連載は続く~SF掌編『ヒトは投企する』編


そこを取る取らないをめぐって競っている。
で一方は、ある指標に基づき勝者であることを表明しつつ抱き合わせ技として仲良くしようねと言う。
列島では通常この種のやり方をこどもの駄々っ子と見做(みな)す。
聞き分けがあるならばちょっとは聞く。それ以上は熱が覚めるのを待つ意味で放っておかれる。
無理は通らない。
USも含めて基本構造として法治を目論んできたのが近代へと連なる試行錯誤だ。
未然のまま継続中。
そこで、大国USはもちろん、かつての大国やこれからを目指す諸国は、こどものりでそうは言ってものところを受けて、法治尊重の線で反応している。
周辺諸国はお付きあいがあるからと素人には思えるがそう率直には対せないようで様々な反応が見られる。
ヨーロッパ諸国は第二次世界大戦の後散々だった。だからUSが資金的に救う格好を成しえた。そういう事情が深く続く。
でも内部的にはきっと事情が様々に入り組んでいると想像できる。
他の諸国はどうか?列島政府は?など興味を少しだけ誘う。
帝国支配という工夫要素を指摘し紹介されたのは副島氏だった。
そういう条件も重なって、個人へと祝福してしまう土地柄もあれば、国のまとまりへと祝福を送る土地柄もちらばっている。
勝ったからあなた方もこちらの仲間として仲良くしようと、とこどもノリの我儘を通そうと某氏ご本人は思っていないと思いたいが、取り巻き脈はかなりの勢いでことばをまき散らしている。某氏がこどものりくらいは受け入れているかもしれないけれど、取り巻きはある種ムキになっている可能性もあり、こちらからのことばかけは、慎重さを求められている気配すらする。
実権が生じているわけではない。それは任期ということで鮮明だから。
けれども、ことばかずは膨大だ、少なくとも列島のこの二、三日のニュースにはかなり激しいことばが一方的に使われている。そこらは、しかし周辺諸国のお付き合い事情として素人でもかなり想像できそうに思えている。
だけど、ということも素人だから考えてしまう。しかし、メディアの論~マクルーハン氏らの活躍後を今時の人々は生きていられるので、ある程度、視聴しやすい事柄をパッチワークすれば、それなりに色々を報道していることにも気付かざるを得ないし、そういうことも含めて諜報活動の計算には載りやすい、というのが現代の困難とか面白さに違いない。
そういう状況論を素人っぽく言い放ってしまって、軌道を戻すなら、それでも、投企の様々には取捨選択が要るから、お互いさまの原則を尊重出来ている度合次第で、こどもがやってることだからで済ませられる場合と大人のくせにこどもっぽいじゃないか、というのは区別が要る、くらいは指摘しながら、そういフィルター応用をしながら、自由な表現行為や移動や、参加やを人生の各所に組み込めた人々の営み可能性を近代国民国家を採用しているところはそれとしてどう実現してるんだろうね、とか眺められることも時には大事だ、と思える。
いつでもお互い様を忘れないようにしておく。
すると、老親をたまたま預けてなんとかの境遇の諸氏においても、何を言うべきか、すべきかの判断基準を得やすくする。
そういうやりくりを膨大な人々がなしつつ、世の中の様々として、ある程度の安心・安全・発見・発明など試行錯誤していける敵味方構造に見なす観念操作に染込ませない人生の初期からの啓蒙と育てがどう可能になっているかも、列島版くらいは自覚的に検証しつつの人生がありうるといいのではなど、年寄り(だからだけど)めいたことばを持ち出してしまう。
何かをすることで迷惑にならないか、なんていうことをいちいち考えているだれかは、参加の内実自体すら怪しい関りしか中々生じずらい。
ある程度の積極的とかしつこい関りを工夫を下敷きに可能にした連中が時々の中枢を取り巻く。そして表舞台用を自ら打って出る場合もあれば、担がれて出てくる誰かもいらっしゃる。
そういういかにもな場でなくても、ある考え、こりゃいいアイデアじゃないか、なんて自惚れて広めたいな、とか思うだけじゃなく、形にしたくなって、その途端に実は、限れた資源をめぐって”取り合い”になる場面とほとんどの人々が遭遇することになる。多くが日頃考えアイデアや見識を培(つちか)っていて、持ち出して表にした途端にそれぞれがぶつかり合う。じゃどれ、ってのはあくまでも外野のことばだ。当人たちにとっては、こんな良いアイデアを形にしない手はないだろ?だ。でも思慮の度合の違いを感じ取れる連中は、それの衝撃波の凄さに圧倒される場合もある。そこで謙虚に引き下がるということも起こる。でもそういうことばかりじゃない。だれかの凄さをわからなくて圧し続けるということも起こりがちだし、お互いが分かり合ってないということもあるだろうし、分かり合う中で、どちらとも判断しかねない宙づり状態を味わうこともしばしばだ。
だけど、資源は限られている。資源を多くすれば、は、これもやはり外野発想に近い。
或いは将来を見通して、将来こういうことが起こったら、競い合いとどちらか選択とかにならない準備をしておこう、なんていう都合のよい思惑は、時差ゆえに大抵無駄にしがちだ。将来の条件となると精度は相当に落ちて予想するしかないところを、勢いづいている時は気づけない。
けれども、他人を殺傷するような事態を招きかねないとかをかなりの確度で推理できる場合は、そこで検討対象であるどなたかの投企を中止するよう求め得る。
なぜか、否、折衝事などヒトのやり繰りを振返ったら、しょっちゅう、膨大じゃないか、とか軽くおっしゃる向きもきっと密かにいらっしゃることだろう。そこは諸頼に向けた年寄りで素人思索の線から、こう指摘しておきたい。殺傷事の顛末は、その後の縛りとして、人々のやり繰りの可能性を極端に絞りがちにする。単調な試行錯誤の場に向かわせがちにしてきた。忘れた頃になってやっと、子供たちにとってもいかにも子供っぽい楽天的賑やかさを許容するようにする。そうなる前は、恨みつらみの渦が集団の営みを引っ張る力にしがちにして、物事の推移を単調化してしまう。ヒトって、こんなことしかできなかったんだっけ?的。
戦闘の危険を回避して過酷に生きてきた集団の営みの芯の記憶は忘れてしまって、なぜかはわからないけど、そうしてきたのだから従えで女性性へ圧迫系の力が働きやすい集団の営みにしている土地柄はそこらを率直に振返ることで改良そのものは簡単と思える。その先、じゃどうしてこうか、ということでは、それまでのオルタナティヴ発想をどれほど鍛えてきたかにかかるかもしれない。
ただ、ヒトにとっては、どういう知賢の諸氏だろうが、決定打を持ち出せるメカを観念系がもちあわせていないゆえ、持ち出せない。そこで選びあうようなことを避け得ないし、避けるために独走を強引に、という億劫がる脈も生じやすい。ただし積年ということが幸いして、集団の営みとして、各地でそれなりに融通ももちろんだけど、手法、考え方として、近道手法を編み出している。
列島版ならば、負け感をできるだけ生じさせない決定とその線での実現を可能にしてしまう付き合い方のぐにゃぐにゃ手法だ。
ここらは列島版が先験的だったかどうかはわからない。でも今時は、グローバルな諸現象が、ぐにゃぐにゃに当事者が傷つきながらも達成をこなされている。それは大変な立場と察するが、だれも”カッコいい”だれかとして担い手になっていない。たとえるなば傷だらけのバットマンを思い出せる。ノーラン版のバットマンがいい。相手まかせだし、スーパーマンには程遠い。考え方も無理はできないけど助けたいめいたことを言っている。
そういう主役たちが入れ替わり立ち代わりで表役、裏方を担って、とにかく要所を担うことの重責をこなして、世の中の或る達成は蠢いている位は持ちあげるわけではないから、素人流に指摘しておけそうだ。
だから装いとしての弁証法流役割分担は使いようがあるんだよ、と諸先輩とかその系統の若者諸氏には反論されるとは思うけれど、やはりそれだと労の割りに、の辺りを返せると今でも思えている。
だからって安易に同じ考えどうしが集まってでことが成せるわけではない。ちょっとした詰めで即、理解度の極端な違い、志向のその先の違いが質的問題を噴出とか色々生じやすい。そこが観念生き物のヒトの属性で集まるとなにか出来てしまうにも関わらずの面倒に違いない。
そしてその時に投企が錯綜しているけれど、内実を探りあえる余裕さえ持ち合えれば、取捨選択して、少しだけ候補を絞り込めたりはする。じゃ、捨てた中に・・、ももちろん、判断ミスと結果的に言えてしまえることが起こるのはヒトの営みの常だ。
とそういう風に、振返れる余裕をここでは締めに使っておきたい。