連載は続く~ SF 掌編『古代と今と』編


儀鳳年間(676-679)
儀鳳暦(ぎほうれき)は古代の倭国(以下から類推するに日本国とするのは微妙だ)での呼び方で元は麟徳暦(りんとくれき)
元嘉暦と儀鳳暦の併用(690年)
儀鳳暦から大衍暦へ変更(763年)

旧・新唐書の両方が倭国名を扶餘豊との絡みで登場させている。
その当時の半島情勢は大雑把には、百済新羅を攻めて支配地を拡大するようなことを断続的に繰り返していて、その事情を百済新羅高句麗それぞれが唐との交流の中で、唐中枢にそれぞれの立場からの見解を聞いてもらっている。
それを受けた唐中枢は、新羅の現状回復とノリとしては双方が関わる乱暴な喧嘩を止めて仲良くできるよううながしている。

660年前後の唐では、高宗と武則天ペアの時期で、しかも皇后武が実力を発揮しだしている。

倭国からは遣唐使がこの時期、度々往来した。
630-632
653-654
654-655
659-661
665-667
667-668
(669)
702-704[山上憶良氏含む]

高宗は寛大だったのかなんなのか、考え方として探れることばが歴史書になっているので、それなりの寛大と捕らえられる計らいにもそれなりの強度が働いていたはずだと素人からは映る。
たとえば白村江の事件以前に降伏の形で捕らえられた太子の扶餘隆を彼の帯方郡王に任命して百済域に帰らせようとした。
660年ごろの百済は5部・37郡・戸76万から成っていたのを660年の降伏後は唐によって5都督府に分割、各土地の有力者に収めさせる策が採られた。(より詳しくは旧唐書で、旧・新唐書ともに同様のことにふれている)
それにも関わらず、反撃に出て惨敗して、百済は土地も人々もどうやら散り散り状態に陥ってしまったようだ。

 考古の成果を踏まえていない為、また日本書紀の記述を年代に沿って引用するようなこともしていないので、検証用ということにはならないのですが、上記程度の参照材料を持ち出しただけからでも、対唐(中国)関係は絶大であることを少しは故意に意識するようにしないと、帝国と周辺国の安心と緊張の双方が織り成す関係・質の辺りを探り損ねそうに素人的には思えるわけです。

 関係性での近さ、地理的距離の近さがかえってあだとなって、そうなってしまったのか、対唐(中国)を意識した深謀遠慮が働いてそうなってしまったのか、とにかく、半島3国はそれぞれ、乱暴狼藉を働いて、しこりを残すようなことをし合っていた。
 それを大国であり帝国的性質を持つ唐はとりなすことを怠っていない。仲良くしなさいということをもう少し含蓄のあることばで諭すようにしている。
 それでも治まらない。そして660年の一大画期百済中枢の降伏ととの時点での百済域分割と土地の有力者を使った統治方式が採られる。そこで治まれば、当時の高宗の考え方として紹介されている国の継続性は保てたはずが、拘束されず、地方自治に任されたことを逆手にとって反撃に出たことによって、大国の寛容策は反転、まずは反乱行為を収める方で動くことになり、犠牲も沢山でて、百済の土地をめぐる自前の指揮命令系は崩壊して、唐が去ってもその荒れた百済の土地を他の勢力の勢いが覆うことになり、それイコール百済の人々の離散だ。

 だから思うに、当時の列島への百済の人々の流れは半端な数ではなかったのではと充分に想像させる。

 どう関連付けて諸氏において想像されるか・・・。
 古代の列島において、より中国との連続的関係性を意識できた土地柄があったことは明確のようだ。
 宮が簡単に動くくらい、その拠点が一定の土地にずっとということも考えにくい。
 ただし、中国の古代歴史書からして、列島の中でも中国を意識できる土地柄の指導層は、ある意味実際的な職柄で呪術系のようなので、"宮"とかが相応しいかどうかは専門筋が解き明かしてくれるはずだ。
 とかく土地自慢というか、列島在住の自発的集団の営みの特殊を見ようとしないで、かなりの広域をかなりの古くから統治していた中枢を前提にそれがどの土地に構えていたかを競うほうで学問らしさを発揮しがちと素人からは見えてしまうので、そこらはちょっと困ったもんだ、と勝手な素人推測をしているのだけど、杞憂だろうか。
 百済を散り散りにするようなことに加担したし、そのことを相当に困ったことと受け止めたはずの唐の中枢を意識できる外交に長けた列島の人脈は、斉明、中大兄ラインを困ったやつと見なしたはずだ。
 だから素人の推測を上重ねすることになるのだけど、当初の日本書紀(ということは万葉集初期版にもかも)には中大兄は無かった。そのためにエピソードとしての壬申の乱が話として用意された。
 当時にとっての中大兄と天武天皇とはだれだったのか?
 なぜ(仲麻呂氏編とされる)藤氏家伝から不比等氏の部分が欠けているのか。
 淡海三船氏などはそこらをご存知だったのだろうから、そこらから探れることはないか。
 列島にも外交上手がたっぷりいて、白村江の事件の時期をまたいで遣唐使は派遣されていた。
 そういう人脈の流れは、不可抗力が働いても帝国・大国の考えを踏まえられるならば、自治は保てると意識的に自由発想できたはずだ。
 そして今でも土木に活躍して、それなりの質の仕事を為す伝統(職人を使う立場の熟練と素人や熟練をまとめ、育て、しかも指導に答える技を発揮する個々の性質)を素人発想的には持ち出せる、"軍"の要員を大量に動員しての土木的列島改造も中央集権途上の策として熟練技が発揮されて、それが考古の活躍によって列島各地の古代の驚きの再現を可能にしている。

 武則天が活躍した時期の唐との関係の密度を、勘違いした歴史解釈を漫然とさせていると、放り出したままにしかねないのでは、ということも素人の思い込みのお節介にはなるのだろうけれど、一応指摘しておきたい。


 現代に引き戻せば、大国、帝国でいることは、大変な費用負担とご一緒だ。
 だから判っている専門家筋は口にはしないけれど、アメリカ合衆国経済と日本の経済活動は両輪として世界の経済になんらか貢献できた時期を持っていたはずだ。
 いつまでも好景気でありえないのは、その都合が揺れ動くし、関わり方のその先の前提条件も変化してやまないしで、しかも費用負担はいつでも大国・帝国の担い手を変更させ続けてきたということで、そのむちゃくちゃな負担ぶりもわかろうというもの。
 にもかかわらず、平穏に担い知恵変更へといざなえることは至難。これまでに平穏無事な移ろいはどの時期だったろうか?
 今回の移ろいがどこへと落ち着くかは請け負うことの負担に耐える検証力も関わるからどこと断定しきることは難しい。でも候補は限られているはずだ。
 世界をまとめて、ということでは現生人類はいつでも、理想的には世界政府という中央集権のあり方を模索し続けている。でも権力の集中がヒトのサガゆえに、個々性への配慮を時に欠く傾向に走らせることも承知させているから、ヒトの思考においては、いつでも、中央集権のまとまり感の共有とともに、自治の個々への広がりの達成の同時並列性を動的に持続的に成したいのに、なかなか上手くいかないね、というところで試行錯誤が延々と続きそうな気配だ。これまでだと、考えの土地土地性が時間的な遭遇性もばらばらだったりで、話がかみ合いにくかったために不必要な争いごとが生じがちにしたと思えるけれど、そこらの経験をある程度踏まえられる時期を今日と見なせれば、そこらの不可抗力はある程度、抑制できるとして、だけど、個々の自由を勘違いして、乱暴狼藉事情を生じることはヒトの思考の独自性からして、皆無とはできにくいということで、そこらの面でのいつも試行錯誤は外せない。
 USの経験からは、ドルの大量流通を持続化したことで、大金持ちとしての安全圏を欠かせなくして、大半にとっては免疫系育成に不利な境遇となる土地柄にもするような副作用も生じさせているし、格差があるからこそ、実務指導層の安全圏の持続性も保てるとか、民主主義っぽさを発揮し続ける負担の一形態をあらわにしていそうだ。
 だから民主主義っぽさ表現のオルタナティヴも必須だ。
 列島だって、コロナ騒動に乗じて、高齢者層の急な頻繁な死への誘い=粗雑な介護姿勢が各地で発揮されていないとも限らないわけだ。列島各地の介護施設めがけて熟練潜入捜査要員が既に調査していると空想する。
 中央集権と自治のあり方を試せる場だったりする。
 自治がだらしなくなると、中央的発想からの点検が個別の事情以上に物を言えたりする。
 でも落ち着くところは、自治というか個々の関係者が個別事情にもとづいて工夫して問題を解決する当たり前の辺りのはずだ。その集められれば集った事情群は平均像を描けたとしても、個々の際立ちは個々においてきらめいていたり、おだやかに落ち着いていたりしていないといけない。