連載は続く~ SF 掌編『色は匂へど散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ・・・』編


 どなたも気づかれてそうな事について素人老人風にことばにしてみるシリーズその何度目か、ということで、子供たちの認識"野"と大人たちの認識"野"との違っていそうな辺りについて、ふれたい。
 "野"としたのは、その野が脳のどこかの部位を指そうとかではなく、子供年代ならば、大人年代ならば、それぞれ特有に何を感じ取って(の際の"何"把握自体があるきっかけ以前、以後で異なってしまうこと)考える素質を動かしてなんらかの整理、ことばとして出せる形にしているのか、それら認識上の表象の群れをまとめてみて、それを野としてみた。
 大人になればわかるよ・・・と優しく諭したくなることは、どの大人年代の人々に共通の体験に思える。自らの子供年代を振り返れるならば、子供たちにとってはむしろ大人の弱点のように受け止めさせる発言に近い。どうせしがらみとか言うのでがんじがらめなための言い訳の時に使う言い方だろうくらいに受け取られ易い。
 その一面も大人たちには多分有り、だろうな、としっかり受け止める余裕くらいは、大人たちゆえに持っていらっしゃる。
 でも、相互に理解を超えた、共有できそうでできにくい領域がありそうだ、という辺りの説明になる。
 子供独特の判りすぎるくらいに明瞭に判ってしまえる素地ということを持ち出せる。
 大人がそれに対しうるのは、世の中の入り組んだルールでもあり慣習でもあり、ことばにできそうでできにくい、先のしがらみだったり、付き合いだったり、助け合いに関わるようなことだったり、もう少しじっとりと情念が絡むようなことだったりする何事かを想起しつつ、お前らの年代じゃ、ここらを理解するのはちょっと無理だろうな・・とか大人ぶって自分を納得させるくらいはなんとかできる。そうできるだけで、振り返れる子供の頃の全体的把握の凄さを、大人になるほどに"馬鹿"っぽくしか把握できないようにする、そのことにそれなりに自覚はあるけれど、諸々の雑事の処理能力を得た年齢的自覚、自信のところで気持ちを落ち着かせることしかできにくくなっている。
 なんでその頃は、すべてをわかったつもりになれたのだろう。実際に大人たちのことがよく見えていたのだし。見られる年代になってみると、細かい事実に圧倒されて、まともな整理能力すら発揮できそうに無い。自分にはそこらまでしか遡及できません、とかことばにはしづらいけれど、行動として、表現として、そこらをつい踏まえようとしてしまう他ない。
 こどもたちは、そんなことはおかまいなしに、ヒトの営みについて多くを観察しまくって、大人たちという限定なしに、やりくりの様として、生々しいデータとして、大人たちにとっての生々しさとは相当に異なるニュアンス付けで、貪欲にすさまじい速さで取り込んでいく。
 ことばは使っても、たとえるならば、辞書化以前のことばとして、だから、発明もしていないし、届く範囲で話されていることばの営みを受けてのこなれによって心身に溶け込んだことばを用いているだけなのだけど、ことばを概念として先行させてそれを用いて理解を図ってきたわけではなく、むしろ、生なましく五感とか六感を過ぎ去る刺激を得て、心身に溶け込ませて、関係性のそれぞれを数学的な統計手法というわけではないけれど、傾向ほかの整理も逐次済ませながら、世界のあり様をこどもの認識野に納めてしまう。
 だから恐らく、こともたちはある意味、相当にリアルにヒトを理解し、だけど表層も表層の行為の流れにも乗せられやすいし、意図せざる行為の群れと接しえて、それこそ大人では感受できないようなヒトについて知ることも可能だけど、質のごっちゃ性が災いして、リアルの質的違いが分別できていない認識野を構成している。
 それゆえに、偶然にも、相当にヒトのリアルに届く認識を得て、たくわえにしているだれかも居ておかしくないし、勘違いのごっちゃとして子供ゆえに流してもらえる認識を持ってしまう場合も充分に起こりうる。
 ことばからの分節なしでの認識形成ゆえの全体性獲得は子供年代だからこそできる。
 その貴重さを一応押さえつつ、やはり年を重ねながら、失敗できて"なんぼ"のような応用力に響く、ことばとか概念に助けられた経験の積み上げこそが実際生活にとってはかけがえが無いとも言えそうだ。
 と同時に、子供年代ならではの全体把握からは遠ざかりがちにするので、部分専門家の知見を寄せ集めて、全体像になんとか近づこうとするようなことにしがちになる。
 それに、折角、ヒトのやりくりの生な受信を得ていたことをことば・文字の営みの中で役に立ちそうに無いとかで知らず知らず捨てていて、ことば、文字、概念の類から学んで得た知見に寄りかかって体験の膨大量に迷わないように整理を図る。だから、更に、ことば、文字の世界にのめった格好になってしまう。
 否、経験からのことばだ、とだれもが思いたがっているけれど、順路としては大抵は逆転しているわけだ。
 だから大人年代にとっての認識と子供年代にとっての認識とが、共通の領域を持ちづらい。しかも、一人のヒトが、そのどちらも通過できている。
 大人年代でのことば世界、といっても、二通りくらいのことば世界を指摘できそうだ。
 一つは、ジャルゴントとか問題視もされ易い専門的に誤解を生じにくくする作業を経由させたことばの群れ。概念とか辞書に整理された意味のまとまり。
 もう一つは、とにかく実際的に日常で分かり合えるように生な場でこねられ続けることば。
 こちらは、そのことばが指す内容について、そのことばによって、ちょっと使い慣れれば、どういった集合についてに指すのかを、具体性を持って、受け止めさせてくれる類だ。
 ある程度、境界域に含まれるどちらともつかない要素が、その時点でのニュアンス感受からはどちらに属するかをことばによって実際的にはかどるように理解できるようにしてくれる。だからその流れの中に居る限りで、そのニュアンスを測れることばとして浮遊しているのだけど、ある時点では固定的に使い手に機能的に働いてくれる。
 こんな感じに受け止めているので、大人年代で生きる長年月のことがリアルな人生のはずのヒトの世の中なんだけれど、子供年代それと端境期はかえって貴重な時期と捕らえることもできそうだ。
 そうであっても、漢方的観察から元気なタイプたちであれば、シワシワ顔はつややかに美しく写真になる。そこが重要で、老いて、気持ちを腐らせて生活を送るようなことは無用だろうと察する。
 現役的無茶な仕事ぶりは無茶というくらいに、できないことだけど、世の中の営み方を工夫して、たとえばドラマの登場人物たちとしてたっぷりの年寄りたちが他の世代たちと混じりに混じって何事かが起こり、何事かが成り、また何事かが挑戦されていくとかの話も不可能ではないのでは、というのが・・素人老人の希望に近い。

 格闘技が参考になるのだけど、人それぞれの得意がそのまま技の出し方とか、相手との対し方の形につながる。
 介護技もそうで、基本のところ(介護の考え方に反しない技の行使とか、介護される側にとってのそうして欲しい、そうされたくない、の辺りについての共有ほか)を理解し合うことは欠かせないけれど、そこを踏まえて、技量については、一通り学びながら、各介護担当者に合った表出の仕方で実際が行われることが肝要。簡単には、体の大小で、同じことをすれば、どちらかにとって腰への負荷が致命傷となりかねない、といった辺り。
 すると、独り立ちできるくらいまでトレーニングを積むとしてもその結果、学び取った技量を実際の場で使う具体性は、各人に応じて自発的に成されることになる。
 その個別性とは別に、人には相性というのがあって、応じ方が雑な場合は、即座に反発を食う。あの介護担当者とは近づきたくないの類。
 でも、介護現場のベテラン諸氏がいっしょの職場に居てくれれば、距離の取り方(しつこくしないとか、逆にしつこくしないとやってもらえてない感を持ちやすい方々へはしつこくするしかないけれど離れ方を工夫するとか)を学びつつ、仕事熱心であれば、あの介護担当は気に食わないけど一生懸命やってくれるから、仕方ないね、くらいのことばはかけてくれるようになる。
 そこらをとりあえずクリアして、生な状況変化に臨機応変に即対応できる引き出しを持っているし、そこからより適切な手法を引き出して実際に技量を発揮できる介護担当が現場で活躍できるように"舞台"を整えられれば、一応、介護保険の制度内での最低限の質(最低限ということで誤解されては困るのだけど、介護保険の理念上はそれなりに個々を尊重し合う形の質提供を想定している)は保持していける。
 手持ちの技量でかどうか、とにかく失敗して、何をどう工夫すればの辺りに気づけて、自らにおいて改良を重ねてを、日々のことにできれば、自ずからベテランらしい技量の持ち主として、更にの欲も誘いつつ、熟練できるのが介護の世界と一応指摘できる。
 介護サービスの提供側として質を整えることはもちろん、必須なのだけど、いざ具体的発揮の場では、各介護担当者の独自的制約に応じた技量の出し方で、質のところの保証が実現する形になる。

 こういうことは子供の天才的ひらめきでは行き届かない。

 また介護する側として優しく接したくなる気持ちを理解しつつ、結果的にそう受け止められる技量の発揮ということも一応指摘できそうだ。
 (一見)優しくの表現形のパタンをだれもが想像しやすいように、介護してもらいたい相手諸氏においては、その気持ちに付き合う負担としてそこに表れがちにする。
 介護現場の制約から、多くを少ない人数での面として、私のことも面倒見てよの希望が渦巻く。
 だから(介護を受ける諸氏にとっては)優しさっぽい印象に付き合わされるよりも、とにかく希望に答えてくれる頻度の方が実感に結びつきやすい。
 その頻度をこなす中で、優しいかどうかはともかく、適切な届き方と、人付き合いで相手を軽んじない質を保てて、更に、技量の質を提供できるようならば、自ずからそこに受け止めてとして優しさ、介護する側の心指しとかの類を読んでもらえる事に通じる。
 人生の数十年のベテラン部門の諸氏は装飾系の工夫は即座に読み取って、人生経験から一応付き合ってくれるけれど、それで満足してくれるはずがない。実際に何をしてくれるかにかかっている。だけど、介護の質の悪さを介護担当者人脈の中で談合して、相手の不満が出にくい状態になるような施設運営に近づくと、自ずから亡くなる頻度、その亡くなる原因とかで、黙っていても露出してしまう。口の達者な入居者を上手くあしらいつつ、他のところで・・・ということも起こりうる。
 そういうことを避けるためにも、技量を育てながら、介護担当のベテラン諸氏の助言とかも適時応用して、気持ちとか意欲とかの支えを提供して、心身に響く介護を担っていく中での問題を自ら解決していける技量の持ち主になるまで育て合える職場にして置けるか否かも介護施設経営には大切な事のように想起する。
 で、こういったことの込み入り方もこどもの理想論からは想像しづらく、たまたまこちらの理念が先入観として入っていた場合はその偏りのままで、世間を見抜くのが子供観念だ。
 凄い気づき方もするのだけど、偏屈ではない表現形で、考えとしては相当に"偏屈"に仕込んでしまう。何かを信じ込める。
 それらがことば、文字に出会って、そちらで考えるようになって、もう一方の大事な事、貴重な事を置き去りにしてしまうのだけど、新たに発見、気づきを生じさせるようになる。

 ここまでだとあたかもことば、文字からの学び、経験を積んでいくこと、ただそれだけの発展形のような話になりかねないけれど、気づきの込み入った辺りも諸氏においては、当然、残った問題だ、と指摘してくれそうなので、素人老人の今回の話はここまで。