連載は続く~ SF 掌編『一大国から伊都国まで』編


酒井氏の邪馬台国は大分の別府温泉だ論を何度も引用させてもらっているので、どうしてそう言えるのかの辺りを一応紹介しておきたい。

壱岐(一大国)に来て、その先のことだ。
やや海進が残っている時期で九州北部の海岸線には入り江もありで、考古学講座(ちくま新書)で各著者が指摘されているように、昔の舟の性能からそういういかにも港に使いやすい地理的条件があるようだ。
魏志倭人伝文中の方角、距離(当時の中国の方角計測力(太陽による影からの応用)・距離計速力(歩幅))はかなり精度良く使いこなしながらの行程と見ているから、壱岐からの方角(海)と距離(千余里)と港条件、航行条件(関門海峡は潮流に難)など勘案して末盧国は枝光に特定。
近辺にはランドマーク貫山、山王遺跡、城野遺跡。
次は帯方郡の駐在員が常駐する伊都国。
東南・陸行・500里。
その昔から使われていたと想定できる日向街道沿いを行く。
枝光からやや内陸のルートを城野(上記の遺跡あり)・苅田(石塚山古墳)そして川を2本(長峡川・今川)舟で渡って行橋、更に祓川を舟で渡り海岸線へ向かって最後に城井川を舟で渡って築上町湊(伊都国)に着く。金富神社や築城五反田遺跡・築城小迫遺跡。
湊は重量物の運搬の際使われたと想定している。

以上『邪馬台国別府温泉だった!』の第2章、第3章から。


毛筆も面白い。
ということで春名好重著『書の古代史』('87 新人物往来社)を参照した。
学術書ではない体裁のため、引用元の細部を一々指摘してくれない。
たとえばp21から(以下引用)
"天平十六年(七四四)光明皇后は王義之の『楽毅論』を臨書した。光明皇后が臨書した『楽毅論』が正倉院に伝えられている。"(引用ここまで)
ということで続日本紀のこの時期の記事を探ってみる。
しかし見つからない。
春名氏は序章において、九州・近畿圏問題への参考となる書にかかわる知見を整理されている。そこでざっとだけど整理して引用。

p14に
千字文』が梁の周興嗣(~521)によって撰せられたと氏の説を紹介されている。
p15に
履中の四年(秋八月八日)の記事に諸国に国史を置いた。へコメントして、当時の諸国に記録をつかさどる官人を置いたということは考えられないと指摘している。
p16に
飛鳥時代の真跡は聖徳太子の『法華義疏』が残っている。また、金石文が少しある、と指摘している。
それら書については”巧妙にして優秀である”と感じるところを紹介する。
『伊予風土記』の逸文によって知ることのできる伊予道後温湯碑文については、聖徳太子に随従して道後温泉へいった百済僧の恵聡ではないか、と説を披露している。
元興寺の露盤銘の銘文については、「書人」は帰化人の百加博士と陽古博士であるとしている。
法華義疏』については、作成時が中国では隋の時代だけど、書風は南北朝時代六朝風と紹介している。
論争になりやすい法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘も同じ法隆寺の小釈迦像の光背銘も六朝風と紹介している。
この時期、百済を経由しては南北朝南朝の文化が伝播され、北朝の文化は高句麗経由と指摘されている。
話はややこしくなるのだけど、
p17に
釈迦三尊像の造像様式は北魏様式と春名氏は指摘する。
加えて、上記三点(法華義疏釈迦三尊像光背銘・小釈迦像光背銘)の書風は同じく北魏様式、とハッキリ指摘している。
大化二年(六四六)元興寺の僧道登が宇治川に橋をかけ、宇治橋碑が建てられ、その破片が寛政年間に発見された。この書風も六朝風と指摘している。
同時期の中国では後年お手本となる太宗の晋祠銘や欧陽詢が九成醴泉銘を書いている(=唐風)。
p17-18に
法隆寺金堂の四天王像のうち広目天多聞天の造像記の書風は唐風。
p18に
舟首主後墓誌の書風は唐風。
朱鳥元年(六八六)に書写された『金剛場陀羅尼経』の書風は欧陽詢風。
同年に大和長谷寺の法華説相図銅板銘(千仏多宝仏塔銘)。その書風が用筆法こそ違え、欧陽詢風。
p18-19に
以上から、欧陽詢風の使い手が別々の土地に育っていると春名氏は指摘している。
p19に
正倉院に残っている戸籍から当時、沢山の能書(書のじょうずな者)がいたことがわかると指摘している。
慶雲四年(七〇七)に書写された『詩序』の書風は唐風で則天文字をまぜている。
p20に
山ノ上碑(六八一)、那須国造碑(七〇〇)の書風は六朝風。
多胡郡碑(七一一)、金井沢碑(七二六)の書風は六朝風。
神亀六年(七二九)の小治田安万安侶墓誌は唐風。
p20-21に
奈良時代に入って(この時期指定をしっかり想起してほしい)、能書のことを手師(てし)と言った。手師の中でも最も尊重されたのが王義之。
万葉集』の中での表記に「てし」の所を「義之」や「大王」と書いている。
p23に
最澄の書風は王義之風。
空海は晋唐風、草書が最も優れている。(楷・行・草・隷・篆書をこなした)
p24に
嵯峨天皇の書風はやわらげた欧陽詢風。
p31に
貫之自筆の『土佐日記』のかなは字形が簡略で、字母の複用は少なくて、続け書きであったと春名氏は指摘している。
清涼寺釈迦如来像胎内の紙片のかな文字書から承平八年(九三八)頃には字形・線の洗練されたかなが一般に書かれていたと春名氏は指摘している。
藤原佐里の女(むすめ)、藤原行成の女など、かなじょうずな女子がたくさん輩出した。
p32に
道長の『御堂関白記』にある和歌五首のかなは古雅だ。
藤原公任自筆、北山抄紙背のかなの消息は字形の最も簡略なかなで流麗に書いている。
最後の方で
藤原定家のかなについては、歌人であり、巧妙ではないが雅趣がある、と(春名氏は)している。

以上、書の古代史メモ。