連載は続く~SF掌編『レポートの続編というか、付記、注釈など、その1』編

支払い手段の膨大量を采配できるような立場になってしまうと、たとえばフライトシミュレーターを他人を使って作るということが出来るようになる。
以前マスメディアのことで他人のふんどし比喩を援用させてもらったことが、ソフト作りにも起こる。
自分のマネジメント能力については少なくとも超有能だ、とか勘違いさせかねない。
勘違いしたまま富豪になって指図しているようなだれかもいたっておかしくない。それくらい(相対的には極く少数のPC/IT系)巨富たちが跋扈している世の中だ。

さて、DOS/V開発のいきさつの一面については古川氏の著書(*1)に具体的に紹介されているので是非参照してください。
*1 Impress R\&D『古川享のパソコン秘史』

グラフィック表現能力が凄いことになって、google の3D 地図を手づくりするとか想像するだけでもう絶句ものだけど地球規模で実際にはできるようになっている。
身近な空間での勘違いを避けられる程度の精度を得ている。

フライトとなると飛行機の挙動模擬だけではなく、操作パネルのいつ頃の再現だとか、どう動きどう故障がごく稀に発生し易いかとか、飛行機の挙動にどう影響するかとか、飛んでなんぼの装置だから、どういうルールがあって安全性の最低限は保証し合うようになっているのかとか、人為の装置の部分の制度的な模擬も込みでないと、立体地図観察用の飛行物体でしかなくなってしまう。
立体地図観察用の精密な装置も一方では重要だからこちらも手抜きしてもらっては困るのだけど、フライトのシミュレーションだったらそこはしっかりマネジメントしてより今可能なできることを盛り込んでだれもが使える形での提供が要る。
そういう装置は簡単モードと通常モードを使い分けられそうだ。簡単モードで慣れて、通常モードとなると、だれもがその手の職業につくわけではないのだから、という使う側の選択肢が見え隠れしてくる。そこで自ずからそのソフトの使い手の数は限られてくる。数を売って儲(もう)けてしまえ、だとそういう質量制作への動機付けとはなりにくい、と判明する。これがこの何十年か流行ってきた実質の辺りだ。USの映画でも既にそこの危うさには気付かれていて、デンゼル・ワシントン氏が出ていたトニー・スコット監督作『アンストッパブル』(Unstoppable '10)で熟練を育て続けることの貴重さなどひしひしと伝わってくる話になっていた。
ただマニュアル方式が一方的にダメだ、という話にはならない。ハンバーガー外食店ほか蔓延しているマニュアル式社員教育は使いようだ。介護施設には向かない、と指摘できる。断言に近い。熟練、場数をこなしていれば、大抵の難題に、対処のための"漸近線"を張れる。慌てたり、ましてや八つ当たり的にキレたりすることを我が事として制御できる、酷くてもそこそこの所で食い止められる、自分に向けて。
今時、他人にいちいち指図するような異常者はごく稀だ。
ところがその巷(ちまた)で愛想よくあいさつを交わしているだれかたちの中から、介護施設ではお年寄り相手に指図しまくる異常者になるだれかが現れてしまう。でも(10年以上できれば20年かそこいら)長年月の経験者に取り巻かれて育っていればそれを抑制しつつ他人からは落ちついて対応してくれているように受け取れる振舞いを熟練たちから見て聞いて学びつつ育つことが可能になる。慣れが、(お年寄り諸氏にとっては不都合なタイプの)手抜き術も身に着けさせるからそこは見極めが要る。
でUS系のマニュアル方式の発想の元には、どうやら、新米でも一定水準の仕事をこなせるようにするという高い志を控えさせているらしい。
だからと、つい安心して採用した結果がUSであり列島事情だ、ということになる。
仕事の質の低下は招きやすいけれど、職人たちが安月給で時間を惜しまず、だけど息抜きもできていた頃の仕事の質量は保てていない世の中になってしまった。
住宅は耐震設計ということでは、設計の巧みかもしれないし、その性能は発揮できているようだ。簡単に大量に作り続けて、質は保証できているから文句ないだろ、と、なりそうだけど、四季と乾燥、湿潤の繰り返しが当たり前の列島環境で、他人に費用を負担させているだけじゃない、という問いかけに、だれもがそういう依存関係になってるんだから、でごまかせるだろうか、と素人は投げ掛けられる。
耐震性だけではないのが、住宅だ。

ウィキペディア記述の独自性について誤解された方はほぼないと見たいけれど、一応、注を。
列島は、書式文化に長けた流れを外来としてかなり質の異なる文化状況が引き受ける歴史的経緯を持っていると素人は見ている。
九州・百済系はもう中国の良いところどりできる位置にあったのだから当然使いまくってかなりのことをこなして、体質としてもそうさせていたと想像できる。一方列島の多くでは、半島経由の人々、日本海周辺のどこかしら経由の人々と大陸系の、様々な文化由来を引き受けた諸氏が大勢やってきて住み着いて、新参者も迎え入れてきていた。
そういう人々で安定的に集団を保っていたのは氏族・血縁系・地縁系の人々の集団の営みで、争っては家族が傷つくのだから、ヒトの知恵が相当に駆使され続けたろうことは想像に難(かた)くない。(同じ脈ではなく他の脈を複数巻き込んでの集団の束ねとなると、王的な集団の統率工夫を取り入れてしまった地域もありえたくらいは例えば奈良の辺りのどこかとかでかなり有力なだれかとかで想像してみることもできそうだ。それでも広域ではそれぞれの自律集団の共存の試行錯誤のあり方として見る。それと一部の中央集権。)
なんらかそれまでの長年月の知恵、或いは、たまたまある土地での棲み分け経験を共有していた人々間の知恵とかが働き合って、シンボルを使っての共和を試行錯誤していたくらいまでは想像しやすい。当然シンボル立場を引き受けた場合、超然として普通じゃなくなるわけだ。"煩いやつら"の要求から雌雄の離合集散に翻弄される個人の振舞いなどありえない。そういう"個人(というよりはやつらの仕業なのだが)"の都合なら巷で済ませなさい、ということだ。だから超然としてヒトではないような立場を得る。仮に雌雄事ならば、わたしはその雄を配偶したいとなれば、そうなるだけのことだ(やつらの思惑から盛っているタイプとは異なる。ヒト・生き物離れした振舞い)。でも厳密に限定的な行事に囲い込まれている。そんなことを巷に波及されては困るからだ。限定的”範囲”が想定されていて、しかもヒトのようでヒトではない。そういうシンボル的立場をだれかに担わせる。代々のはずはなく、選抜の習慣だったものが面倒くささとか立場の味をしめたとかなんらかが作用して代々となってしまう可能性も起こりうる。ただ普通の巷のヒトの欲求を満たしたくなるような自由を表現するだれかなら不適格、ということはシンボル性を保つために必須とされていたとこれも想像できる。人並み外れた寛容とか受け入れ力の優しさ発揮めいた象徴性。だから中間のフィルター役が要った。なんでもかでも受け入れるわけにはいかないのだから。実際の政治にはだから相応しくない立場、ということも明確だ。リーダー達はそういうシンボルを間において均衡を保とうと試行錯誤し、巷はそんなことは露(つゆ)とも知らず、雑多に生活を送ることができている。そういう長い年月のころ。

中央集権でしっかり納まる経験を長年月積んできた勢力も列島の一部を構成し(シンボル不要な分王的中央を作用させている)、(その一方で)由来の異なる氏族系の諸集団が割拠して一応平穏に棲み分けていた各地が、ある事件をきっかけに中央集権にした方が良さそうだねの信念を馬力にした勢力と後ろ盾の圧しによって、今日に至る、ということもまた起こりうるわけだ。

そこで書式の件。書式をしっかりして残しなさい、と藤原氏系発想で散々言われているにもかかわらず、列島の官僚教育を受けた諸氏ですら、出来ない人々が大半なのが列島なわけだ。これには実に長い歴史由来を想像しないとまずいわけだ。
一方にさらさらっとこなして負担とも思わない脈もずっといっしょにやってきている。でももう一方はメモだって要らないくらい記憶系操作で何事かを成してしまう別の意味で長けた脈が未だ列島では膨大にいらっしゃる。
そこらを見極めておかないと、いらない争い、今時ならワイドショーとか週刊誌ネタにさせかねない。
でも、PCの性能比較を、と目論んだ時に書式が同じ出来(しゅったい)元の資料なのに書き手によってばらばら、ということになると、もう時間の浪費に付き合わされること間違いなし。素人的には、そこらくらいはなんとか、ね、PC のスペック表記として大事なことの最低限、その次は、更に書き加える場合は、くらいの段階までは、種目を同じにしておいてくれるとありがたい。そしてもれなく。


史記述について色々工夫されてきた辺りを簡潔にまとめてくれていて、素人にとっては参考になったので紹介。

地中海世界における「古代」と「中世」― 西洋史学と世界史教育のあいだ ―
─ 267 ─千葉大学教育学部研究紀要 第66巻 第 2 号 267~276頁(2018)
戸田善治 澤田典子著