連載は続く~SF掌編『今どきの人々も大変だが、40年前の熊たちも大変だった』編


 安価により多くの人たちがそうしたいと手にできる形だけの民主主義っぽさをある商品が発揮していたと想定することで、麻薬とかの混乱の"素"について、どうとらえうるかのヒントにはなりそうだ。流通させない選択は、高値売買を生じる、という場合なら、その高値こそが防波堤となってくれる。
 その必須の額を出せる条件の持ち主か、借金の類が可能な状況を得て、手にする。そういうタイプの制約がつきまとってくれる。
 並行して法治の様々が機能してくれている。
 形だけの・・・とちょっと簡単に受け取れるかどうか戸惑われる諸氏も少しはおられるような表現をとったのは、より多くの(なんらか文化とか政治とかをお互い様にしていて、その集合性に注目した時の)構成員諸氏がそれを生活上、購入して使ってみたいと想起するような商品を、必要+装飾性とかの付加要素ありの状態で、手に入れられる流通の状態や価格の程度などが保たれていて、で実現している、ということは簡単だけど、実際に、そういうことが持続するかどうかは、偶然とかの条件次第の辺りに気付けるかどうか、気付けるようなら、その一つとして、ほかに、買わせる欲動誘導のテクニックが緻密になって使いこなされる時代状況とかを考えてもらって、自体が、そもそも民主主義の質を満たしてそうにないな、という指摘も可能になる。

 ところで、たまたま録画しておいたようで、早速それを見ていたのですが、1986年頃((昭和)61年とかナレーションにあった)秋田の太平山をねぐら(塒)にしているツキノワグマたちのその時点での生態を記録にして解説していた。
 これを見ながら、そういや前橋・高崎そしてその南域の農業主かもしれない集団のいとなみの空想話に、厚みを欠く辺りを、追加するのを忘れていたことに気付いた。
 今どきならその昔の列島は関東平野の気候や植生くらいは、おさらいして、たとえ空想でも嘘っぽくなりすぎない程度の支えが要る。
 ちょっと前の時期だったら笑えたのに、今では笑うに笑えない類のエピソードを持ちいたばかりに言い訳コメントを載せるテレビドラマが結構放送される。
 それくらい、ヒトの気付きというは、ヒトの一面でしかないとしても、他人への思いやりはそれなりの強力さを持ち続けている。
 でさらに、ツキノワグマたちをめぐる記録番組から、ヒトへの思いやりもだけど、ツキノワグマへの思いやりだって、少しくらいはあってよさそうだ、と思えたりした。
 解説によると、1980年代中ごろの秋田では、例年だと200頭くらいの熊が撃ち殺される。
 その年に限っては倍だった。
 ただ多くの熊がすでに傾向として人家に近いところに出てくるようになっている。
 そこをなぜ、と番組構成の目的の一つにしている。
 その土地の熊たちは、年間数百頭撃ち殺されても絶滅危惧種になっていないようなので、膨大な数が生息している土地のようにも受け取れた。
 けれども、そういう数の熊たちが冬を越すためにたらふく食べる、その食材が足りない、というのがその番組での紹介の大切な一つだった。
 なぜか、秋田では膨大な既存の森林樹種に替えて杉をかなりの規模で育てるようにした。
 ひょっとしたら素人にとっての既知である、ある時期の都合によりたまたま杉が選ばれてその結果、花粉症も増えたとかの話と関連する事象とも思えた。
 が、とにかく、秋田の地元民にとっては既に売れにくい木材としての杉になっており、熊たちにとっても、かつての実をたくさん付ける樹種ではなく杉のため杉の表面を這うツタの類の実を食べるのがやっとのような状態で、相当にひもじいい食事情であることを映像とともに伝えていた。
 人家にも近づくから、撃ち殺す。熊たちにとっては踏んだり蹴ったりの状況のようだった。
 そこで、農系の人口圧を生じるくらいの生産能力に一瞥しつつも、学び続けることをしないと、生態を壊して、ついにはヒトの生活にも制約を課すようにもなりそうな辺りを踏まえながら、関東平野への空想話をさらに厚すぎるくらいにしないとな、とも思えた次第。
 今どきだと、サイエンス全般の知見や実験操作手順やを身に着けた諸氏においてなら、伝統的にその土地ならではの持続性と直結させやすい叡智と遭遇しても、会話とかの中で、融合体験を招けそうだけど、部分部分しか追求しきれていないで、いきなり全体相手の持続性伝承知と遭遇した時、お互いが潰しあうようなことも十分に起こりえたと想像しやすい。
 そのことの不幸は世界中で生じさせてきた。今だって、知見を覚えて経典化して、譲らない思考に陥りやすい時々居る諸氏においては、いつなんどき、喧嘩っぽいことが起こらないとも限らないわけだ。
 話は逸れるけれど、介護施設での問題とされがちなご老人諸氏のことは何度か、触れてきている。
 そして、まったく介護を担当する側の問題だったことに気付いていただけていたら幸いなのだけど、未だに、ご老人諸氏に問題をなすりつけようとする安直な言論をちょっと気のゆるみからかなさりがちかも、と察する。
 ご本人諸氏は、ここを聞いてもらいたいのに、なぜ、そこのところをじっと耳を傾けるようにしてくれないのだろう、と内心で思ってわだかまっていたりする。
 シンプルに、家族にだまされて施設に入れられた、自分は嫌だから、この今、ここから出してくれ。ここに泊まる気はない!とおっしゃるタイプ諸氏は、かたくなさも一流の状態だ。
 介護施設には、介護現場担当の個性派諸氏が結構働いてくれているものだ。
 だから、日頃の働きぶりの観察が現場の責任者層にできているならば、即、だれそれなら相性が良いかもで、試行錯誤が始まるはずだ。
 多くの場合、相性はなぜか対応策に使える。
 スケベ系のおやじというかご老人タイプだと、若いのに愛想よく受け答えするので、うっかり介護職側が、じゃその若手にゆだねてみるかと安易な対処をするとたちまちそのお返しが返ってくる。
 更に、面倒なご機嫌状態に誘いがちにする。
 対人での介護の場合、情動の密度とかを図って、いい加減な状態だったら、いい加減なところで、お気に入り策でもなんとかなる場合もあるかもしれないけれど、激しているような状態の場合、付き合い上手とかのキャラとか介護経験とか、そして相性が大いにものを言ってくれる。
 偶然頼りだから、上手くいったり、しばらく気持ちがあれた状態が続くようなことも起こる。
 でも相性がものを言って、とりあえず会話の場ができることも起こるのだ。
 ヒトは激した状態から少しでも去れば、状態を読んで、今晩はともかく寝ておこうとかに進む。そこらの手順を間違えるスタッフが主に関わってしまうと、トンでも状態を、ご本にはずっと続けざるを得なくする。こういうとらえ方が要る。
 とにかく、言いたいことの本筋のところを話せる状態をなんとか用意できるようにして、話を聞く。ここまでに通常相当な時間を要する。数時間の覚悟は要る。だから、残業になることだって十分にありうる。ないし他の介護現場担当諸氏に、通常業務を任せて、自分はそれに関わる、という特殊な構成をとることもありうる。そこらを理解しあえるかどうかは現場経験の豊富なスタッフがいっしょに働いてくれているかどうか次第のところをちらっと指摘できそうだ。ただし、多用はできない。むしろ残業タイプの方が、残業を選ぶのは介護職本人次第ということで受け入れられやすそうだ。
 そうやってとにかく話を聞けることで、仮の姿である混乱したお年寄りが、実は、自らとの会話の中では通じる話合いをしていて、ただ親しいとか関係者たちが耳を傾けようとしてないだけだった、程度のことがわかってくる。
 ただ、重層しての結果としての事態だから、その事態の打開をご老人本人の努力によって、ということを求めることは無茶と素人的には観測できる。
 農のその時点での担い手諸氏、その土地に長いこと暮らすかつてそこにやってきた人々、そしてツキノワグマたち、それぞれの言い分を聞く耳を持てるだけでも、売れなくなって放置された杉の森林をどうしたらいいかとか、熊を撃ち殺すだけではなくて、商品にできないかとか、持続的な試行錯誤の話が可能になりそうにも思える。
 ただし、もう40年近く昔の話なので、今どきの秋田の若者たちはきっと優れモノのアイデアで対応していると想像してみたい。
 食物連鎖をめぐって空想としての百獣の王伝説のようなのをある時期の人々はひねり出したのだろう、と空想するけれど、食物連鎖のリアルからは、勝敗というよりは、知見を持てればそれに越したことはないくらい、相互依存の極致のようなところで生き物たちが試されている。
 賢いやつらは、今でいう遺伝子として、入り込んで、ほぼ永久的な生を選んだ。
 戦争好き、喧嘩っ早い連中は、殺しあうから、残りにくい。
 ないし早めに子作りさせて、そこに若いころから縛られる状態すら体験しないで済むほど争いの場に駆り出されて生涯を終える。
 そんな生活をしていたら集団の発想として偏って狭い考え方に基づく性別分業とか生活制限とかを思念してしまいがちにするだろうと想像しやすい。
 外でのストレスにさらされやすい個体は、次々に世代交代していく。遺伝子としてもぐりこんだ生は、個体の制約などとっくに乗り越えているから、ずっとそれらを邪魔とせず、生きながらえる。
 今生きる人々の表現型として、各要素が起ち現れる。
 そしてヒトの長年月の過去のあり方からして、家族的な集合の活動の中で自らの役割を嗅ぎとり、性格的な要素も込みで集団の中に自ら組み込まれていく。やりがいを生涯の中に組み込めている。
 近現代の試行錯誤の途中と今どきを見做すならば、そこにおける錯誤というか難しい辺りに気付けそうだし、わざとそうしたい人々もいらっしゃるのか、それとも、そこを気付けた100%がなんとかしたいと思っているのか。

 涼を求めて川柳もどき

 大雨に注意、のはずが、関東平野部は降りそうで降らない台風4号