連載は続く~ SF 掌編『500年代末から600年代にかけて古田説を介してまとめてみた』編


①九州年号”法興”(考古資料と古い文献資料についての重み)
法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘中の年号
 「法興元卅一」
◇伊予風土記での法興(以下引用は平凡社東洋文庫版読み下し文から(p330-331))
 温泉の章に「法興六年十月、歳(ほし)は丙辰(ひのえたつ)に在り。わが法王大王と恵慈法師および葛城臣とは夷与の村を逍遥して、まさに神井を観て、世の妙験を歎じ、思うところを述べたいと思い、いささか碑文一首を作る。つらつら思うに、そもそも月日は上天に照って私心なく、神井は地下に出て尽きることなく与える。万機(まつりごと)はこのゆえに絶妙に照応しておこなわれ、人民はこのゆえに安穏に暮らす。すなわち日は照り、水は供給し、かたよったところがなく、全く天寿国(極楽)と異なることがあろうか。」

②隋史卷81列傳第46東夷倭國の記述(六国史原文だけからは気づけない内容の重み)
 倭王姓阿毎字多利思比孤号阿輩雞弥
 王妻号雞弥 後宮
 名太子為利歌弥多弗利

I 多利思比孤
II 王妻
III 太子

旧唐書卷一百九十九上列傳第一百四十九上 東夷百済伝中の倭国関連記述の重み
 ”白江”:2箇所
      「自熊津江往白江以會陸軍」
      「仁軌遇扶余豐之衆于白江之口」
 ”倭”:
      「南渡海至倭國」
      「遣使往倭國」
      「又遣使往高麗及倭國請兵以拒官軍」
      「忠志等率士女及倭衆並降」
      「交通倭國」
*③’旧唐書卷四本紀第四高宗上での記述
 古田武彦著『法隆寺の中の九州王朝』('88 朝日文庫版)から(p291)
      「顕慶五年八月庚辰」(660年)の記事
      「顕慶五年十一月戊戌朔」(660年)の記事


①について
考古の学からする確実性の度合いと照らして、”法興”が彫られていることを明確に引き受ける必要があると素人は考える。
しかも、古田氏らの研鑽努力により、江戸頃にすら九州年号を探索されていて、それなりに記録は残っていること。
それらを整理すると、
西暦 干支 九州年号              天皇
594年 甲寅 吉貴(喜楽-端正-始哭(始大)-法興) 推古2年
逸文の伊予風土記だけれど、しっかり”法興”文字は使われている。
九州年号からこそ釈迦三尊像の時代を特定できる。しかも紛らわしい解釈が蔓延した後の発見だから、”面子”の脈が働いて、簡単に変更できることができにくくなっているようだ。

②について
古田氏らの著作が出回っているので、周知の事実にしろ、面子の問題が災いして、これも素直に3人の記述とせずに無理やり2人のことにしている。しかも性別まで無理やりに変えている。
Iには妻がいる。だからこれだけで当然二人。そしてIII太子が居る。合計三人。

③について
中国の正史の本紀での記述における年代をどう歴史家は受け止めているのか。
とにかく戦争的な脈絡での倭・百済高句麗と唐・新羅間での戦闘事は660年に決着がついている。
諦めきれない残党が騒動を起こして、しょもないやつらだ、と怒りを買う事態がその後に確かに起きているけれど、本紀で扱われる事態となってはいない。


①②③をざっと眺めていただいて、素人観測は藤原氏の出現と結び付けたい。
③からは中国も圧す、だけど、半島に向けて失地回復欲を有する危ない面も含ませた藤原脈(と観るのは素人なのですが)ということから、残党系ではないことには気づける。
危ない面も有するけれど、①で長く引用した伊予風土記の内容を参考に無理やりしてしまうなら、知識系にはそういうことを既に頭に入れることが可能だった、ということを、勝手に想像してみたい。
理想は結構簡単に裏切られて性格をあくどくさせる作用も持つから、そこらは事態として慎重に見ておく必要くらいは指摘しておける。
古田氏らの試行には、評と郡との使い分けを歴史的に理解した上で、九州王朝の覇権が及んだ範囲を列島の東へとかなり拡大したい思惑も含まれている。そこらを素人はまったく意に介していない。
中国系との一緒の事業がハイウエイを成させ、中央集権の諸制度を留学生・僧らの助力も得て推進できたと見たい。
でも列島内中国・四国・近畿・中部・北陸・関東圏は散らばった”(今以上の)自治体”が機能していた可能性ありで、中央集権に従うよりは自分たち流の方が余程うまく集団の営みを円滑にこなさせるという自信たっぷり系がいたようにも想像したい。
こう見ないと現状を理解できないのではないか、と素人ながら、現在進行形の事態を心配というか、そうではなく、事態の推移とか発信について見誤るのでは、と、そちらの方には心配できる。
戦国とか列島全体規模で移動・居住を繰り返してきた層がかなりの規模いらっしゃるにも関わらず、列島内では、そこに長年月住み着いて、伝承を担ってきた諸氏も相当数(と言っても数は限られていて長兄とかその類のシステムが求心力の要は押さえ、でもその他は食うために散らばっていったのはいつの時代も似ていたかもと思える。)
列島全体におられるはずだ。
敗戦の画期以前と以後の意識的事業の変化くらいは押さえて、歴史資料に当たる必要を指摘できる。

* 尚、今日において、歴史系の出版が盛んで、古い時代の文献を学者諸氏の労作とはいえ安易に読み下し文にされても、かなり誤解が紛れ込みやすいと素人は思え、ちょっと調べたら、なんとネットでも中国の正史について、漢字で記されたものが公開されている。
隋書の”俀国”伝は、列島の安易な翻訳系と同じで”倭国”に直してあるようだ。
上記①②③については検証可能です。
 調べていて気付いたのだけど、角川文庫版の『風土記』も今では原文付きになっていた。是非参照してください。