連載は続く~ SF 掌編『介護現場への応援の仕方は難しい』編


急かされるような、急かしてしまうような、そんな世の中進行中でしょうが、ちょっと落ち着いた感じ語ってくれている知識系発信を一つ。
「ウイルスについて」と題してのお話。語り手は中村桂子氏。


ところで、業務をこなすことは日々忙しなくさせる。
かといって一工夫でかなりの改良・改善も可能だったりは、そうなってみてハッキリする。未然のままだと、改良なんてありえないとか色々がわだかまりがち。
しかも多くの現場ではそういう惰性が最善の状態で手の施しようは無いかも・・と思惑が渦巻いているのが現状では。
けれども、そういうことへの改良慣れした大人たちから偶然学べるような観察の位置を経て育つタイプたちにとっては効率的な編成変えはお手の物だったりする。
忖度上手で近づきすぎてもいけない。学び損ねやすい。
ちょっと距離を置けて、しかも密着できているタイプ、でないと難しい。
そういう年月がいつのまにか一見直感のように、一緒の人々を見続けて、この仕事にのある時間帯での業務に関してなら、どの面子が関われるのかとか算段して、ささっと仕事の段取りや配置などを上手に割り当ててしまう。これまでできてこなかったのだから、一見理解を超えてしまう案として出てしまう。そんなんで、できないよ、とか、無理でしょとか、煩いこと言わないでいつも道理やってね、とかの話で集約されがちになる。
たまたま面子の中に、日ごろの忙しさをなんとか回避できるならとずっと期待してきたタイプ諸氏や、ちょっと仲間内とは距離をおいたすねたり系タイプ諸氏やが混じっていて、それでも、提案の主に対してはそう反感を持つことの無い諸氏たちであると、意外に、素直な方で受け止めて、試してもいいんじゃないとなることもある。もし、そういうことになれば、結果で証明される。
上手くいくじゃない!
で、結果的に、政治的にせっかく工夫して有意な立場を得ていた限られただれかたちにとっては、不都合な空気が流れてしまう。
そこを提案の主も含め、日ごろ、大した工夫もなく忙しくさせることしかできない現場のリーダー層であっても、残業とか臨時の出勤とかを厭(いと)わない働き者の面を認識しているから、いたずらに貶めるようなムードにはしたくないよな、という気持ちの作用を行き交わす。
でも事実は事実として、リーダーたちにはぐさっとならざるをない。
でも多くの本当に、多くの現場でこの手の改良が成されないまま、日々多忙だったりしてきたわけだ。列島中で。
だから時にはこういうことも起こったりする。
そういう難しさを指摘できる。
傷つけるわけには行かないけれど、放っておいても、改良はちっとも進まない。
しかも!この種の改良技は下手すると、悪用っぽく採用されて、時間内仕事密度をより高めて、目標までいじくって、成果はそこまでしなきゃ駄目だよ、ぽい方で応用されかねなかったりする。
そうなると迂闊に提案もできない。折角、余裕を生むための効率とか円滑さを持ち込めるようにしたのに、かえってぎゅうぎゅうの方で使われかねないのだ。
だから提案する方も、積極的にはそうしなくなるし、こっそり、いざという時にだけ行使して、理解が届かない場合も多いから、説明して納得してもらう時間があれば仕事仕事の忙しい現場では、じゃ、いつもの通りでにしがち、と察する。


ルーサー刑事からすると、ないし公務員の突き詰めたような質問なり愚痴を聞かされたデンゼルワシントン氏演じる元凄腕諜報員とかからすると、殺人狂時代の主役を演じたチャップリン氏の哲学はとんでも、ということになる。
やってること自体に問いがきちっと帰るようにしてやらないと、問題がはぐらかされかねない。
同じ殺しなのだから、戦争も罰せられねばならない。それは当然だろうけれど、でも、それを言う立場が既に問題だ、という段取りにもしてはまずい辺りに気づけないと、ルーサー刑事の並行処理のデカ仕事一筋人生に答えられない。
一方で他人の人生をなんとか救おうとして、一方で事件を追い、しかも内部関係者から疑惑を持たれて、手法の揚げ足取りを絶えず仕掛けられる。
施設介護現場も、並行的仕事環境に近くて、仕事を見渡せる諸氏においてはルーサー刑事と似たもめごとに巻き込まれやすいし、それをベテラン諸氏はお互い承知しているから揚げ足取りなどもってのほか、仕事の邪魔をしないように、助け合ったりするものだ。
一日の終わりでつじつまが合うように、駆け回る(駆けてはまずい現場なので、忙しい例えですけど)。ルーサー刑事も、一つ一つ片付けながら、最終的に結果オーライで肩の荷を降ろす。
ところが、半端物系は、仕事も見渡せないから、そくすきを見て息抜きしたりが平気だったりして、その無駄な時間であることも気づけない熟練度だから、他人の粗はだれでも簡単に見つけられるということで、自分で気づけない粗だらけを棚上げして、矢鱈と忙しく働く現場通諸氏へ噂攻撃や上司への告げ口やで仕事の邪魔をしがちにする。ただ仕事を見渡せrう諸氏においては、その指摘する未熟系の粗が見え透いているし、仕事でとにかく忙しいのだから、無駄な事に時間を咲くことはしないで済ませられる。痛くもかゆくも無い。ただし!そういう介護の現場の多忙さと必要な動きを承知しない人々によって人事についてとやかく言及されるとなると、放っておけばそれが続いてしまうので不都合になる。
第一、急がしい現場のはずが、業務を終わったことにして(見た目、仕事を早めにこなして、それで息抜きしているように見える)、自主的中休憩を取っているから、年寄り連中にとっては、それの一年分の積み重ねが積年となって現場に表現されだす。ま、そうなってくると訪問客も可笑しいかな、ここ、とか感じやすくなるので、さすがの事務系管理職層も黙ってはいない。だからもう少し手前のところで制御は効きやすいかもしれない。
どういう働き方をしているだれかからどういう言質を得るか、ということを検証しないと、なかなか施設介護の現場を知ることは出来ない。経営層だって今時はかなり熱心になるようになった。でも現場の人脈はかつての3K職場同様になんから知る人は知っているのかもしれないけれど特定人脈が牛耳ってそうで、年寄りをかばうよりは、働くほうの仲間をかばいあって、現場改良が人事の新陳代謝へは結びつきにくい。人脈の上層で改良発想が起これば一番、列島のお年寄りには好都合だ。
大人年齢諸氏がお互い働く施設介護の現場だから、お年寄り個々を尊重するように仕事仲間個々も尊重する姿勢がまず先にたつ。そこが落とし穴となって、個々を個々として尊重するのとは異なる強引な介護を普段の巷の姿ではしないようなことをしでかし始めるだれかたちを、ベテラン諸氏が多い現場なら、数で工夫してなんとかできるけれど、そうでない現場では尊重とか忖度の類が作用して、それぞれのやり方だから、で流されがちにして、お年寄りにとって不都合なことになりがちにする。
それは様々に現れるので、経営の論として、より事情通で整理できている諸氏が今でも発信し続ける必要がありそうだ。


ところで、認知症症状について、参考にしてもらえれば、で一つ。
以前、ちらっとふれたことのある方のケース。
だれからも重度の認知症。忘却系。として、見なされそうなタイプの方。
時々視線を合わせることもあるけれど大抵は何をかんがえているものやら、っぽく映るしぐさが目立つ。
やや(拘縮っぽく)硬くしまった感じの足腰ゆえ、歩いて移動できる。
だから方向転換の動作はバランスを崩しやすい。
積極的に語る時は、単語として発音することができない。単語を押しつぶしたような、端折ったような発音にしがち。早口が加速してしまうようなボソボソことば。
そんな氏ではあるけれど、たまたまゆったり、他からベースを邪魔されること無く、語りだすようなとき、・・・(語尾に)なんさぁ・・的、ある地方言葉独特の言い回しで、単語もまとまった感じで視線を投げかけながら話し出す。その体の状態を保持できて続けられるならば、更にと思えるけれど、ちょっとでも気が散るようなきっかけが介在してしまうと、語りかけは止まって、自分と会話しているようないつもの氏の姿に戻ってしまう。
認知症症状でアルツハイマー系とかでざっくりくくられる重い症状の人々に感じることは、防御のための殻への閉じこもり症状。警戒して身を引き締めている。ところがなんらかゆるくゆるくなれるリズムを得て、しばらくして、ふと、かつての自分の一面が表現するようになって、そのままその状態を保てればひょっとしたら出したくない殻に閉じ込めることで防御できていた自分をさらしてしまうのでは、と思えるほどだ。
その殻へと至る数段階くらいは想像できそうだ。
色々煩く指示されてその代わり自分の言い分が通りにくい日々を過ごし、これが介護生活下か家族や親族との生活下で形成されたかは人それぞれだ。そうやっていくうちに、反抗的にことばが出る時期も通過する。そこでの反応も殻へと向かわせるもう一つの作用となりうる。
まったく聞いてもらえない。変人扱いに近い。しかも自分でも不本意に失敗続きだ。失敗してしまうけれど自分だけなら、失敗をおぎないながらなんとかできるけれど、その失敗をただ一方的に責められるだけの生活にはうんざりだ。そして耳をふさぐようにもなる。外的力の行使へも無感覚を心身の方で準備し始める。
だから脳血管系でどうしょもなく、不可逆的に認知症状を深化させてしまう諸氏の苦悩とは別のタイプがかなり大勢いらっしゃる可能性を指摘できる。
こちらも忘却の彼方と表現ではしがちになる。意識的になるほどそうなりやすい。でもふとしたときに、かつての能力ですらすらとまではいかないけれど、口とかの動きのスムーズさの度合いに応じた表現はできてしまう。決して、単語を忘れたわけではなかった。発音を忘れたわけではなかった。でもいざ意識的に語ろうとするともう引き出しはどこだっけ?となってしまう。
更には、普段の意識的な心身の位置は、忘却系をより深化させかねない。そういう趨勢に置かれている。
だからたとえば薬が効いてしまう、ということだって充分に起こりうる。なんらかのきっかけを提供しているわけだ。
個々尊重の大前提を置ける介護により近づけられれば、どうってことない事態のはずだけど、今はその先の症状を呈した諸氏が沢山いらっしゃる。
そして、惰性のままだと、そのあたたたちのほとんどが、そうなる可能性を秘めさせている。(端折って詳細な紹介とはなっていませんが、要所から推し量っていただければ)

コロナ騒動(一面で年寄りが感染しないようにのムードを形成したので)が明けて、年寄りへも自分と同じ程度にお互い様意識で対してもらえるようになれば、大局が目指しているところへ現場も近づくようになるとか期待できる。

連載は続く~SF掌編『風の強い日々、知識の方から心身刺激を得た今日この頃』編


”ノイラミニダーゼ阻害とは異なる新規メカニズム”
エーテルスプリットワクチン”
”不活性化ウイルス全粒子ワクチン”
と三つほどことばを引用してみた。
これらにピンときて、内容もイメージできる諸氏は、是非ネット発信にて、昨今の騒ぎについても応用的見解を披露していただきたい。

上記は、ラジオ日経の『感染症トゥデイ』2019年11月4日放送分で喜田宏氏が「インフルエンザの予防と治療戦略の今」と題して語っている中で用いられていた。

当方もネット発信やマスメディアでの解説から思い込んでいたのだけど、ウイルスが変異して、強弱とか様々が出現するのではない、ということを断言されている。
氏の経歴など簡単にネットでわかるのだけど、ご自身が研究されてその中身の一端での指摘だから、ご自身にとっての成果をただ紹介している内容に近い。
根拠はどの文献の何ページかを読めとかのタイプとは異なる。
そしてその氏の成果も確立された文献の場合と同様に、サイエンスの手続きを経た成果であると認められたことが経歴紹介を読めばわかる。
ちょっと思い出してもらいたい。耐性菌は一種人々に警戒心を呼び覚ます。
その耐性菌が出来上がる過程は、既存の菌の群れの中で、耐性をより持ったのが、他が抗菌で減って目立ってしまう、一種の振るいにかけられる現象だ。
それと同じことが起こっていると、内容を文書にしたPDFファイルで読むことができる。
先のタイトルで、PDFとか指定して検索すれば直ぐに見つかるはず。
その性質を想起しながらだとヒントにできそうな指摘を紹介。
人獣系ウイルスにおいて、ヒトからヒトへの繰り返しの振り分け効果が、ヒトにとっての病原性に通じやすいということ。動物由来でヒトにうつることへの恐怖心を煽ることは誤りな事。
そしてパンデミックを生じる感染性の強さと病原性の強さを混同しないことが事態を冷静に理解させる。
うつって強く病原性を発揮すれば、巷を動き回れないことで感染が広がらないタイプの場合、その元となるウイルスは拡散しずらいと言える。
病原性が弱いゆえに動き回られるようなことになると当たり前だけど、感染性が強い状態を現象として表す。そういう理解が要る。


いきなり日本史の話を持ち出す。
エミシの件。
松本建速氏の『つくられたエミシ』(同成社 '18)を走り読みしたところ。

舞台は東北北部。
5世紀前半くらいまでは、考古学的に続縄文的な遺物を観察できる。
それはアイヌ系だ。(でアイヌ系については今ではお馴染みのように南北を通じている)
それから7世紀になって考古学から別のと分明される文化系統の人々が住み着く。
煩くなるけれど、5世紀が400年代を通して500年までだから、その前半のイメージ。
7世紀なら600年代だ。
著者はなぜその空白期間が生じたかについては細かくふれていない。
ただ著書90ページ目の気温変化が分かる図を参照すると、短い有史期間でもかなり気候変動があったように伺え、縄文期の高温期から冷え始めて、その後も下がった中での高温期と低温期を繰り返してきている。
そのかなり高い時期から低温化した頃がそのヒトがいなくなった時期と重なっている。
もっと寒い北海道に居たのだから、そういう説明には無理がある、とか指摘は返ってきそうだけど、なんらか関係もあるかな、程度には一応素人的に押さえてみた。
ただこの紹介だけだとエミシのことはどうなってんだ、となりかねない。
で、いきなり紹介してしまえば、別の文化系統の人々は列島系の人々と似すぎている考古学的な証拠だらけだ、ということ。
それらをエミシとか読んで退治されたんではないの?という強引な推測もありえないわけではないけれど、それだと素人よりも無茶と思えるので、著者の指摘を素直に受け止めるなら、更に、出てくる武器の類は実際の激しい戦場で使うように当時も作っていたタイプの方ではなく、もう少し飾り的な要素を持つ実戦向きではないのが考古学的な証拠となっている。
でも、古い文献資料での記述があるではないか、と。
そこらを著者は、馬(馬具とか鉄製の関りも重要で、当時の鉄に関わる知見を誘う)を持ち出し、争いごと記述とまじって交易と通じる記述を見逃さないように指摘している。
7世紀のあるきっかけ後の中央集権の趨勢の中においても、各地域の集団を食わせていくための”必死”の工夫は欠くことなく続いていた。
ここらは最終章で簡潔にまとめられているので、そこだけでも読んでみてください。
一般向けの作りだから、全体をざっと読みとおすことも苦にはならない。


戦国時代とか戦前を持つ列島の人々の中に含まれる年寄りだけど、コメニウス氏の経てきた時代やイスラムの人々がついこの間まで経てきたことと比べると、生活観には相当な違いが生じていてもおかしくないと、つい勝手に想像してしまう。
敢えて言うなら、彼らは戦闘モードを警戒していそうなのだ。
列島の人々はもう少し弛緩できている。
そこで女性を守るためとはいえ、やり過ぎの習慣を改められないでいるし、欧米なら親密さをわざとねちっこく表現する作法を育てている。
たとえば他人が育てている菌と自分が育てている菌とはそれぞれに危険に働く可能性を持っているのに、煩い奴らの要請とは別のところで挨拶代わりに粘膜を介した濃厚接触を振舞いの一つにしている。当然、親密さ表現の度合と同様にそれと対になる表現を隠し持つことにもなる。
文字がなくてもほとんで変わりなく成していける。
けれども、証拠を見せろ、という時のある場合、たとえば、映画『エージェント』にて、やり方を一新することにしたやり手エージェント氏が、口約束で最初の顧客を得たと思ったら、直ぐに裏切られて・・のようなエピソードの際は、書面で約束しておいた方がよかったかも、となる。そういう狡い系統、シャイロック氏タイプとか、だと文字を使わない連中は仕組み次第では困らせられる。
なんとか戦時モードを抜けるグローバル共和の世界を目指したいものだ。
だから社会工学パスカルの原理応用には相当な知恵が要るということにも気付ける。


列島贔屓(びいき)な発信をフランスの方から得ていた辺りを知った。
放送大学教養学部人間と文化の一教科『日本美術史の近代とその外部』の第五回”琳派エミール・ガレ、クロ―ド・モネ”にて、モネ氏の影にだれそれあり的な重要人物の居たことを知ったわけだ。詳細は教科のシラバス参照してください。
紹介された発言として、(モネの背丈以上あいそうな水連の絵画群を思い浮かべてもらいたいけれど)水連の連作を壁いっぱいに張り巡らした部屋で、労働者が仕事を終えてくつろげる時間を得た時、心身ともに休まるのでは、のような話だった。
当方、数十年も前に埼玉県立美術館(北浦和)でその一端を見ていて、ただ規模として見ていたように思い出すのだけど、今は違う。
列島びいきなフランスの御仁は、きっと襖絵を想起している。
仮に、列島の襖の装飾にモネ氏の水連を採用して、部屋を覆えば、それはそれは、の装飾空間を演出できる。
水連に限らず、列島の人々は、いつからかは調べてないけれど、板張りから絵とか柄の入った襖を日用にしている。だから列島在住の人々の多くは、壁に額に入った絵画を飾ることなく、障子の光演出とか襖の美術に親しんできて、それを心身に作用させるような生活の形を成していたと見なせる。そう気付かせてくれた。
工夫の辺りを”外”から指摘されるとやはり嬉しい。同じように外に向かってなんらかそれっていいよね、とかで指摘できることも大事なんだけど、勉強不足、の方につい気付かされる素人なわけです。

連載は続く~SF掌編『レポートの続編というか、付記、注釈など、その1』編

支払い手段の膨大量を采配できるような立場になってしまうと、たとえばフライトシミュレーターを他人を使って作るということが出来るようになる。
以前マスメディアのことで他人のふんどし比喩を援用させてもらったことが、ソフト作りにも起こる。
自分のマネジメント能力については少なくとも超有能だ、とか勘違いさせかねない。
勘違いしたまま富豪になって指図しているようなだれかもいたっておかしくない。それくらい(相対的には極く少数のPC/IT系)巨富たちが跋扈している世の中だ。

さて、DOS/V開発のいきさつの一面については古川氏の著書(*1)に具体的に紹介されているので是非参照してください。
*1 Impress R\&D『古川享のパソコン秘史』

グラフィック表現能力が凄いことになって、google の3D 地図を手づくりするとか想像するだけでもう絶句ものだけど地球規模で実際にはできるようになっている。
身近な空間での勘違いを避けられる程度の精度を得ている。

フライトとなると飛行機の挙動模擬だけではなく、操作パネルのいつ頃の再現だとか、どう動きどう故障がごく稀に発生し易いかとか、飛行機の挙動にどう影響するかとか、飛んでなんぼの装置だから、どういうルールがあって安全性の最低限は保証し合うようになっているのかとか、人為の装置の部分の制度的な模擬も込みでないと、立体地図観察用の飛行物体でしかなくなってしまう。
立体地図観察用の精密な装置も一方では重要だからこちらも手抜きしてもらっては困るのだけど、フライトのシミュレーションだったらそこはしっかりマネジメントしてより今可能なできることを盛り込んでだれもが使える形での提供が要る。
そういう装置は簡単モードと通常モードを使い分けられそうだ。簡単モードで慣れて、通常モードとなると、だれもがその手の職業につくわけではないのだから、という使う側の選択肢が見え隠れしてくる。そこで自ずからそのソフトの使い手の数は限られてくる。数を売って儲(もう)けてしまえ、だとそういう質量制作への動機付けとはなりにくい、と判明する。これがこの何十年か流行ってきた実質の辺りだ。USの映画でも既にそこの危うさには気付かれていて、デンゼル・ワシントン氏が出ていたトニー・スコット監督作『アンストッパブル』(Unstoppable '10)で熟練を育て続けることの貴重さなどひしひしと伝わってくる話になっていた。
ただマニュアル方式が一方的にダメだ、という話にはならない。ハンバーガー外食店ほか蔓延しているマニュアル式社員教育は使いようだ。介護施設には向かない、と指摘できる。断言に近い。熟練、場数をこなしていれば、大抵の難題に、対処のための"漸近線"を張れる。慌てたり、ましてや八つ当たり的にキレたりすることを我が事として制御できる、酷くてもそこそこの所で食い止められる、自分に向けて。
今時、他人にいちいち指図するような異常者はごく稀だ。
ところがその巷(ちまた)で愛想よくあいさつを交わしているだれかたちの中から、介護施設ではお年寄り相手に指図しまくる異常者になるだれかが現れてしまう。でも(10年以上できれば20年かそこいら)長年月の経験者に取り巻かれて育っていればそれを抑制しつつ他人からは落ちついて対応してくれているように受け取れる振舞いを熟練たちから見て聞いて学びつつ育つことが可能になる。慣れが、(お年寄り諸氏にとっては不都合なタイプの)手抜き術も身に着けさせるからそこは見極めが要る。
でUS系のマニュアル方式の発想の元には、どうやら、新米でも一定水準の仕事をこなせるようにするという高い志を控えさせているらしい。
だからと、つい安心して採用した結果がUSであり列島事情だ、ということになる。
仕事の質の低下は招きやすいけれど、職人たちが安月給で時間を惜しまず、だけど息抜きもできていた頃の仕事の質量は保てていない世の中になってしまった。
住宅は耐震設計ということでは、設計の巧みかもしれないし、その性能は発揮できているようだ。簡単に大量に作り続けて、質は保証できているから文句ないだろ、と、なりそうだけど、四季と乾燥、湿潤の繰り返しが当たり前の列島環境で、他人に費用を負担させているだけじゃない、という問いかけに、だれもがそういう依存関係になってるんだから、でごまかせるだろうか、と素人は投げ掛けられる。
耐震性だけではないのが、住宅だ。

ウィキペディア記述の独自性について誤解された方はほぼないと見たいけれど、一応、注を。
列島は、書式文化に長けた流れを外来としてかなり質の異なる文化状況が引き受ける歴史的経緯を持っていると素人は見ている。
九州・百済系はもう中国の良いところどりできる位置にあったのだから当然使いまくってかなりのことをこなして、体質としてもそうさせていたと想像できる。一方列島の多くでは、半島経由の人々、日本海周辺のどこかしら経由の人々と大陸系の、様々な文化由来を引き受けた諸氏が大勢やってきて住み着いて、新参者も迎え入れてきていた。
そういう人々で安定的に集団を保っていたのは氏族・血縁系・地縁系の人々の集団の営みで、争っては家族が傷つくのだから、ヒトの知恵が相当に駆使され続けたろうことは想像に難(かた)くない。(同じ脈ではなく他の脈を複数巻き込んでの集団の束ねとなると、王的な集団の統率工夫を取り入れてしまった地域もありえたくらいは例えば奈良の辺りのどこかとかでかなり有力なだれかとかで想像してみることもできそうだ。それでも広域ではそれぞれの自律集団の共存の試行錯誤のあり方として見る。それと一部の中央集権。)
なんらかそれまでの長年月の知恵、或いは、たまたまある土地での棲み分け経験を共有していた人々間の知恵とかが働き合って、シンボルを使っての共和を試行錯誤していたくらいまでは想像しやすい。当然シンボル立場を引き受けた場合、超然として普通じゃなくなるわけだ。"煩いやつら"の要求から雌雄の離合集散に翻弄される個人の振舞いなどありえない。そういう"個人(というよりはやつらの仕業なのだが)"の都合なら巷で済ませなさい、ということだ。だから超然としてヒトではないような立場を得る。仮に雌雄事ならば、わたしはその雄を配偶したいとなれば、そうなるだけのことだ(やつらの思惑から盛っているタイプとは異なる。ヒト・生き物離れした振舞い)。でも厳密に限定的な行事に囲い込まれている。そんなことを巷に波及されては困るからだ。限定的”範囲”が想定されていて、しかもヒトのようでヒトではない。そういうシンボル的立場をだれかに担わせる。代々のはずはなく、選抜の習慣だったものが面倒くささとか立場の味をしめたとかなんらかが作用して代々となってしまう可能性も起こりうる。ただ普通の巷のヒトの欲求を満たしたくなるような自由を表現するだれかなら不適格、ということはシンボル性を保つために必須とされていたとこれも想像できる。人並み外れた寛容とか受け入れ力の優しさ発揮めいた象徴性。だから中間のフィルター役が要った。なんでもかでも受け入れるわけにはいかないのだから。実際の政治にはだから相応しくない立場、ということも明確だ。リーダー達はそういうシンボルを間において均衡を保とうと試行錯誤し、巷はそんなことは露(つゆ)とも知らず、雑多に生活を送ることができている。そういう長い年月のころ。

中央集権でしっかり納まる経験を長年月積んできた勢力も列島の一部を構成し(シンボル不要な分王的中央を作用させている)、(その一方で)由来の異なる氏族系の諸集団が割拠して一応平穏に棲み分けていた各地が、ある事件をきっかけに中央集権にした方が良さそうだねの信念を馬力にした勢力と後ろ盾の圧しによって、今日に至る、ということもまた起こりうるわけだ。

そこで書式の件。書式をしっかりして残しなさい、と藤原氏系発想で散々言われているにもかかわらず、列島の官僚教育を受けた諸氏ですら、出来ない人々が大半なのが列島なわけだ。これには実に長い歴史由来を想像しないとまずいわけだ。
一方にさらさらっとこなして負担とも思わない脈もずっといっしょにやってきている。でももう一方はメモだって要らないくらい記憶系操作で何事かを成してしまう別の意味で長けた脈が未だ列島では膨大にいらっしゃる。
そこらを見極めておかないと、いらない争い、今時ならワイドショーとか週刊誌ネタにさせかねない。
でも、PCの性能比較を、と目論んだ時に書式が同じ出来(しゅったい)元の資料なのに書き手によってばらばら、ということになると、もう時間の浪費に付き合わされること間違いなし。素人的には、そこらくらいはなんとか、ね、PC のスペック表記として大事なことの最低限、その次は、更に書き加える場合は、くらいの段階までは、種目を同じにしておいてくれるとありがたい。そしてもれなく。


史記述について色々工夫されてきた辺りを簡潔にまとめてくれていて、素人にとっては参考になったので紹介。

地中海世界における「古代」と「中世」― 西洋史学と世界史教育のあいだ ―
─ 267 ─千葉大学教育学部研究紀要 第66巻 第 2 号 267~276頁(2018)
戸田善治 澤田典子著

連載は続く~ SF 掌編『回顧的 PC に関するレポート』編


映画『long goodbye』('73) での Elliott Gould 氏の姿を見て、なぜかルーサー刑事を思い浮かべていた。多分、そういうことはありうる。

その頃からブレトンウッズ体制を止めることにして、別の脈絡も混ぜるように生じさせての経済の営みからくるもみくちゃを巻き込む昨今の試行錯誤は始まっている。

既存のグローバル環境を既知とせざるを得なくして・・・。

しかしPCの世界では激変が起こりつつあった。
メインフレームの世界にて、応用可能性大の要素は開拓されていた。
IBM社の system/370 (IBM 3340[ウィンチェスター技術]ディスク記憶装置+仮想記憶+仮想機械)(*1)
*1 参照のその先の手始め的資料はウィキペディアから得られる。(仕様比較のための資料には日本語ウィキペディアは整理が独特すぎるので、英語のを探したほうが良さそうだ)

話を先に進める前に、書き手が事態の推移について、どう見てしまうかもしれないくせの元の辺りを一応紹介しておきたい。

出だしはmsx を身近なだれかたちが騒いでいた時期をかなりすぎた頃で、忘れられつつある時期に、雑誌広告にて格段に安く通販されていた msx2+マシンの sanyo社PHC-70FD2(*2) を購入したことだった。
初めからゲーム機としてではなく、PC のようなノリで探して見つけた安い機種、という受け止め方だった。
*2 FDD 2台付、FM音源、付足しデバイスが豊富(例えばデジタイザーとか)、差込ROMにより機能拡張、sony製トリニトロンモニターでRGB表示可能(別売)
(後述するけれど、この時点でz80マシン上で作成された the cockpit(鈴木浩氏作) という超有名なシミュレーションゲームは流通していた・・当方はまったく知らなかった)
マシンの力が無いだけで今時のPCの楽しみ方と同様のことができていた。
更に、今では、そこで可能だったし、構想できたことを含む携帯端末というPCの超小型をほとんどの諸氏が持ち歩くくらいの状況となっている。これは携帯を使わない当方からすると”たまげた”事態に近い。すばらしさとその反面がありそうに受け止めている。
エミュレーションソフトを使えばかなりの高精彩な画面にてMSXDOSほかを模擬できる時代だ。


当方の観点からしIBMの技術陣はすごいはずだ。
技術屋としてだけではなく、縁の下の力持ち的な働きが出来るくらいの力量を発揮するタイプたちだ。
けれども世の中の営みにおいては表役、そのストレスを栄養にしてしまうタイプ諸氏も必須だ。だから一方を持ち上げすぎてもまずい。

5インチのフロッピーディスクも付け足せる仕様だった apple II が出て('77)直ぐにUS周辺ではatari2600が出ている('77)。(*3)
*3 apple II (280x192,6色, cpu 6502)
atari2600(160x228,4色, cpu 6507)

1982年には commodore 64(320x200x16色) がapple II のフロッピーディクス装置の値段くらいで出ている(*4)。
*4 apple II 本体が 当時で30数万円くらい(IIe<高精細化> で40数万円)、ディクス装置('78)が7万円程。commodore 64 は7万円程。

この翌年('83)には任天堂ファミコン(256x240x52-56色(NTSC))が出る。
****** ここまでをふまえた注を。
****** 画面をご覧になれば一目瞭然、発色数と色種とデザインが見た目観に格段の差をつける。精細度も同様。

つまり、ファミコンが価格でも性能でも、他を圧倒しうる性能で登場してしまった。ゲームに関しては。

ただし、先にふれたように、the cockpit (**1) が1984年には出てくる。
PC モニターに仮想空間を作る発想はPCの使い手諸氏においては普通にありえた時期だったことを押さえて置きたい。しかも既に、シミュレーション水準でそれを3D表現できる力量さえ学習できている。
だから、ファミコンは既存の機種たちとの比較ではゲーム機として突出できても、シミュレーション系となると装置の面を含め、非力な状態で初陣を飾っていたことになる。
当方的な観点(結局ゲーム専用とてPC要素を欠かせない)だとゲーム系としての挑戦マシンは sonyplaystation(256x224-640x480,1677万色)('94末) を待つことになる。

1980年代は色々が試されつつ、IBM 技術陣の自負は、密かにPC文化伝播を目論んでいたかのように事態を推移させる。(とりあえず先の system/370 の技術の塊を想起)

ここで勝手な想像を一つ。昨昨年末に閉じたディズニーのBS放送のおかげで知った番組『マクガイバー』ではいかにも工学大好き系なヤツが活躍している。好きで素材を仕込んできた人生もろなヤツ。だから手持ちのなんらかをとにかく工学的に調理してしまって、窮状を凌(しの)ぎきる。実際のそれは言葉以上にすごい。知識と場数で、何かしらを道具や材料に応用して、なんとかする。列島でも仕事を任せられたプロ職人諸氏が古くからやってきたことで馴染みはあるけれど、今時の知見での工学作業は娯楽番組として充分に楽しましてくれた。そういう工学発想も兼ね備えた熟練諸氏を空想して話ている。

IBM社のドン・エストリッジ氏のチームが、その仕様を公開して(これが IBM PC互換機ブーム端緒だ)、マシン作りの別のタイプモデルを作って事業としても大成功する。
その際、歴史的にも興味を誘ういくつかを経てマイクロソフト社の DOSIBM社の PC-DOSとして採用して IBM PC 5150 に含ませる。
先にもふれたように、1980年代は、色々の時期。
ただし、MS-DOSIBM PC に載ってビジネス世界へ蔓延する。ここを注目。
グラフィック性能ではゲームマシンたちが覇を競う形で、性能を上げている。ただしブレークスルー的な性能向上はもう少し先だ。
モトローラ社も、インテル社もCPU開発でどんどん性能向上に努めている。
z80系も未だ元気だ。

列島業界でもNECはビジネス仕様で市場を席巻しつつある時期。富士通はFM-77にて同時発色4096色を実現した('85)。同じ年にUSでNESとしてファミコンが発売された。

1986年、東芝はラップトップにHDDを載せて発売。
msxmsx2(256x212x16_256色)('86) になってやっと先の the cockpit が出た('88)。
flight sim の acrojet msx版も msx2 仕様で出ている('88)。
列島では更に sharp社が有名な X68000(256x256x/512x512x65536色/ 768x512x16色) を出した('86)。すごい時期だった。

ところが IBM PC の世界では着々と性能向上の道が歩まれていたのだった。
1987年にVGA規格として グラフィックボード性能は 640x480x16色/320x200x256色:mode13h を出せるようにした。

欧米でメガデモタイプのプログラミングコミュニティを栄えさせたマシンの一つ amiga 500(736x567i(483i),16色/368x567i(483i),64色)の先行きはその時点('87)で明確だったはずだ。
ちなみにmsxでもヨーロッパ発のメガデモは盛んだった。

IBM PS/2 系マシンの付け足し用ボード 8514/A では 1024x768ix256色 を出せた('87)。

1988年になってmsx2+ (512x212,16色/256x212,19268色)仕様マシンが出る。

1989年にはインテル社が 80486(25MHz) を出し、DOS のバージョンは3から4へ。そしてSVGA規格も登場。列島、東芝はなんとダイナブック名称のノートパソコン発売。
当時も通過なさっている諸氏ならば、もう改めて思い起こされておられるでしょう。
勝負あった、というか、仕様の推進役が趨勢として出来ている。
OS の面で多用が可能かな、程度の時期だ。
ET4000とかS3とかが活躍し、XGA 水準のグラフィックを経験できていて、ついに1990年にIBMからDOS/Vが出てくる。
安いsvga 規格グラフィックボードやsoundblastarの音源ボード。それに日本語を使えるDOS。相対的に安いIBM PC互換機(intel 80486 が使える)。
同じ1990年、スーパーファミコン(512x239/512x478ix256_32768色)が出る。
使い道としてはファミコンと大差はないマシン。
翌年('91)、DOS のバージョンは5になった。
同じ年、CERN(この時期はスパコンの使い手諸氏が色々活躍している)のTimothy John Berners-Lee氏がwww仕様を出してくる。
どうです、その先を今なら見通せる?でしょ。
IBM PCXGA-2規格はなんと1024x768, 65535色 だ('92)。
1992年にwindows 3.1 が出ている。
1993年にはインターネットブラウザの Mosaic が一般に出た。
同じ年、お馴染みの名称 pentium cpu も出た。
DOS/3.1系の一方で、microsoft 社は NT系も出した('93)。
一年とばして1995年、yahoo社 が出来、IE も載っている windows95 が出て、翌年には 未だグラフィック画面でのカクカクが気になっていたのを解消する高性能ボード Voodoo が出て、どうやらそれが microsoft を動かし direct3d へ影響したと確か wikipedia に紹介されていた。
とばしてしまった1994年に sony社の playstation が出ていた。
2000年までにかなりの一通りのことが起こっている。
1997年の pentiumu II、1999年の pentium III
1997年にNEC社はwindows マシンの PC-98NX を出す。
1998年 svga 拡張で 1280x1024, 1680万色 が可能に。
同年に、google 社が出来た。
翌1999年 nvidia 社から Geforce256 (directx7対応)が出る。
この後、ゲーム機系ではPS2('00)、xbox('01/'02)。
OS の世界に linux が登場していて、REDHAT版のバージョン9は 2003年に出る。

********* 1997年にDOS版にて aerowinx社から precision simulator が出た。
********* シミュレーションは知識をどこまで過酷に使いこなせるか、くらいの力量を要する。でないと、そんなもんでしょ・・程度のわりきり質で遊ばされるようなことになりかねない。ゲームにはそういう"危険性”が付きまとう。
********* 先の the cockpit は工学社刊 I/O誌の1984年4月、10月、11月号に全プログラムがマシンごとに紹介されている。ネット上にバックナンバーを参照可。是非。
********* シミュレーションゲームは数あれどの世界がずっと続いている。でも、リアル志向なゲームプログラマーが活躍できる場もあるようで、先の precision simulator は、フライトの挙動や操作のこまごまについてかなりリアルに近づけるように試行錯誤されているタイプと紹介されることが多いようだ。
********* ゲームで楽しめればいいのだ、と簡単に言えるはずのない辺りにはゲームの歴史が長いゆえに、多くの諸氏において承知されていると察する。
********* だから、自ずからマシン自体が絞り込まれ性能を競っていたりもする。PC性能だけどゲームにより向いている、そういう作り。
一方でダイナブック発想からの開拓は試行錯誤の最中。細かい使いたい道具を手軽に作って対処できてのような便利ツールにしたいけれど、マウス+GUIの世界を作ってしまったので、かなり遠回りしている。今は手指探りに持ってくるところまで回復してきている。動かす距離の冗長さと物書きに必須の距離の冗長さを区別できる発想も要る。


いかがでしょう。趨勢とか変化とか、なんらかを想起してみる時のヒントとか提供できていれば幸い。
今回はここまで。

連載は続く~SF掌編『コロナ騒動、臨時便』編


不思議なのは、コロナ騒動をめぐって、趨勢とそれとは異なる様々な捉え方を熱心に発信されている現状だけど、素人からして、その症状へと達した過程でのごく初期からの治療内容、診療内容が時系列的にふれられる発信を目にしずらいこと。

だから COVID-19 の症状はこれだ、否、そもそも COVID-19 の独自な症状なんてないんだ、ということを判断できる基準を持ち得ていない。
ただわかっているのは、相当量の、ほとんどにとっては軽く済む感染症タイプであることくらいだ。
からして例外的にというか通常の風邪で発熱して苦しむくらいの量、同様に、だけど免疫系の暴走ゆえの症状になりやすい(とは言え、インフルエンザで重症化したり死亡したりの経過の様々をどれくらい満遍なく押さえての言及なのかどうかも、話者次第なので、さっぱり伝わってこない発信が目立つ。それと、免疫系の暴走、ゴミを沢山生じさせて血栓へと通じるタイプは今回の事例が際立っていて、通常ありえないことなのかどうかの医療知見が必用になる)。以下にネットで直ぐに辿れる資料(// の前に https: を記入)。

//influ.help/infographics/ から
    感染(万人) 入院   死亡 (人) ("超過死亡"を適用すると一桁違う)
2016/17  1046 | 15096  | 2569
2017/18  1458 | 20416  | 3325
2018/19  1200 | 20389  | ?

* 死亡者数については以下参照
//www.lab.toho-u.ac.jp/nurs/socio_epidemiology/blog/dqmvu90000000d2i.html

仮にコロナ感染疑いで受診した患者が最初にどういう診療内容を経①、医師は受診以前に患者がどういう薬品なりの自己流を経てきたか確認できているか②、それらを踏まえ、どういった判断を医師がして⓷、結果としていかなる薬を処方されどう服用して④、また注射他の薬剤投与が診療・治療の過程であったかなかったか⑤、入院後はいかなる生活を時系列的に経ていて⑥、食事内容はどうだったか⑦、心身ストレス負荷についての影響関係の観察を同様時系列的にしっかり整理されているか⑧、サイトカインストームを生じた患者についての投与薬剤ほかについて事前・事後の厳密な検証を経ているか⑨、サイトカインストーム対応自体の内容についても時系列的に詳細を記録されていて客観的素材とできるかどうかの検証⑩などなど、事態を冷静に把握するために素人でもこの程度の材料は想像できる。
そういうことのいくつかも異論や正論に欠く発信が目立って、なかなか判断材料に使いにくいのが現状。

ついでに、ドイツ系発信も自由を自ら用いたりで、科学かどうかを自らが判断できるかのようにことばを選んでしまう失敗と同様に、これまでの率直さがこれからの率直さを保証はしない辺りには疑心暗鬼ということではなく、手続きとして、指摘しておける。
サイエンスは信じるため用意されているわけではない。自らが検証する手法に熟達するほど使えるようにする考え方の一つ、程度に捉(とら)えられる。

連載は続く~SF掌編『コロナ騒動へはドイツ系発信が意欲的だ』編


きっかけは以下のコラム。

コロナワクチンの危険性
https://www.nnn.co.jp/dainichi/column/tisin/210225/20210225021.html

それと
『コロナパンデミックは本当か? ドイツから世界へアピール』
の訳者氏が副島氏の掲示板にて書き込まれていた内容。


今、ドイツの医療関係諸氏および医学に関わる諸分野の専門家諸氏が世界に先駆けてより積極的に率直なところをネット経由で発信し始めている。

列島でも孤軍奮闘的に専門家が発信されてはいたけれど、ウイルス自体への不信発信をどうとらえてよいものやら素人にはわかりにくかった。
上記主にドイツからの発信ではたとえば、ワクチンは血路とされるが恐らく血流、血管内というように受け取れそうで、そこで有効。先に、喉とか粘膜系で感染してしまうことを防げない。そういうワクチンの一般的な性質を紹介してくれている。
言ってくれないと一般にはわからないままになってしまう。

またUSでの州独自の郵便投票立法が成ったことを先日引用してみたけれど、そのヒドサも紹介してもらって初めて気付ける。
それと同様に、WHOからみで、様々に情報公開の前提となる定義に色々変更を経て、一般にとってはドイツ発信での指摘がなければ、そういうものかと受け取るほかない状況だったことにも気付かされる。
そこらは、是非、上記資料に当たってもらいたい。
目からウロコ間違いなし。

ヨーロッパが某阻止がちだけど、同じかそれ以上の意欲を持って、異議がしっかり提出されるようになっている。去年の末頃からどうやら活発になっていたみたいだ。
英語発信だと列島環境でもかなり活発にネットに乗っていたと想像できるけれどドイツ語系だとそこに時間のずれが生じさせてしまったのかもしれない。
ドイツ発信でも英語でしゃべってネット動画でも発信されている。
現内閣関係者や該当の行政組織に早急に届くとありがたい。

一応素人がざっとふれた後で感じていることにふれる。
中心的に積極的に専門的に発信されている女史の指摘からすると、かなりの確率で重い副反応を生じていておかしくない。もし、そうなっていない事態が実際ならそこは、動物実験がうそだったはずがないので、ワクチンの内容をランダムにかなりの範囲で検証した方がいいようなことになってないか疑問を持ち出せる。
点滴的中身に変身してないか程度の疑問。
なぜかというと、当初、打ってすぐに痛みや医療系の仕事に就くのも大変そうな副反応を正直に語っていたニュースと比べて、その手の副反応の報道が極端に(少ないというよりも)無いから。

介護に意欲的になるようなタイプ諸氏はワクチンに関する様々にも通じている知識の持ち主諸氏と推測できるので、特殊とは言え、インフルエンザほかのためにワクチン接種を半強制するようになる行政側の黙認のままだと、介護に関して意欲を持つ諸氏の現場就業は当分、人手不足が続くと予想できる。行政がワクチン接種は本人の選択で充分だとかの発信を強く打ち出せば、経営層も安心して、そこは放置できるようになる。責任問題は実に介護現場において、縛りとなりやすい。老人にとって相応しい場に変化させうるかどうかの工夫の投げ方にかかっている。

もう一つ、コロナ感染症とされる症状について、列島でも現場の医療関係者の中から率直な発信をされる諸氏が結構あらわれているように察せられる。
そこでなんだけど(結果だけの発信でなく過程もろの発信内容として)、どういう処置、治療、薬処方を挟んで結果、どういう症状を呈したのかの整理からも、コロナウイルス原因なのかどうか、これまでのカゼ系の諸症状への先入観を取り払って、もう一度熟考できないものか。

そしてドイツ発信から専門家諸氏なら率直に理解されるだろう、定義のおかしなところを修正した医学、医療の知見に耐える整理によって、事態を捉え直す作業をなんとか早急にこなしてもらいたい。


かなりの分野で停止状態を招き、石油系資源の大量消費部門とその消費による負荷の様については調べている諸氏においては相当な知見を得られたと想像できる。
素人的には、春先の花粉症について、世の石油消費の減量によって多少は軽くなるかと予想したのだけど、そうはならなかった。去年、今年ともにいつもと変わらない。
目の前でガス燃焼系にさらされている場合、しっかり反応する。だからそのどのあたりがより直接的原因かを探る必要はあるけれど、大きな環境での負荷軽減が即花粉症軽減には影響していない実験成果は得られた。
テキサス州の事例を持ち出すまでもなく、コントロールされた(厖大な石油・天然ガスが関わる)電気流通を当面は外せそうにない。

中央集権系と分権系とを区別して、歴史の由来を眺める発想を持ち込めば、列島の歴史についても、1500年もさかのぼった辺りからの知見について、色々な異論の出方へ再整理することを指摘できたりする。少数意見、多数意見それぞれに。
或いは列島知識脈について戦国の世前後での背景に藤原氏の相当な動きを見ない論は、媒介を欠くと素人などは初めから見なしたくさせる。
ほかに、たとえばイギリスの脈をどう見なしたくなってしまうのかの辺りにも素人なりの指摘ができるしで、終盤でのいくつかの指摘など今後もう少し丁寧にふれてみたい。(建前系や暗躍系やの論それぞれに異論を挟みたくさせるあたり)

連載は続く~SF掌編『茶陽縁数』編


そう考えている、かどうかはともかく、ありがちな方(ほう)、と言えば、理路の網の目の大雑把さ、濃密さの(個々における)様々を一応想起しつつ、結構しっかりがっちり、(考えを表明するにあたっての)格子を用意してしまっていたりだ。
一方でどうにも困らせられつつ、事実(認識の内実・過程の問題については、実際的意味合いを外さずにお互いが認識し合えている程度を想起してもらえていればいいのでは)の推移、発見とかと付き合わされ、付き合いながら、脈絡をとりあえず、理路整然、とは行かないのにも関わらず、描くことに面倒くさがらない作業、ということも持ち出せる。

確実さへとたどる経路は、たとえテレビドラマであっても、物事の推移に語らせるタイプの場合、参考にできるものだ。(犯罪ものの場合、事実の群れ表現だと、ヒトの成す事々にうんざりさせるタイプがてんこ盛りとなって、確かに現実とはかけ離れた様だけど、そう描かれる趨勢を内包してしまう所を、心配してか、もう一方のヒトの希望的実践の辺りを涙とともにエピソードにされたり、同じ事実にも関わらず脈絡の置き方次第で見え方すらが変化して、ヒトやその関係性も捨てたものではないめいたニュアンスが充溢してくる横山もの刑事ドラマも列島ではお馴染みだ)

脈絡に語らせていくタイプとして、ここでは最近ずっと見ているモース刑事もの、ルーサー刑事ものを指摘できる。事実、そこで起きたことのどう犯罪とできるか、どう"許せるのか”、をめぐる追及過程の濃密が答えとなるような描かれ方で、それをできるだけ”誠実”にこなしてくれるなら御の字、のようなヒトの描かれ方だ。
犯罪捜査のプロの面は何処にでもいる人々のどなたかに過ぎない人が、犯罪捜査についてはしっかりこだわって事に当たってくれている(かどうか)。
サイエンスのことに寄せるなら、サイエンス手法にヒトが辿(たど)り着けたとして、そこでの、ヒトが成す脈絡が、見た目整然とすることがある場合も勘違いとしてありそうだけど、すったもんだとしがちな事態として押さえておいた方が、気持ち、心身に相応しい。

このことは科学が証明してくれているから・・・、という言明(げんめい)は、サイエンスの手続き上困った方に当たる。科学が証明してくれているという”冠”を付けることで自明となるわけがないし、話者が手続きを踏む中で、他者からのは疑問なりを何処(どこ)に指摘できるかを、話者へサイエンスの過程として示せる。

手続きを端折った場合、言い張る内容間で、お互い齟齬(そご)を指摘し合うことになる。

日常、マスメディア状況ではこのタイプが派手に起こりやすい。
揉(も)め事化しないよう(そうはことばにはしないけれど)持ち帰る手法が作法として採用されたりもする。(そういうものかね・・・、とか、なるほどぉ・・とかの表現型(けい)を例にできる)

確かさをめぐるヒトの試行錯誤が、サイエンス手法へと辿り着いているとしても、だから、それ自体としての未達成感もあるだろうし、それが熟したとしても、手法的試行錯誤は(ヒトということから来る)”観念系”ゆえ、続く。

面倒を避ける為に何々学会とか概念の落ちつきを保とうとする営為を指摘される向きもあろうかと思えるけれど、そこらは宗派タイプを貶める意味で使ったわけではない、ヒトの集団の営為を目論(もくろ)む官僚組織タイプの一つと捉(とら)えておいた方が無理(そこに正義とか確かさの根拠が自動的に生じるかのような無理)を生じさせないで済ませられる。

ヒトの歴史上の経緯から、多数派圧とか集団圧の工夫をなしてきたことへは一応の同情はひつようだけど、より”実体”に寄せた工夫を指摘できるならば、サイエンスの営みとヒトが広く採用させがちな官僚システムの営為とは区別できる思考が要る。

官僚システム化動機の底には、集団営為として、食っていくことを目論んだヒトの、資源を集めて目的を達する線での、特定の形(かたち)化として想起できそうだ。(農業とか狩猟採集とか漁業とか自らはしないで、そういう営みから資源を納めさせる工夫面)。素人的にはヒトのくせと見ている。
ここらはかつて歴史系の当時東大におられた山内氏がフーコー(氏)は公務員(だよ)と指摘されていたことを、学問素人の当方がどう”落ちつかせうる”か的刺激を得ての今の時点でのことば当てに近い。

ここまでの脈絡から簡単に指摘できることにふれる。
一応トップダウン方式をなんとか成していた、という前提。
トランプ氏は、某氏がなにかと戦争好きなことに嫌気がさして人事を動かせる力を持っていた。
氏は、キャラとして激しくことばを浴びせるタイプだ。
同様に交渉次第で物事を動かすタイプだ。
だから選挙中のことばの激しさは中国、イランへと伝わっている。
そして、ことばでいちいち表現はしないけれど、交渉次第の激しさという実質を理解し合える相手であることが、素人受け止めだけど外交上の確実さとして伝わっていたと推理させる。
しかも、政権のことば発信は、むしろ諜報戦を仕掛けてあう間柄という一種の当然の緊張を隠さず(だからここらは隠したい勢力には嫌われそうだ)、それでも軍系のことばとして、引くに引けなくするタイプの発信では決してないことを氏のキャラは留保させている。
同じメリハリであっても、その付け方にかなりの相違を持ち込める。
特定の支持層ということで一億人近くの表は集まりっこない!!!
だから票を、資金を集めさせる手法を採用させているとも言えるし、資金ということでは極端な格差ゆえに実質民主主義性を無効に誘いがちにしているのが実情ではないか。
でも票は嘘を付かない。票自体が嘘の場合を避けるのが選挙のはずが・・という懸案はあいまいに解決させられている。そこにふれないもう一方の言論がどうにもUS事情をつまらなくさせている。
もしもキャラの違う、各作戦をつい放置しがちにするタイプだったら、諸外国もことばの激しさについて交渉どうこうではないところで反応しそうだ。
なにごともだけど、きっかけとなる何かしらを持ち出す。置く。
それがたまたま作用しだす場合、その持ち出す、置く内容には予め相当な工夫が要る。
それ次第で反応の網の目がある程度制約的な形を帯びてしまうから。
ただ持ち出す方は、一歩も二歩も引いて、広く巷がどうそれをめぐって動き出すのかを見ていれば済む境遇の諸氏に違いない。
乱暴な手に出てしまう人々、集団の営みがあるかもしれないし、慎重にで着々との間にその隙を突かれてめいた事態も起こってしまうかもしれない。隙があれば、新規参入願望の様々が介在してきて、巷の日々の生業(なりわい)で精一杯な諸氏にとっては相当に迷惑なことになるけれど歴史的にはごく一時でもそういう趨勢もはびこり、消滅するを繰り返しがちだ。ただヒト集団は知恵を付けてきているしインターネットの偶然を使いこなすこともできる。
デモで騒ぐけれど、いまでも同じ土地でひどい目にあっている(とテレビCMで地道に宣伝されている)少数をどうして今のように騒いで問題にしてやれなかったの?とつい列島気質(かたぎ)(テレビドラマでも弱者、少数をつい応援して、騙されることもあれば、すかっとすることもあるなどなど)が少々煩くなる。

江戸期のある時期についてその偶然とかかけがえのない条件とかを想起できるかもしれない辺りを、コメニウス氏が通り過ぎた”歴史”から探れそうにも思えている。