
からからだと氷河になるほどの水分に足りないということは直ぐに気付ける。
でも水分たっぷり現象が続いているならば、寒い季節と暖かい季節の移ろい方次第では確実に氷河の蓄積に寄与することになる。
火山活動も水分と縁が深い。
炭素を資源にして回す発想からの発明発見があれば、厖大に発生する二酸化炭素を回収して、資源化するということが可能だ。炭素の可能性については既知のことだ。
結果としての二酸化炭素の説にちょっと傾いて仮説できるならば、何かが起こっている、ということに発想のその先を進めることができる。一体なにが進行しているのだろう。
今の原発は核エネルギーの使い方としては乱暴なタイプで、ウラン、プルトニウムをどうしても巡らしてしまうテクノロジーだ。
そのオルタナティヴはUSのローレンスリバモア研究所が先駆的なアイデアを発信していたことを中公新書だったか、古川氏の新書で読めたわけだ。
ローレンスリバモア研究所はそういう試行錯誤を他にもしているようだ。だから中にはしっかり市民が監視しないと危ないことも含まれているかもしれない。
安定で、ゴミにも心配ない小さい核融合に成功するなら・・・という極端な寒冷化に向けた期待を素人は時々書き込んできている。
今の原発はごみ問題の典型で、プラごみよりも始末に悪い。今の話題、ニュースで充分に気付けることだ。
方法を変えるだけで、少しだけ問題を先送りできることは昔からわかっていてそうしてこなかった。
10万年サイクルの氷期の到来を避けられないことと核ゴミの膨大量を想像したくないだろうけれど、現生人類にとっては寒さ対策だけでは済まないお荷物とご一緒で、やり過ごす必要を自らが持ち込んでしまった格好だ。
外国からの観光客のおかげ、低価格の商品のおかげ、不安定な低給料の仕事に就く沢山の人々のおかげ、そして大変な環境にしがちな施設介護に我慢してくれている沢山のお年寄りのおかげ、そういってしまうと介護現場の担当諸氏を一方的に攻めてしまう話になりかねないので一応弁護のために過酷なシフト順での夜勤をずっと続けるのを我慢強く耐えて介護に当たっている沢山の諸氏のおかげ(でもお年寄りたちへなにかと八つ当たり的にことばを浴びせ管理しようとする諸氏を弁護することになるわけではない)、給料バランスのちらばりが、利害のまとまり感を希薄にして、世の中の営みの不都合を改良していく合意形成に不都合をもたらしてそうなこと、それ以上に、市民的理念上必須のお互い様の応用力は距離感を持って干渉し合えることの巧み技を使いこなせる場数経験を持ちにくくしてきたことの不都合など、既存の勢力の元気だけどしがらみが密着し過ぎて言及不足成っているにもかかわらずオルタナティヴのことばが出てきにくいという現状へ、どうしようかの年寄りなりの素人流ヒントになっていると幸い。

列島在住の諸氏はだまって工夫し続けていると年寄りからは伺える。
万が一の災害時、テント生活とか、大き目の釣り用ボートでの非難とかが必須の状況も充分に想像可能だ。
今時、ビジネス系の番組でも取り上げられるくらいに、その種の物品・技の類が遊びとともに一般に普及していることを知ることができる列島だ。諸外国からやってきて列島に住み着いた諸氏が教えてくれる技や物品の類もありそうだ。
その一方で、列島在住だからこそ発想できる万が一でも生活機能として無茶を持ち込まないで済む知恵の辺りを提供できたりする。
暑いからといってばしゃばしゃ水を撒くというよりは、工夫して、ちょっと手間をかけて涼むために水を撒いている。撒く水のはねのところまで心が注がれている。それは余計なことではない。必須のことであることに気づければそれが生活上の応用力となりうる。
そういう性質のことに気付ける。
食糧・排泄ここらくらいまでは、既に遊びとともに、日々の繰り返しの中に、ちょっとした商品との付き合いの中で、部分的ではあっても取り込む趨勢を作ってしまったと言えそうだ。そういう列島を一方では伺える。
でも政府系はグローバルにしがらみがたっぷりのようで、思い切った舵取りはできていない。
万が一現野党系人士に(グローバルに関わってくる)しがらみが薄くて(グローバルに効果ありの)アイデアたっぷり系がおられるなら、きっと選挙には相当に力を発揮しそうだ。

連載は続く~SF掌編『皆さんご存知のソウギョを素人流に紹介したい』編


そいつは淡水魚にしては相当にデカい。ついでに、ひとなつこそうな仕草をしてくれる。
動きはゆったりしているから、それらとゆったり感の合成を想像してもらえれば、ついなついた感じで受け止める錯覚をかなり強烈に持たされるだろうな、と諸氏においても思い浮かぶと想像する。
そこらの雑草を丸めて、口元に投げてやる。するとふわーっといった感じで近づいてきて、ゆっくりパクっと大きく口を開いて吸い込む感じだ。
ヒトのことを気にしてそうにないけれど、ヒトからすればなついてくれている錯覚にとらわれる。

これは淡水魚系大物釣りの愛好家諸氏のページ(*1)だったけれど、お隣り中国では昔からの積み重ね知見として、列島でも知る人ぞ知る四大魚について、その組み合わせこその辺りに相当の知見を持っているみたいなことを教えてくれた。
家畜と似て、中国では家魚と見なしているらしい。
四魚とはアオウオ、コクレン、ソウギョ、ハクレンのこと。それぞれが1.5m から 2.0m くらいに成る(寿命は10年間ほどが一般的)。
知見の要点はというと、そのページから引用。

(ここから引用)
①陸草を刈って池に投込んでおく→ソウギョ(稚魚段階でプランクトン食)が食べる。
②その排泄されたふんなどを水底のタニシなどが食べる→アオウオが食べる。
③これらの食べ残しやフンなどで植物プランクトンとそれを食べる動物プランクトンが発生→ハクレン、コクレン(共に植物プランクトンが主)がそれぞれ食べる。
(ここまで引用)

*1:”中国四大家魚ストーリー~その奇跡の経緯を知る~”

列島の成立史は最近のBSNHKでも番組になっていたから多くの諸氏において既知と思うけれど、(広くプレートテクトニクスの作用から)3000万年前にひび割れが入って1000万年以上かけて日本海ができるようにして列島の部分部分が独立した。
その後1000万年余の間に伊豆諸島にあたる海底火山の列島方面への衝突積み重ねとかフォッサマグナの形成とか、数百万年間に渡る沢山のカルデラ式火山の噴火による造山を経て、今日の形になったと地質系専門家知見は考えているみたいだ。
ということで素人見解からすると、生物系は元々大陸と地続きの頃を起源に持っている。
その後のマダガスカル化とかタスマニア化の長年月が独自の生態系を作ったはずで、しかも、渡来の集団性を地質年代的にはごく最近に持っている列島という事情も考慮すれば、食べられる生き物系に関しては外来系と今は煩く細かく指定されがちだけど、素人体験的にはライギョが矢鱈はびこってヘラブナを激減させるとか雑魚を激減させるとかは数年間の身近な経験からはなかったことなど指摘して、棲み分けの長年月を経てきた生き物群という想定を持ち出しておきたい。
ここらは外来魚でも生態棲み分け長年月の枠を出ている魚群かそうでないかなど問題にできそうに思える。その観点を持ち出すことで、政治的な思惑としての排外とかの印象操作とは異なる、もう少し生き物共存性観点のサイエンスに近いところで、棲み分けの無理を強いない移動の範囲とかから、ブラックバスの類の釣り目的で移入した問題点など示せそうにも思える。
四大魚についてなら、ソウギョの大食が問題になるということだ。
植物を根こそぎ食い尽くすと列島では観察されている。
ここらへ素人発想は少しだけ異論を挟(はさ)んでおきたい。
ソウギョは上記のとおり印象としては大変にひとなつこい感じだ。
雑草を大変好んで食べる(偏食なやつもいる(実際に観察上いた)から全てとは言い切れない)。
食事への工夫次第では生育域での植物の根こそぎ食い尽くしを避け得る。
釣り人ページ知見=中国知見を参考にするなら、それなりの食物連鎖系の巧みが働いている。
タニシの子沢山、早さは田んぼの用水を見てみればすぐに気付けること。
ただし、中国では数百万トン単位での漁獲対象になっている魚種だ。(ネット検索から)
2m近い魚体が何千、何万と泳いでいる。
仮に食料用として上手く回すのなら四大魚が要る。そういう知見と受け止めた。
ソウギョの淡泊な白身はそれなりに美味いそうだ。
卵の性質から、利根川のようなゆったり流れる川にしか生育し続けることは難しい。
でも川ではない水域でのレンギョ系の群れがいたりするから、同様の卵ということでは、ソウギョほかが同様に育ちそうだ。
ソウギョにこだわってしまうけれど、観賞用にも、大きな庭を持つどなたか諸氏だったら錦鯉よりも多分その人懐こくつい感じさせる錯覚に魅せられそうだ。
錦鯉系は水槽で沢山入れて飼うと一定の大きさで留まるという性質を利用した、金魚プラスの色彩系の楽しみで飼う楽しみがありそうだ。
でかいのがゆうゆうと泳いでいるのと餌に寄ってくるその動きを楽しむならソウギョはかなりいい感じな気がする。
餌は雑草で清む。(2mの魚体だと沢山食うので足りなくならないようにすることが大変かもしれない)
グローバルには各地の大河川なりに大型の食用魚種が棲んでいる。
餌次第では、かなり安価に食の不足分を美味しく補(おぎな)えるとも思える。

連載は続く~ SF 掌編『ヒトの営みグローバル下の「列島」版』編

 

ステーキ調理がひときわ上手な二人のシェフが、各地に(ステーキの)名物料理を食べ歩き、スタジオにて自分流に再現調理して競うような番組をたまたまテレビで見ていた。で、昨今の世の中のことを想起しつつ、空想していた。
この番組に寄せてなら、NHK スタッフが各地で取材しつつ人脈を作って、その縁を使ってだれかとだれかとの出会いを媒介している。
そういうことを、たまたま毎日曜つい見てしまう日テレにて昼やっている『地方記者・立花陽介』でのエピソード構成でも本社から派遣されて各地で取材しながら地元と昔流に言うなら"赤っ恥"をかきながらひたすら近づいて仲良しになって人の縁を作って、必要に応じてそれを使わせてもらうタイプの生き様など参考にできたりしていて、その手のヒトならではの密であると同時に仕事上の距離感も伴わせつつそれと感じさせない巧みを日々積み重ねて、実に入り組んだ、ヒトがこんがらかって繋がる、独特なネットワークが生きている状態ということまで想像させた。
そうグローバルなところまで、ここではマスメディア業界が介してのような印象を撒いてしまったけれど、それ以外の膨大なねばっこいヒトの絡まり合いをこの世の中に見ようと思えばできる。
ただグローバルに政治的な駆け引きをかなりの中央集権を達成した組織体が仕切る住み分け要素を持ち込むこともできるので、その場合、それら巷の込み入った結びつきが活性しているのにもかかわらずの危うさも充分に想定可能だ。
一気に事態を動かせる。
とは言え・・のところにも今の情報網のオープンな様、状態が、一般に別のリアルを見せ付けるようにもなっている。
グローバルをなんとか仕切ろうとする勢力の下、諜報の網が暗躍して事を起こしたとして、露骨にワルを働けば、グローバルに評判は一気に下がり切る。二度と勢力としての信用を取り戻せないくらい情報が巷にまで伝わってしまう。
そういう偶然を一応、人々は生きている。
更に、中央集権で秩序だっている営みがどれほど難しい事態か、ということも知れ渡った。
そうしたい思惑で組織的強弱の試行錯誤が繰り返される。でも人々は闊歩してやまない。
そのエネルギーのまとめ方をヒトの集団の営みとして長年月各地で試行錯誤されてきている。
大学的な専門分野の分け方である程度エネルギーを注ぐ向きを制御できたとして、それなりに各自、各地で、産業のなんらかとして形にして持続の形も得ている。
ある時から大量生産の理想を実現できたかのように思えて、それに邁進して、でも理想の内実とは相反する事態をも並行させていることに気づけて、今時だと"地球温暖化"ということにして、問題に対処しつつ別の方向性を模索している按配だ。
話は戻るけれど、人々は乱雑にもするけれど、日々活発に動き回る。ヒト間のつながり形成も惜しみなく試行錯誤し続ける。その元気度に応じて、短期には優劣すら見せてしまう。
中央集権に夢を託す各勢力はそのそれぞれの思惑に応じた形を採用しつつ、まとめたがるのは仕方が無い。
ここらを引き受けて、寄り道すると、イデオロギーと関わることばの粉飾で人々は、若者たちは特に勘違いの方へ誘われ勝ちと想像するけれど、実際には組織だって試行錯誤する世界各地での営みが仮にイデオロギーことばで自分たちの抱負を語るとしても、実際のところ、どういう集団の営みを欲していて、実際に何かを成し易いとしたらどういった集団の営みになっていて欲しいかのあたりが肝になっている。
その為に実際になってみるとそこらが押し出してきて、つい無理強いのようなことをその思惑に応じて成しがちにする。
目標の為だ、今は我慢しろ、めいた常套句が飛び出しがちだし、それが目安にもなる。多分、どうにか自分たちの考えを上手くこなせるような集団の営みの良好な形を成したいと思い続けている。そしてヒトのランダムな動きに大抵の場合、辟易(へきえき)させられて、もう我慢ならん、でつい強圧にでたがる。その際、その組織状態の内実に応じて、巷の蒙る八つ当たり現象が様々に生じ易い。
個人の自由をより強く保とうとしてくれるのは通常(昔流に言うなら)左翼思想だと素人は指摘できる。個々についての尊厳は実に侵害されやすい。そこを掬い取ってくれるのが弱者をも同じように対しようとする左発想だ・・のはずだ。
個人の自由は脆しと同時にお互い様であることを忘れた瞬間にだれかの自由を侵害して得たほかのだれかの自由になりかねないしろものだ。
そのためのルール・法治が要る考え方だ。
しかも個人の自由に寄せた法治であることをたとえば公務系がうっかり忘れたりすると、そのうっかりの時に限っては、個人の自由がどこかへ忘れ去られてしまいかねない。相当に危ない状況を生む。
個々という要素と、当たり前のように雲散霧消させながらも集団の営みをも試行錯誤させてしまう巷の活性状態をただ放置させておくだけなら、人口動態ゆえの可能性をいたずらに無駄にしてしまうことも充分にありうるとヒトの営みは考えて、先のように例えば大学的な分野構成で技を分類して考えて、それぞれに育てて、混合も厭(いと)わずに、一応、今日の各地での達成を見せ付けている。
超高層建築はただ自慢話のタネでしかない可能性も残すけれど、ヒトの印象には働くから、それなりに別の働きをしているとも言える。一方的に無駄なことは多分ヒトはしてきていない。
だけど過剰には違いないし、ついそうしてしまう。仕方の無いことだし、人為だから、もし、他で使えるなら、という思考はいつも用意できていると、いつかは応用できそうだし、それだからといってやはり自慢話の種でしかなかも、のような事例に満ち勝ちになることもヒトの営みのクセだ。
荒っぽくではなく、なぜか、諜報脈が機能したのか、戦闘をかなりの程度抑止できて、一応政府を作るかというところまでは来た土地柄において、やはり、巷の自由度を気にしすぎて、自分たちに思い通りにしたくする、イデオロギーことばでまとめようとする勢力にありがちな挙にできすぎるの?そうでないの?と心配されている向きもなんとなくニュースからは感じられたりの事例が進行中で、中央集権の試みが千年以上続いてきた今時流行りのなんとか"遺産”のようなお国柄が列島での試行で、これには古代中国(の多様な人脈)の太っ腹が大いに関わっていそうだと素人は想像している。
列島の狭いところで易姓革命発想を実行していたらとっくにどこかの中央集権依存で秩序を保つようなことになっていたはずだし、中央集権を勘違いして王朝の仕切りを強引に営んでいれば、国として貧しいままになっていたはずだ。
優柔不断に外交をこなし、しかも優柔不断が発信し易い不信感をばら撒かない工夫もきっと緻密にこなして、列島在住の能力を各分野で応用できて、しかも貧しさのままにしておかない世界情勢判断も機能させてきた。そういう集団の営み面くらいは左、中、右の各イデオロギーで頭がいっぱいの各氏においても一応頭の片隅においておいて、役立つのではないか。

ここまでを前提、というわけではないけれど、家族の構成が巨大になるにつれて、養うことの困難は、恐らく、ちょっと考えるタイプ諸氏においてはとくに、簡単なことと察する。
ざっと眺めて構成員諸氏において自ら必要な仕事を"感じ取る"ということが規模次第で無理なことになってくる。自ずから、仕切り役が出てきて、差し配するようになる。どの仕事に人が足りないとかの類。
食わせることでも、食卓を囲むその規模が人のつながりと無関係な規模になってしまうところまで、抱え込むようなことはしない。家族的小集団の散らばりが自ずから生じる。
そして中には、近いゆえの比較意識の悪いのが生じて、なにかと諍(いさか)いになりやすくさせたり。
集団の長がなんらか口出しして簡単に済むことが届きにくくなれば、代役も登場で、公務系が相応しいという発想まではほんのちょっとだ。
理念的公務系はだれかれ差別無く対応することになっている。それは難しいよ、と通常考えられているけれど、一応、そういう理念でいこうと模索され続けているし、そういうタイプも昔から育つことは育っている。
おしなべて(そういう理念形に近いところで公務をこなすということ)が無理で、テレビドラマも作りやすい、といことになる。悪徳代官は裏の大スターなわけだ。
規模拡大していく中で、昔の温情の向きは忘れ去られていく。それも当然といえば当然かもしれない。だれかれと同じように心配してくれる可能性が失せる。
どうしたって気が利くやつとそうでないやつのバラバラに濃淡もそれぞれで、そういうお互いの遭遇の中で生活しているのだから、他人の芝生の話のような気持ちの問題がいつものことになる人々もちらほら混じるようにする。
個々の思惑はともかく、としておけるなら、とりあえず、個々の才能がそれなりに仕事に傾けられる状態が集団の営みとして機能している状態がより相応しい状態と見なせる。
そのためには・・ということで、ある時期から、稼げる仕事に就きたいはずだ動機を、採用するようにして集団の営みに使ってきた。
1960、70年代頃からそうだったみたいで、かの西岡常一氏がかかわった薬師寺金堂再建事業でも、かつての名人宮大工たちが三倍は稼げる都会のビル建設へと流れていって、人集めに苦労したそうだ。当の西岡氏は宮大工仕事以外は(仕事の性質が極端に違うため技術の保持に繋がらないといことから)請け負うことなく、貧しさを受け入れていたというから、大変な時代だったのだ。
稼げると思って給料指標に応じた就職活動をして集団の営みとしての結果は、共同生活上、ちぐはぐを生じさせて、できることなら住み分けたい、と内心思いたくなるような極端な格差を生じさせた。ほとんどが、大した金持ちじゃなく、ごく少数が極端な金持ちになってしまった。金持ちというと昔発想では頼りにできるだれか、という偶像に見なされ易いのだけど、今時の知見からすれば、無駄に莫大な支払い手段を溜め込んでいる困った連中に過ぎないと見なされる。ついでに、持ちすぎているのに、それがどんどん増殖しやすいしくみになっているから、更に困ったことになっている。
一方で、集団の営みの中央集権中枢では全体のために奉仕する必要上、独り立ちしすぎて、納税だけはしっかり監視するけれど、他は放っておいてかまわないごくごく少数以外の巷のそれでもちまちま次元で格差が生じていて、少ない方は生活にも困る危ない層も無視できない規模になっていて、それゆえに経済を回すための出費で悲鳴状態を囲ってしまう。ここらは近現代の経済の営みに仕組み上からグローバルに各地で生じさせ易い。
だからってごくごく少数の稼ぎを一斉に引き上げれば済むグローバル規模でもない。
そういうからくりに安住できると勘違いしているごくごく少数もいらっしゃるかもしれないけれど、恐らく多くのごくごく少数の支払い手段膨大量保有層はリアルなことに気づかれているはずだ。
膨大な格差を込みの困難な状況を助けられもしないし、贅沢三昧は一生続けることができるし、住み分けないと心配でグローバルに安楽な生活の場を得られそうにもないごくごく小数が、それでもヒトゆえに個人的思惑で出費の試行錯誤は楽しんでいる。
でもグローバルに展開中の集団の営みにとっての困難を解決するほうへと支払い手段をめぐらす知恵に欠けたままだ。
かつては、収入を均(なら)すニュアンス、発想から工夫をこらした累進課税の手法だったので、働く意欲問題、新規事業応用可能性問題などある程度想像し易い課題を踏まえて、避けられるようになってしまった。また税収の観点からも間接税に傾ける発想が並行した。
ここらはヨーロッパ方式の間接税タイプと列島タイプの間接税タイプの質的違いとして一時話題は提供されたけれど、根本的には検討されないまま税率論議で明け暮れている。
素人発想から、累進課税発想を復活させてみたい。
その場合、発想の根拠は儲け過ぎ抑止だ。
一応それでも問題をはらんでいて、だけどそこを先にこだわりはじめると話がちらかるので、まずは、累進課税を向けすぎ抑止のため、ということで話を進める。
たまたま歓迎される商品を開発できて、大いに売れまくったとする。
非常に儲かっている。それを累進課税の工夫によって、途中で頓挫(とんざ)させていいのか?!という話にふれる。
地下資源でも石油の場合、限られてそうにないことがわかり始めた頃に、脱炭素の流行が始まっている。
かなり長年月利用できそうな石油に一応気づけている、ということで押さえておける。
石炭は(可能性ということでは)更に・・・。
資源は限られている。ヒトと関わる場合。
儲けを膨大に得ているという状態は、支払い手段の占有量ということから、資源確保可能性がその分確保できていると見なせる。
実際に行使し始めているという場合も巷を見ればきっと探し出せる。
個人にも相当量支払われている。何かを買うにしても、より多くの仕事に満遍なく支払われるタイプをたかが個人の消費からは想像しづらい。
たとえば、自動車が一億台分、年々消費されているのと、大金持ちが高級車を1000台買ってばら撒くとかしても桁違いの効果の違いを即見ることができる。
仕事の波及性がまったく桁違いだ。
個々の巷の給料生活者が更に支払い手段を使ってくれる。そこまでくらいは想像しやすい。巡りめぐっている。
儲けること、その動機を邪魔せず、だけど、規模を策定して、それ以上の儲けは経済の営みをかえって妨害する可能性大ということで制御する発想だ。
儲かるからと同じ、似た、商品をずっと作り続けるために、多少心理的誘引トリックを使ってしまうということが続く、無駄過ぎについて、想像してもらいたい。
めぐり圏が狭められていることにも気づきたい。
雇用に関する波の短期版激しさみたいなのをある程度やんわり変化に誘うことも可能性として指摘できそうだ。
発想の違いを踏まえて、話が面倒になりそうな実は・・の発生してくる問題群に関心を持って、実際にできそうな累進課税のやり方は、と考えてもらえる事情通史はいらっしゃらないものか。
素人はこの程度しか指摘できない。しょうがない。

連載は続く~ SF 掌編『ラインゴールド氏以来のネット社会関連文章』編

 

相当以前に他で一般化し始めたネット初期での危ないほうへと向かわせがちな内からの力の向きの辺りをまとめてくれていたUS発の翻訳本(*1)について書き込んだりしていた。
BBS(かつて繁盛したネット掲示板)での書き込み熱が勢いあまって関係者の中のだれかを死に追いやるくらいの状態を招いてしまう。
やらせ演出業系な諸氏におけるリアルな他人誘導と絡む事件的なのとは違って、ネット経由でのつながりならでは、という落とし穴をネット初期の時点で明確に指摘されていた。

そういったことも含めて、ネット利用に関する注意はネット関係者も含めて踏まえて装置化するようにしてきたと素人には思えるけれど、媒体としての誘う力をどう扱うべきかについては今でも難しそうで明確な方向性は持ち出せていないみたいだ。
だから・・・と引用してしまうのだけど、実は、こちらの引用してみたくなったことが先で、そのための前置きだった。
コウノメソッドのことは何度も引用させてもらってきた。
サイエンス的な手続きを尊重しあえる世の中だから、そういう距離感で引用させてもらっている。
鹿児島発で熱心に発信されている方もおられて、その 2021-09-06 分、『Youtubeに嵌まる中年男性を見て、同じく中年男性が感じたこと。 』が、ヒトは霊長類とかつい思いたい気持ちはわかるけれど、生き物たちと共に居るだけなのさ・・というスカっとした距離感でネットの今時をざっとまとめてとらえるのに参考になる観点を提供してくれているように感じた引用したくなった次第。
前後のエピソード記述に目を通すことでより効果抜群なので、そこは是非ネットで本文を参照願いたい。
で肝心のところの(第一部を(更にその先で専門書ぬきでしかも短文なのにエピソードとともに重要な概念をすっと<心身に>入り込ませるような記述がさらさらっと載っている))引用。

(ここから引用)
"禁止と伝えなかったのは、彼の言っている内容はさておき、他に趣味もない(らしい)初老期男性の貴重なドパミンの発散先を奪うと、それこそ認知機能低下を起こさないか心配だったからだ。"
(ここまで引用)

施設介護を経験されれば直ぐに気づけるはずだけど、短期の場合、待遇悪いぞ!と思えるだけでおもボケにくい。
それでもそれが長続きしてあきらめさせられるように仕向けられ始めるともうヤバイ、ということ。
ひょっとしなくても恋愛なんて老人には無理という発想も間違ってそうだな、と受け止めた諸氏が大勢いらっしゃると思う。確かにそうだと素人にも思える。
ただし、(女性も男性も)老人諸氏はしっかり個性化していく死ぬまで。だからある意味頑固な内面が個性としてきらきらしていらっしゃるのが実際だ。
また思い込みの固定化といことも指摘できそうだ。
異性である相手はこうすればこう答えてくるはずだの良い方での解釈を譲らない。
で寂しい反応を得てしまうかもしれないし、ある近づきを得ても、その先でなによこのひとぉ!!となじられるようなことにもなりかねない。
今時の現役世代ならばそうなる前にハッキリことばで言い合う。
そして若いうちなら、出会いの機会は溢れているけれど、老人生活世界では、機会が有り余っているにもかかわらず出会って逸れ(反(そ)れ)まくる。頑固だからその通年と違う相手の所作は気に食わないとかが直感的早さで交感する。出会いの場を用意しても大抵は機嫌をだれかしらが損ねてその場がもたなくなりがちにする。
ゲームとか熱中できるなにかを工夫に工夫して場を持たせるくらいが華だ。
自分たちで、というのはできそうでできにくい場合が多い。
気の合う何人かでいつもまとまりがちに、住み分けがちにする。
世間がそうだ・・かもしれないけれど、そういうケースは少ない。
デイの集団娯楽時間のような演出でひきつけておく、ということもできることには違いないけれど、そういうヒトの状態にしているだけだから、認知症系の回避策にはなりにくいと素人観測では指摘しておきたい。
だから、ちょっと興奮できる熱中ごとというのは老人生活では貴重だ、と素人も同感できる。
それが単調に・・繰り返されて・・・が問題化しやすくする。
だから恋愛ごとは変化に富んで・・とシネマの『ニノチカ』を持ち出して別の話にしてみたい。

でも『ニノチカ』を持ち出さない今回は、先のように恋愛ごとも老人生活では相当に難しいだろうな、と諸氏には思わせておきたい。
ヒトの(イメージされ方で様々を生じるから乱暴な持ち出し方には違いないけれど)"生身"を承知できた老年たちならば、恋愛とかもほんのごく一部として、もっともっと有り余る時間を様々に熱中することを見出すことはかなり簡単なのでは・・など素人は想像している。
ただし、はまり易いわけだ。ヒトというのは。問題はそこだし、同じように、熱中できていることのかけがえのなさを結果的には認知症先送りということで余生の膨大量を満喫もできる。

*1
ハワード・ラインゴールド
『バーチャル・コミュニティ―コンピューター・ネットワークが創る新しい社会』
('95 三田出版会)

連載は続く~ SF 掌編『そろそろ・・・』編


ヒトは切羽詰るような状況下、得てして考えることも含め、慌(あわ)ててしまいがち。
そこで、たとえば避難のためのトレーニングやシミュレーションの類を日々積み重ねたり。
その実質の所は、心身へある一連の動作に慣れさせておくということを想起させる。
そうしておけば、直感的反応に近いごく短時間での緊急事態への対処可能性について、蓋然性(がいぜんせい)を高めておくことができる、と目論(もくろ)めているわけだ。
想定状況との離れ具合とか状況判断とかその場で生じ易い問題群はあると思うけれど、それでも、近似対応として、慌てふためく状況をかなりの程度制御させた上で実際的短時間での対応可能性にかけることができる。
コロナウイルスがヒトの巷を騒がせている(ようだ)。
まったくわかりにくかったごく初期ということを多くの諸氏において想起できる今時を押さえておける。
やがてある程度、どういう過程でのできごとかをたとえ暫定的であっても整理可能な時期を迎える。
素人的にはその2020年(令和二年)のいつ頃かで軌道修正が必要だったはずだと指摘してみた。
なんだかわからない恐ろしいコロナウイルスによる病気へ、一般の諸氏が対処すべし、だと、それこそ困惑(こんわく)が続いてしまう。
ニュース系の番組で大活躍の解説諸氏においてはその為の素材が提供され続けて、なにやら恐ろしい病気だから充分に注意しなさいということを用意された時間を丁度使えて発信することが各局で繰り返されている。
感染症とかウイルスとか実際にはサイエンスとまでは突き詰めなくても、諸専門家にとっても難問、そう簡単に整理できる事象ではないことは周知のはずだけど、ニュース報道でわかりにくい分野とかハッキリ言い放つことはできないし、素材提供の準備が良いのか、ことばだけは連ねられるようなことになって、難しいはずなのに、わかったようにすらすらと怖いよと発信し続けているのが今時だ。
その空虚(くうきょ)を素人が指摘することは簡単過ぎる。
でもある"世界"ではそうできてしまっている。
それら報道解説ではマスクをしていても感染するんだ。怖いだろ?と言ってのける。
すこし落ち着いてみよう。
声は小さいようだけど、マスクの目の細密さはウイルスを通す(そうしない高価なマスクもできているようだけど)、と一方ではささやかれ続けている。
万が一の切羽詰った状況ということを思い出そう。
慌てない策が必要だ。
マスクはツバの類をマスク内に留めてくれる便利な道具だ。
クシャミやセキが激しい病状の時期にはそういう目的で使える。
コロナウイルスをめぐる賑やかな話題はヒントも提供してくれた。
コロナウイルスはクシャミとかセキで放たれたとして、結構な時間、再生できる能力を保っている。感染源としてそのままでいられる。数時間とか。
だから・・と即諸氏においては想像できたのではないか。
マスクに溜まったツバの類はウイルス保存庫になっている。
そして目は粗い。距離を取っているとはいえ、放(はな)たれ移動に応じて空中を舞うのだから、感染を広め易いと考えるのが感染予防のためになる。
そして、この手の観点に役立つようなことばが実は報道系からは希薄なままが続いている。
安価だし手に入りやすいからこそ(クシャミ・セキで汚染されたり、無症状の感染状態な場合)ごく短時間で使い捨て(捨てる場所をどうするかも要注意だ(ウイルス貯蔵庫になっているから))する必要があったわけだ。
流行の方は、おしゃれなマスクとか恐らく使い捨てたり、しょっちゅう洗い流したりしていない使い方が"蔓延(まんえん)"してそうな気配だ。
そして素人観測では、わけのわからないコロナウイルスという発信を訂正してインフルエンザと似た対処を考えて行動するとかなり役立つよと相当早い時期から発信しておくべきだったと考えている。
いつでも新しく生まれてくる子供たちにとっては母親の影響が無くなるのに応じて免疫系にとっては新型のなんんらかとして応じることになって、重症化の危険も伴う。
だからヒトの世(よ)は、子供たちの健康状態を活発に保つよう、色々知恵を絞ってきた。
今時は天気予報にけちをつけるつもりでは決してなくて、ただ例(たと)えに非常に使いやすいので使わせてもらうのだけど、持ち物とか衣服とかなんやかや天気変化の不可抗力に対応できるように一般の視聴者に向けてより具体的にことば使いは浸透しやすい工夫まで成されて日々・時々刻々発信されている。そういうことに慣れてくると、天気の移ろいを肌感覚でとか自然の現象の移ろいから判断するような癖を失っていって、つい言われたとおりの方へ向かい易くしてしまう。そして八つ当たりめいて、言ったとおりじゃなかったじゃないか!とか優しく憤(いきどお)ってしまうとかが起こる。
子供たちの体の活性状態を保つとか育てる発想の内実についても、親たちが自前の自力をそれなりに改良伝承してきているなら心配はそれほど要らないと思えるが、報道依存になっていたとしたら、多少心配もできそうに思えるといことを指摘してみたかった。
ヒトの世が続いてきたのは、感染症により多くが罹(かか)って、免疫能の準備を怠らなかった面を多分指摘できそうだ。
その病気、どういう過程を取る?で地域の現象をしっかり大人たち、好奇心旺盛な若者たちが観察して、ある時、見極める。そして感染を恐れるのではなくて、感染後の過程について観察して得たことの整理を試し、試した結果からより確実な方法を日常に埋め込んでしまう。だから、心身化して記憶された手法は時に迷信ともとれるような錯誤も込みで、相当に実用的な対処法として伝承される。
そこを改良込みの伝承が可能な土地柄であれば、間違いを減らし、より適切な対処法を磨き、その経験すらが、新たな事態への対処法により適切さをもたらす。
ただちに致命傷となるような感染源は、より厳密に感染しにくく対処して、封じ込めでなんとかしやすい。ヒトが移動して感染させまくるということは起きにくいから。
致命傷になりにくい感染だと、ヒトの活発さが蔓延させやすくするけれど、免疫系にとって初めて体験、となる感染の場合、特に子供たちが迷惑するけれど、そういう子供たちであってヒトは経験的にどういうからだ状態にしておけば感染に対して致命傷的な状態を回避しやすくするとか知り続けてきた。ただそれだけだと"運悪く"・・というごく少数を避けられなくしてしまう。免疫系の弱った同時期のだれかたちも致命傷を得易かったりする。
そこらをインフルエンザの現象は今時の人々へも説明し易くする。
人によってはただのインフルエンザ、では済まない事態を生じさせる。
高熱になりやすいし節々が痛んでどうにもやりきれない気分にさせたり、万病の元のきっかけとなってしまったり、とにかく今時のインフルエンザも感染しただれかにとっては迷惑至極なことはずっと同じだ。
ただそれに罹りにくくする工夫もヒトはどういうわけか心身化に成功してきた。
集中して体が疲れている。でも緊張を保っている状態、だと意外に罹りにくかったりする。
でもその状態で油断してしまうと、風邪っぽい症状に気づいて手遅れ、ということが起こったりする。
今知られてる免疫動作の二段階の初段の方の活発度が上手い具合に感染源と遭遇したときに元気だと、なんとなくやり過ごせる。でも、ちょっと不具合だったりすると、早速、感染して第二段階依存で必然的に最低限の期間を要することになってしまう。
今流行りのコロナウイルス諸症状に関しても、ヒトの世の中に引き摺(ず)り下ろして、ヒトに馴染ませることが求められている。攪乱要因(かくらんよういん)のままにしておくことは賢くないと、素人は見ている。

連載は続く~SF掌編『ごく稀に(施設)介護の話』編


たとえば起床ということで、お一人ではその必要なことのほとんどをこなしにくい心身の条件をお持ちだったりするどなかたをお手伝いする、という場合、急かせず、でもかっちり決まっているスケジュールには合わせる必要があるとして、起きて着替えて、身支度して、(たとえば)ベッドから車椅子へ移乗して、洗面や整容やをして、トイレへ寄って・・などすれば15分から20分は最低限でも要してしまう。
特にトイレなどは、その時々で時間は違ってくる。
介護度の数値の大きい方々が大勢の場合、たとえば、ある担当者が10人のお手伝いをするとして、同じ程度に重い、としたときに、その最低の要時間は

10分×10人=100分
100分÷60分=1時間40分
ないし
15分×10人=150分
150分÷60分=2時間30分
ないし
20分×10人=200分
200分÷60分=3時間20分

ここらは起床時刻が決まっているとしても、どうしても逆算してあるタイミングが要るということを示す。
一見スケジュール通りに動いているとかいかにも仕事熱心なように振舞ったつもりでも、この要時間のからくりを熟知しているだれかたちには通じるはずがない。
どの時刻に起床が始まったかで、そこに住むお年寄り諸氏への介護の仕方の実質が明け透けになる。
あなたが自分でできるとして、起床して、皆が待つ、広間へ行くまでに、たったの10分で済ませる場合、どういうことをなさっているだろうか、と一応質問できるわけだ。
そこを他人が関わって、要望を聞きながらのやり取りと成すことを並行させて、それが心身へ急かせる感じでない質を持たせて経過できる、という場合、どれほどの時間を要するか。
7時に起床して、8時から朝食だ、とする。
7時起床では間に合うはずがないわけだ。
でも要する時間と人数からある程度の計算は可能だし、施設の就寝時刻は世間が驚くほど早い。
そこらが応用力とつながる。
ただ、先のように一見仕事していることにする施設の現場担当諸氏においては、決まり通りを盾に、或る思惑が内輪を構成し易かったりする。
早めにご家族と面会する約束をして、早朝の姿を見学することも老親のためになりそうだ。
それが無理な場合は、身なりや部屋の片づけ具合を面会のたびに観察することで、自ずから判断できる。
判断できたとしても、弱みを感じる向きの方々が多いのかもしれない。
でも、そこは経営層をある程度信じて、クレーマー的なことば使いにならないよう注意して、現場に一応ことばを投げておいて、管理職諸氏へ、明確なことばを投げてみる、ことが、施設を育てることに通じると素人的には指摘できる。
施設を育てることになるという感じに受け取ってくれないで、クレーマーの一種かのように一方的に見なされる場合か、丁寧にお引き取りいただくような対応になることもあるかもしれないけれど、丁寧に観察して話す材料を整理しておけば、それなりに対応してくれるのが経営・管理・事務方層だから、そこらは試すことが大事だ。
お客がいきりたってクレーマーになって、でない限りで、客の必用とコミュニケーションできることでサービスのなんらかのヒントを得られることは、ある程度サービス競争面も持つ業界だから、有難いことに属する。
現場がどういう活性状態にあるかで、ニーズへの受け止め方は相当に違ってきてしまう。
(夜勤が続く極限ストレスを意識しつつも、介護の面白さ(ざっくり表現になるけれど、人生のたっぷり先達・先輩・熟練諸氏ということで(お一人お一人が"個性""孤性"になってしまっている)やはり面白いわけだ)が上回ることもあるので、ニーズ対応に向かない現場ばかりとは限らない)