連載は続く~SF掌編『夏のように感じるかもな今日一日』編


US 発信を信じてというか感化されて自由のなんらかをイメージできているとして、その時に、US 本体がそこを強いて言わないことにしてきたおかげで結構せっかくの試行錯誤を失敗させがちにしてきた筈だという辺りを指摘することは、素人にとっては簡単になる。
それは既に諸知賢においてネット(の時代)以前から発信されていたから。
どういうことかというと、US は(古びた言い方をたまたま使ってみるなら)”深層心理的”に若者文化の勢いでなにごとかを成していく。若者期待をなぜか発揮しがちの土地柄だ。
地域の伝承によっては違う所もあるかもしれないけれど、海外へ費用のかかった発信で散らばる印象操作ではとにかく若者文化が実質を支えている。
その欠陥(といってしまうけれど)を見ないことにして結局、たとえばナーシングホームは先進国USには相応しくない展開を温存していると言えそうだ。
その失敗の原因をしっかり踏まえて、US 印象の自由とか生活のあり方とかについて試行錯誤できるなら、必ずオルタナティヴでの結果くらいは得られる。でも見て見ぬふりのところに、気付かないでいると、一見民主主義系のプロテストとかと思い込んでいることが、混乱の後の成果を生めるとか程度の試行錯誤にさせがちにしてしまう。
大きく歴史展開と見れば、どこかしらで偉大な実験を成しながらヒトはより上手く共存できるやりかたってどんなだ?とか試してきたわけだから、諦めて”不良のり”に誘われるよりは、多少不良じみてしまったとしても、試行錯誤で共存可能性の細やかさとか大胆さとか端折らないやり方を模索し続けることは大事だし、そこらは若者の特質で信じ込みの突進系も仕方ないとしても、年寄りたちの試行錯誤が紛れ込んで単調に強引にできてしまうことのない程度のパスカルの原理が参入という契機と関わり続ける必要も指摘できる。
そうなると年寄りが無理、無謀に忙しくなる?それではまずいので、それこそ若者へは年寄りの尊厳をなんとか保つそのことも、試行錯誤の内、と言っておきたい。

ところで、自律の論というと大袈裟だけどその素人流を少しふれてきているわけだけど、うすうすかパッとか気付かれていると思うけれど、昔も今も超資産家の系統は家族を実は大事にしてきた。
資産を散らかさない工夫をしてきた。
子供は独立だ、親離れし度の巷は散らかって、返って効率の悪さを実質では体験してきているはずだけどマスメディア経由の印象操作は強烈だから、違うかも、とか思えても、大勢には流されがちにしてきたのではと察する。
そういう事態推移は、コロナ騒動でもそうで、政府はどちらかというと要望へはイエスに近い方で応えて行かざるを得ない。でも旧態の与党なら、内部に異論噴出を演出できる術を持っていた。野党はその時点で選択を誤ると、メディアの圧の悪い面に付き合わされることになりかねない。
マスメディア発信は、内部の詳細においてはカナダの知賢が発信してくれていたように、様々の情報が散りばめられている。だから研究者にとっては、型どおりには、偏ってないんじゃない、とかお茶をにごす発信しかしにくい。でも、どの時間帯にだれに発信させ、そのことば選びはとかでいくらでも印象操作は濃度程度のことも簡単にできてしまうので、大勢はそうではなくても瞬間瞬間の実際の現場から遠ざかりがちな政治関係者ほどマスメディアの騒ぎを踏まえるような情報操作に乗りやすくする。で、世論が騒ぐからで、コロナ騒動の今進行中のようなことにしがちで、選挙結果とかを知って後悔しはじめても遅いというようなことが土地の性格によって起こり始める。
話を大幅に戻して、たとえば、農業を代々の諸氏においてはだからトウシロウ(素人をきつくいう言い方ですね)は困る!と直観的に反応されたのではないか。
女性たちの将来も確かにそうだけど、土地としっかり結びついて継続することの重みを熟知している諸氏にとっては、肝心な事を忘れてない?となるはず。資産とか、引き継ぐ財産っぽいイメージのこと。
だから素人が簡単に指摘出来たのは、昔でいえば無産な層にとっては比較的応用しやすい辺りとなる。
ただ今時、そこらを踏まえないわけではないので、それにそれぞれ事情、ということを想起できれば、その先の試行錯誤は個々の事情に即して形を試してもらいたい、ということになる。そしてその具体的な形が更に応用の試行へとつながる。そういう誘い。
実際にどう資産の性質が機能していようが、一方で厖大な個々の女性たちが長生きし続ける。厖大だ。そして長年月。施設に放り込んで後はなんとかなるさ、ではもう済まなくなりつつある。
実際に、個々のご家族においてはしかたなく施設入所、という切羽詰まった感の方が大勢のようだ。
心配しつつ、でも家族に含む形で面倒は見切れない。そういう老後老人諸氏の扱いの難しさは、若者も含め、個性の熟成とかを想像してもらえればおわかりになるのでは。
だから、過疎地において、家族の面倒にはならず、自分ではってでも自活生活を選択できる幸運な老人たちはそこでくらしたがる。それこそリアルだ。
若者たちが農業とか牧畜業(BS 放送で見ているとかなり大変だけど工夫次第で興味を誘う)とか漁業とか自発的に引き継いだりやりたくなるような大局をいじる策での工夫のフォローもきっと要る時期にきている。
資産系というか金回りの良い人物の一つのやり方については周知になっているとおりで、丹下左膳大河内伝次郎氏、でここでは鞍馬天狗のアラカン嵐寛寿郎氏。氏は同棲して、離れる時には住まいなど資産を相手に与えてしまったという。そういうことを繰り返した稼ぎ手だったようだ。
無産でない層はそういう生き方、関係性も可能ということ。個々の試行錯誤は様々だ。

 

連載は続く~SF掌編『免疫能、認知能が育ち続けるヒトの老い』編


この問題は解決済みかもしれないけれど、幸いというか素人なもので、知らないから、ということで指摘してみたい。
摂政のこと。
やけに持ちあげれたキャラとして登場する聖徳太子像ということが共有されているみたいだ。
その聖徳太子こそ推古の時期に摂政となった。
そういう摂政と立派な聖徳太子ということで摂政イメージは出来上がってから、藤原氏の摂政との関係が出来てくる。
放送大学の日本の古代中世史の素人にとっての九州知見からは物足りないという生意気なことを指摘してしまっているけれど、第5回か6回目の講義の途中を見ていた時に、聖徳太子のエピソードが有名であることと、摂政職のイメージ上の使いやすさをつい合致させたくした。日本書紀の時代的成立過程からしてそこまでくらいは仕込んでおくこともありえたはずだ、と素人には強く思えたわけだ。
で、歴史に関する事情通諸氏の桁違いな知識量からここらを探れるとか、もう既知のこと、であるなら、紹介してくれるなり、期待したくなっている年寄りだったりする。
(日本書紀を作るに当たっての作為の要素に、後年の藤原氏による応用が含まれていたはずだ、の辺り。藤原京を帝国中央のお膳立てにより・・のことは前回かでちょこっとふれてみた)


小説家諸氏、SF系の諸氏こそ、もうおもいきり想像をたくましくして、ここらの時期のやりくりを映画の原作をめざすくらいの感じで、量産してもらいたいものだ。
そのうち、きっと研究者の方も、走り出してくれるのではないか。九州王朝あり派の諸氏においても、もう少し絞り込めて、彷徨感を薄めて、どどっとおもしろいし、実のところにより近づけさせる説を噴出させてくれるのではないか。
それに折角の森氏の仕分け作業を、応用し切れていないところを、森氏にかわってたとえば映画にもできるくらいのドラマにも、研究成果にもしてもらえそうだ。


当方、年はとってもたいしたことないやつなので、自由をはばたかせて、の自律の話はなかなかできそうにないけれど、介護職経験から、死別とかなんらか境遇を突然変更せざるを得なくするようなことがごく当たり前に起こるのが長寿の世の中なのだから、ということで、特に女性諸氏における自律力のことはふれたくさせる。
田舎育ちの線からも、若年時に、親しいだれかを置き去りに自分が逝ってしまうような場合に、相手が対だった相手に固執することも変なことだろうし、固執を強いられることは更に変なことだ、という話に頷けていたタイプだったからか、とにかく、老いて、それまでも対話相手をつい身近に求めてしまうだれかだったり、もみ合う相手をつい求めてしまうタイプだったりするなら、万が一、その頼りの相手が突然いなくなるような場合、当然のこととして、新たに日々そうしていける相手を探すことはちっとも不都合なことではないはずだ、と指摘してみたくなる。
もちろん、いざ探すとなるととてつもなく危険を伴わせる。危害を受けやすいとかの話であるより、夫婦的どうってことない距離を取れてしまう辺りをすぐに実現できる相手を得られるとは想像しにくいわけだ。
話す機会を持って、それがお互いに、それぞれ優先順のトップを共有してる感を放ちだすと、お互いにとってそれは勘違いだよとは言いづらい。もうその時点で、懐かしい距離感の回復話になってしまう。もう無理かも、ではいかにも寂しい。
一方で、年寄りのばあい、いついかなるきっかけで体調不良に陥るとも限らない。
そんな時にも、自分こそその人なら優先順トップで面倒を見てくれると期待できるとかお互いが見なし合ってしまうと、これも多分、不都合を巻き込みやすくする。
都合、不都合のこんがらかりは、人間関係が複数になるほど、簡単に生じやすくなる。
だから形式的にでも、夫婦の制度はその場合の逃げ道を提供はしてきた。言い訳となる。だって夫婦だもん、で済む。
だから、と素人的には、夫婦だろうが、そうではないとにかく若いころから、両性において、自律できている条件を確保し合える世の中のしくみとか慣行を用意できた方がいいかもね、など想像する。
大抵先に逝く男たちは、残る女たちの将来のために、信用できる知り合いを並行的に何人かでも付き合ってもらえるようにしておくとかが相応しい。自分は特に知らないけれど、円滑な付き合いが成り立つような知人・友人つくりをお互いが邪魔しない。時に共通の友もいたって、的な散らばり方の方が良い。そして磁力は信頼し合ったその時点での心を占めるお互いでいいわけだ。
そういうそのかなり先に老いの年代での、悲しいけれど、出発でもある別れを何度か、女性たちは経験しつづけることになる。ごく少数の男性たちもそういう準備が要る。


縁側で10分とか30分とか2時間とかお茶しながら雑談できる間柄ってのだって、それなりに乙じゃなかろうか。年よりじみすぎているか・・・。

若者作家こそが老人期の(本当に長い!!)長年月を描く想像力を育ててもらいたい。

連載は続く~SF掌編『本日もかなり強い風が吹いていた』編


俗っぽく言うと、こいつ生意気な!と怒られかねない言葉使いをα群では用いられている。
日出るとかの類に似た、帝国の側と競うような呼称を用いている。
だから、と専門家筋の発想では、中国人向けに書かれているわけではない、と判断されているようだ。
素人ゆえ、そこらを汲み取ることなくSFのりでもう少し想像したくなってもいる。
文字使いということではかなり優劣意識を持ったタイプが多少不利な立場で列島に来ていると仮定できる場合、文字の読解力とかを生活の中で確かめておいて、イジメ意図とかを含ませ、使っている、とも取れないか。列島内では、あなたたちのボスはこれくらいの表現が必用な立場だよ、とかおもねっておいて、納得させつつ、外交上、正史の引用として使えるのは、もちろん、中国語で読める部分になるのだから、そこを読ませて、当然読み手は怒る。それを期待している。してやったり!となる。その後の待遇については、覚悟の上で。
井上、森論争というのもあったらしい。井上氏がけし掛けて、森氏がいかに凄い成果を上げているかを他の専門家にしっかり語らせる役をこなしている。
ヒント的にちょこっと要所を褒めておくことを忘れずに、だけどそれ以後はもうけちょんけちょんなことばを配する。だから当然、だれにも凄い仕事だとわかっているので、怒りに似た状態を誘って、しっかりしっかり森氏の仕事の凄さを紹介するように仕向けている。
策略系発想。
ただ、白村江以後の占領という事態を決して認めようとしないみたいだ。
だからわかりにくい記述に陥ってしまう。(日本書紀は占領史を経て後の事業だ。そして近い時期でのいかにもな都設計の”藤原”京の出現。中央からの応援あっての持ちあげ方とか色々想像を逞しくできる。もっとドラマ部門が頑張って"SF"仕立てで沢山出してもらいたいものだ)
お互い、肝心なことを認めない勢力として同じなのに、聖徳太子がいるいないで論争するようなことになってしまう。(以後の資料を元に、しかも独自の解釈・前提に立つところからの記述になるから)
九州王朝を認める派は、聖徳太子と混同しているだれかがいるでしょ、という話になっている。
そして素人的に、もし二人いるのに、一方がそれを一人と認定してしまうなら、こまったその先を予想できる。
メインストリームの記述と思えている文献の人物を認める場合、と認めないけれど、そのだれかをいちいち探り当てることをしない場合。
すると聖徳太子はいた、となったり、いない、で済ませたりの話に流れてしまう。
九州王朝派は二人いる。メインストリームの歴史記述の一人もいたはずだし、九州王朝にこそ、その名だたる人物がいたとする。混同しないでくれ、という期待がある。
ハイウェイのこととか、ヒント盛りだくさんになっていると思うけれど、ある重要な期間について、素直に事態を整理する段とはなりえていない。
ここらは放送大学でのその時期についての講義でも、占領をまぬかれたような話にしていた。だからちょっと重症のままで、議論の為の前提をしっかり用意してやる必要を指摘できる。
それでも、地名の同一分布とか不思議に素直に応じている研究者が出ていることは既に紹介済み。
どういう接近の経路を取るのかどうか。
中央公論新社 2011年刊の森氏の文献以後の成果をなんとネットで発信してくれている。
”『日本書紀』区分論”(和光市理化学研究所にて講演したもの '17.08.24)
ちなみにしっかり森氏の論をフォローされていたのは石井公成氏。
素人はもう少しSF的に接近を試みたい。
ただし、先のように当時の中国向けにストレートにその用語を使った文献を読ませたらかえって反感をもたれるぞ、という専門家の指摘はしっかり頭に入れておいてほしい。
そこを SF 発想はすり抜けて、別の脈絡を様々に持ち込んでみたいな、と思えてしまうわけです。


これも先のことの注釈じみてしまうけれど、たとえばの話、ずっと思い続けてきたんだろ、だったら応援してやるから、とかなんとかで、相手やその周辺に、やつはずっと思い続けてきたんだ、答えてやれよ、とかしつこく付きまとうとか、空気で取り囲むとかされたりして、普通、迷惑と思うと年寄りは見る。
それは今ならストーカーに(思い続けるだれかを)無理やりさせてしまう仕業(しわざ)だ。
だから年寄りということではなく、そういうことは決してさせない。
だれもがお互い性(ここではお互い様と言わず、性質の方に寄せて)の中で、微妙、繊細な気持ちを大切にし合っている。そういう世界だから。また近代はそういう方向を選び、試行錯誤している最中。難しいけれど、当方流にはそこへいつも漸近線を張り巡らすような働き掛けが個々の場において試されている、と見ている。
そうは言ってもの辺りについては、とりわけ女性諸氏の自律の実質とは、を時期的な機運としては持てているかどうかがいつも問われている、とこれも見ている。
その前に、煩い奴ら動機でのもみ合いの様々現象・引力を抜きにはできそうにないので、そこらを押さえておきたい。
そこではメス性、オス性がしゃしゃり出てきがちだ。
そうとうな引力圏を構成しやすい。その際、仮説だけど、メス性は巣を生み育てる巣をできれば用意してもらい、しかも誘い入れてもらうという一連の流れをオス性が成すように誘う方で、機能しやすそうだ。一方でオス性は動物のありがちな姿に似た単調な方向性でメス性に働き掛けたがっている。その際に、メス性がそういう求めなら、それに応じることが近道と判断しやすくなる。で、オス性が応じることでメス性を極端には騙せると勝手に思えている。メス性も、上手く乗せることに成功したかもなどこちらも極端には騙せたかなと悦に入(い)っている。とりあえず、オス性は、その為とはいえ、メス性に相当譲った格好で色々手を尽くすことになって騙された格好には違いない。
とりあえず、観念系の様々な意識的展開性を端折った収束系のノリで、一見メス性がオス性を騙し通せた一時を経て、だけど実は道具立てが揃えばメス性は騙されているかもしれないということに向かわないから、オス性が目的を果たせば、それで他の相手探し(たとえば鮭のように)となっても、メス性は、騙されてたのか、気付くのに遅れてしまうわけだ。ありがちな事態の中身はそういった性質のからくりとして素人的SF的には描ける。
そういうメス性、オス性の落とし穴で苦労するよりはもう少し観念系で自律し合って、付き合いの試行錯誤に走った方が、ヒトっぽいかも、も素人SF流だ。
稼ぎが大事な時代相だ。がっぽりかどうかはともかく、自前の生活が可能な最低限の社交性も含めた稼ぎが要る。先のようにメス性、オス性が先行して、子供を母親が育てるとかの理屈を通して生活苦も抱き合わせ、となるような境遇も生じやすい。できれば、これからの時代はその前に観念系を育てたい。でも過渡期だ。だから、色々な境遇の女性諸氏がいらっしゃる。
でも自律力を持てることは、オス性の制御にもなるし、男とか、そういう関係性に対しても、忖度の度合が全然違ってくる。男たちも、いつまでも支配的な発想をちらっと入り込ませるような男女の関係めいたのは、不要にできる。
女たちが自律的な実質をいつものことにできるようになれば、そう騒々しいことも起こりにくくなる。だって、自分で稼いで晩年までなんとか楽しくしていけると算段できるようになっているのだから。
市民社会は公務員を育て、しかもしっかり仕事(法の下の公務員ゆえ法をかさに縛りを利かせる発想に傾かないような公務員倫理をしっかり機能させられるかも一方では問われるけれど)に励んでもらえている状態を保てれば、性別関係なく、女だ男だが、それほど意識されることなく、そこそこの付き合い程度で、自分の生活位はなんとかしていけるように仕組みを試行錯誤している。
だから手っ取り早く、女男間の賃金格差の実質的に生じやすい条件はしらみつぶしが要る。
今時はそこらは既に試行錯誤されていて女男共に産休とか育児休とか取らせる仕組みを試行錯誤し始めている。性別役割分担の整理し直しには気づいて色々工夫しようとしている。
そういうことを詰めていけば、給料に差をつける条件もつぶしていけるはずなので、追々、格差をつける必然発想が不要になってしまう。
無理が少ないと見た時に政治判断を働かせて先取りするという手もありうる。
そういう稼ぎに関わる大局いじりを経れば個々の現場でも今時は追従してくるので、短期間で一応の状態を生める。
そういう稼ぎ上、将来不安をある程度しないで済ませられる自律した両性の環境が一応でいいのだけど成れば、関係性の持ち方もかなり変化させうる。
多分、そういう試行錯誤を経た土地柄では、世の中から、ストーカーっぽいノリは消え失せる。固執とかが不要なくらい、生活の自律にある程度の自信を持てている両性たちが”それぞれとして”それなりに楽しくやっているはずだから。
その先のSF像へは、情報統制に傾きやすい土地柄経験からと、USでの市場にゆだねることの失敗経験をそれぞれ詳細に検証して、どういう仕事はどう担えるようにしておくことが無理なく必用を満たし合えるかとかを指標に、具体化できそうだ。


ところで、ドローンの件。
先日テレビにて、ドローンだと燃費が悪くて、遠くまで飛ばせない、だった。
つばさの浮力を使って燃費を節約できるタイプこそが空中を飛ぶには適している。
でも、一定以上の早さを確保しないと浮力を得られないタイプとか、ゆっくりならかなり良い燃費を稼げるとか、なかなかこれぞというモデルを見出せない。
かつてのイギリスとかの垂直離着陸機も活躍している。
でも、凄い騒音だし、でかい。
で列島でも意欲的な若者はそういうつばさタイプのドローンを研究中とのことだった。
小型ドローンの本場おとなり中国で、ひょっとしたら凄いのが研究されているかもしれないけれど、とりあえず、今のところ、空中交通路・交通システムの問題も含め、試行中と押さえておけそうだ。

連載は続く~SF掌編『介護への応援その続編』編


グローバル環境下での介護現場に向けても介護の技量系青山流を紹介できる。
NHKEテレ放送済でお馴染みだったはずなので、そんなの知ってるよ。の反応あり?かどうか。
担いだり、結構ちから?要るんでしょ!なんていうカン違い反応も出てきそうだ。
しかし、こんな言い方もできる。
前回9割以上の列島在住諸氏において、いざ介護をすればヤバイことをやりかねないんだ。それくらいの介護ってのは質が独自だ。そしてできれば、それくらい諸氏においてコロナ騒動とは違う意味で、心配してもらいたくなる。
口に出しにくい関係性も生じかねないのだ。そうなると自ら問題を捉えて改良して・・というプロセスに導きにくくしてしまう。
どうせ自分はろくなことしてこなかったのだから、大した介護を求めちゃいない、よぉーだ。とかうそぶくのは勝手だけど、他人に手を貸す段でヤバイ、わけだから・・・。
自分がどうこうじゃなくて、ちょっとばかり恩返し、とか思って相手を介護しつつヤバいことになりがちにする。そういう難しさを指摘している。
答えるどころか仇として返すようなことになりかねない辺り。そぉして晩年を。自らの晩年を迎えることになる。
施設介護では様々な人生をやりぬいてきて途中っぽい諸氏がほとんどだ。
だけどここらは想像に過ぎないけれど、たとえば自分は熱心に或る宗派の教えを布教することに人生を傾けてきた。そして翻って、良いことをしてきたな、と思っているのに、なに!?これ、この介護・・・、ヒドイ、もっと私の話に耳を貸すことくらいできないの?酷いわよ。こんなことくらいもできないの、それに、私と同じことをやっている方もいらっしゃるんでしょ。なのに、これ?!
それくらい、生き方も、信心の内容も、マッチョかスリムか、も、性格が穏やかとか激しいとかもまったく当てにならないのという認識と介護をする側をどう形成させていたのかの関わり要因ということにふと気付かせる。
で世代的なものが、我慢と諦めを生じさせやすいから表ざたになりにくいだけ。
これからは、世評の通りで、じゃんじゃん、その現場でもろ噴出してくる。
これまでは、我慢の末だからご家族が下手すればモンスター扱いになりかねなかった。
これからは、適時、ご本人が発信しはじめるだろうから、そうはならないで済む。
ただ妙な勘繰りから表にしにくい”体制”を介護の業の方で過剰に”敷設”してしまう場合、過渡期の現象くらいは生じさせるかもしれない。
文句がでたから即改善できるわけではない。改善案と試行錯誤は様々に生じても、肝心のところを押さえない限り、ちょっとばかりの改良という意味ででも上手くいかない。
そこへ、素人に近いやっと10年の介護職が参考用に書き込んでいるところ。
結果個々性尊重に繋がる、相手の話に時間をかけて要望をしっかり理解して介護の日常性の中で整理もする(介護を受ける諸氏における利害とかのこんがらかるような現実も並行しやすい)。調整が個々性の尊厳尊重から外れない工夫が専門職性の見せどころ。
当然それだけでは足りなくて、技量が必須。それで具体化する。
その一つとして青山流があり、きっとNHKの職員の多くが視聴していたはずで、聞くだけではなく、見た諸氏なら、ということで、9割以上がヤバイ確率観点からNHKは半分以上が視聴、その8割は見ていた、となれば、生涯を共にしたいどなたか諸氏においては相手を見つけるなら、NHK職員の中からという選択もありうるわけだ。
青山流の良いところは、ボディメカニクスが様々な体形に出くわして応用発想にはちと足りないそうだ、という場面をたちまち経験しかねないし、逆に軽々とできることに誘うから、早くこなして休み時間を得ようタイプからは、それでGの大判振る舞いタイプの介護に誘いかねなかったりする。
そこを、学ぶときにもそうなんだけど、青山流は重要な技においては何段か技を重ねていくタイプなので、自ずと急ぐわけにはいかないようにできている。
そしてもっと重要なのが、なぜグローバル環境に適用できるかと関わる。
相手がかなりの重さで、巨大さで、足が使えないかも、という切羽詰まるような条件であっても、介護の側の身体がその相手の中に埋(うず)まってしまうくらいの差でもない限り(巨大過ぎの場合は無理です。青山氏ご自身だったらきっとそこでも即席に工夫してしまうでしょう)、自らの負担感をかなり軽減できたうえ、相手への負荷も多少窮屈感を伴わせる体形の諸氏もおありかもしれないけれど(ないし介護する側の体形も作用するしで中肉中背タイプの多い列島やアジア・中東・南欧・南米・各地の先住民系はこの時期に限ってはラッキーだ)、順を追って、相手がしっかり確保されて動き出せば、(介護される側=相手の)心配感も解消できて、すんなり移動・移乗が可能となる。
力を持て余すくらいの諸氏がグローバル環境においては大勢いらっしゃるはずで、その力を相手へのG負荷を厳密に意識できたうえで使いこなせるならば、どちらにとっても介護に適切な対処が可能となりうる、ということくらいは指摘できる。
もう一つ、糞まみれ、尿まみれのこと。
実際の現場では、こういうことは気を付けていても起こる。
経験とかその具体的な付き合いの過程で、くせが熟知されていれば、ある程度は避けることが可能。
でもそうなる。その場合に、えっ、糞、尿!なんていう反応の僅かでも心身表現として出してしまうと我慢の世代にとっては心身深刻度は相当なことになる。これからの率直・素直表現型タイプたちが多勢の環境ではまた違ってくるけれど。
そこは、だから、少なくとも顔に出してはダメだし、雑談とか作業の順をことばにして投げ掛けつつの経過を取れるように慣れておくと相手を傷つけずに済ませる。
それでも我慢世代諸氏は”済まないね”みたいな心身反応を生じさせやすい。
介護現場の一面の過酷さの中で助け合っている仲間的関係性をそこそこ意識し合えるような状態に日々積み重ねで持って行けていれば、またそういう反応のなにがしかは抑止できるようになる。一応、委ねてくれる。でも雑談とか手順(次どこそこに触れるから・・とかの類)についての声かけを途切らせないようにして、日々性を保つ工夫は省(はぶ)けない。
間違ってG負荷を与えようものなら、折角の日々は台無しになる。裏切られた感を与えて、年寄りの心身はがらっと元気を無くしたように変化してしまう。
G負荷を与える介護仕事をこなして業務を”てきぱき”こなして余裕のある職場は、お年寄りの元気度合いを観察すればすぐにわかる。ここは危ない、他を探そう、というヒントにできる。
業者というよりは現場の構成メンバー次第の要素が働きやすいから、そこらはこまめに熱心に、同じところを時期をランダムに計画的にずらして検証できた方が良いところを見つけやすくする、と素人はヒント発信してみたい。
話が脇道に逸(そ)れていた。
グローバル環境下での一応3つほど習得できればそれなりに介護の質を、ヤバいことをしかねない9割以上の諸氏においても改良は可能になるあたりをふれてみた。

連載は続く~SF掌編『三代の継続で200年間くらいは生々しく伝わる』編


相手が応じてくれるかどうかとは別に、介護する姿を観察できる位置にいれば、だれとなら頼りあえそうだくらいの判断はつくくらい、もろのところを表現し合える。
もろというのは、他人とどう相対してくれようとしているか、といった辺り。
だから介護職としての表現で介護しているだれかのことがわかってしまう。
ついでに介護する相手も、それなりにわかってくる、ということも添えられる。
そして、年寄り観点から指摘できるけれど、恐らく、いざ介護するとなると、90%以上の諸氏が露骨にやばさを表現してしまう。今、そんなこと自分には起こらないとか少しは介護わかってないしぃ・・とかでそれほどのことは起こりっこない、と思われているかもしれないけれど、間違いなく、9割以上の諸氏において、ヤバい方に向かいがちにする。
当方のわずか10年程度の経験でのことだから、たまたまそういうこともあるで、聞き流してもらって結構だけど、一つ。
ごく初期の仕事関係の中では、遅いなとか(以前ちょっとふれたように、早くこなす手法をとって身体も素早くこなせば相手がどう反応しようがのやり方になるけれど、とても早くは出来た。ただ二度とそういうやり方はしないことにしたこともふれた。胃瘻の方が、そのやり方嫌・不快、の表情をされたのだった)とかで叱責系の対象になりかねない。仕事っぷりを知られるようになってくると、休憩とか食事時間を多少切り詰めるのは本人のことだから、で流してもらえるようになる。そういう”リスク”を負うことを承知の上で、介護の際の相手の反応、声を聞くようにする。相手のリズム・ペースに応じるやり方を取る。すると、とにかく、本人からどうしてもらいたいなどの具体的な要求を言える方ならばそうしてくれる。話だけはそうして、実際の介護は力任せ、だとことばでの率直な、ないし素直な要求は指摘してくれなくなる。言ってもしょうがないだれかになってしまう。
それを施設での介護なら担当する相手諸氏の数だけこなすけれど、そのたびに全てとなると時間は足りっこないので、そこらは臨機応変が要る。
でわかってくることは男は男なりに、女は女なりに乱暴な介護にしがちなこと。
でも我慢の世代諸氏が多いのはたまたまにせよ、継続中。だから、表には出てきにくい。
介護担当が、得る枠スタッフに言われる”リスク”さえ”我慢”できれば、それなりの気持ちのところをことば表現で発してもらえるわけだ。
そういう、9割以上の諸氏が仮にヤバイ方に向きがちだとしても軌道修正できるきっかけを持つことができる、といった辺りに気づいてもらえるとありがたい。
でも惰性だと、気持ちの方で、ヤバい方にまっしぐらだし、政治家とか有力者に圧力を加える手法と似て、同じ穴のムジナでしょの圧を自ら感じたり、他者から仄(ほの)めかされたりで、ヤバいことへの加担→口を閉ざすとか自発的抑制に向かいがちにさせて実態を見えにくくさせる方に自らも加わってしまうこともありうる。
かのUSのナーシングホームですら、だったのだから。

人生百年時代を意識していたわけでは決してないけれど、人は、ヒト性で関係し合っているわけで、かくありたい、かくあるべしで括(くく)り切れない。
そんなことは田舎育ちだと人にもまれてかなりの若年時に気づき合っている。
上記とは違って、気ままな人生たちはごく少数だ。
ほとんどが対となってしっかり生活を営まれていらっしゃる。
それでも介護の経験からして、そのほとんどのほとんどの諸氏において、人生の余力をより多く残した状態で再び対とは異なる人生を歩むことになる。
欧米流として喧伝されることの多い、子供は早く独立して一家を構える風、を実践されているようなら、更に、独特に、単独生活者が目立つようにもしうる。
気まま系は、それを先取りしたような形になる。
気ままであっても、その多くは列島育ちの場合、そこそこ堅実と察する。
偶然の出会いはいつでも起こることだから、心を占めるだれか、がいるかいないかは、その時々の反応を決める、かなり。
たまたま心に占める具体性が希薄な時期だったら、お互い様を発揮する方に気持ちが動くかもしれない。
たまたま心に占めるだれかがいるなら、お互い様性を意識し合える間柄を意識できた時点で、そこらは開陳されていることだろうと堅実さ観点からは指摘可能。
そういうヒト性の無理のない姿勢を田舎育ちの諸氏においては若年時から持っているとか他人に想像できると察せられる。
だから、将来、気ままなキャラどうしとして再会するような時にでも、その時点で心を占めるだれかが居る?居ない?の表示をできるその時点、今の時点での間柄が成り立つキャラかどうかで、親密さへと向かう間柄に育てる気があるかどうかの判断がつく。
何気なく、今はだれそれが心を絞めててぇ・・・・。みたいな発信を感知して、なんとなく再会してみたいな、偶然でも、距離感を保てる間柄が、大事だ、程度を指摘しておいて、人生百年時代にも、それはかなり応用できそうだ、と思えているわけです。
とりわけ慣れ合い関係のためのいくつかをこなした間柄はそれが、屈折を生じさせやすくもする。
それが密な証拠だと思い込める諸氏はそうすればいいけれど、人独特の”引力”問題を控えさせ続けて、素人観点では、よろしくない。
一時に心を占めるのは少ない方が、ないし一人の方が、相応しいと素人は推測する。
で、個人的に濃密に話がしたい・・程度でも、心に占めるだれかと会っている時に煩くされても、ということが起こってはまずい。心に占めるということはそこに自ずから優先順めいたのが生じている。
それでも、どうそ、なに?とかで受け入れることは可能で、工夫しだい。しかもことばも工夫しないといけない。どうぞ、なに?では(心で)叱られる。
つまり、心に占めるだれかという相手の状況をお互いが尊重し合える関係とか将来関係とかを承知し合えることばのやり取りは、若年の頃から要るな、という辺り。
田舎者にとっては普通に発想できることだろうけれど、今時、田舎者はごく少数だから、どうなっていることやら。


森博達氏が分類した日本書紀ということを参照資料に、疑問を持てる。
(万葉集表記の独自性から)問題の多い中大兄、天智を指摘できるとして、その巻や九州王朝否定派諸氏において歓迎できると勘違いさせかねない、雄略の巻を中国で伝わりやすい漢文の書き手に編集させていることに、どういう思惑が働いていたのか。
天武の2巻はむしろ国内向けに近い。
持統の巻は混合。
蘇我氏との揉め事や白村江事件を挟んでの頃のことも漢文の書き手に任せている。
聖徳太子の頃のことは、国内向け。
ただし、α群の後者、第24巻から第27巻までの25、26、27(、29)巻は「云云」省略が多用されて杜撰と指摘されている。
α群の前者、第14巻から第21巻までを、誤解少なく伝えたかった、ということなのか?
九州王朝説を否定する諸氏においては、九州王朝系の人物はなかったことにされがち。
九州王朝を認める諸氏は、資料の中の混ざり合いに注意深い。
注意深いけれど資料が少ない中で、特定の困難の最中が継続中ということもありうる。
素人が追いかけて追いつくことは無謀過ぎるので、することはないけれど、整理の巧みを早く読みたいというのはある。
文献系な諸氏も、考古系な諸氏も相当活発なようで、期待が持てる。

連載は続く~ SF 掌編『今年は風の強い日が多いので桜も・・』編


放送大学の特別枠の講義にて、昔の(有力者でもある)知識層は、流罪とかで流された先の土地に、馴染みの土地の名を当てていたことを現地取材の映像とともに紹介してくれていた。(薩摩硫黄島)

史実を扱う専門分野の人がたまたま個人的にそう指摘したとは思えないというのが素人の推測。
ここらは九州王朝説諸氏の様々へ、うれしい知らせともなりうるし、固執のあり方次第では、援護のはずが、どうも具合の悪そうなことにもさせかねない。

既に、と素人は受け止めているのだけど、九州王朝のことは時間の問題と思える。どう落ち着くかは不明。
奈良について、特に地名の関連付けについて細かく指摘されているのが故米田氏系の発信と至当とは受け止めていて、ここらへは、現メインストリームの歴史学も実のところ無視はしていなかった、と推理した。
更に、移築の件でも、考古学の方で、地道に裏づけというかメインストリームな教科書にとっての裏づけということにはなりにくそうだから、発見に近い、発見地図を描きながらの作業になっていると思えるけれど、奈良の斜めの線と東西南北が明確な線とのの違和感への答えがもう直ぐ出てくるかもしれないような進捗の辺りも別の発想からの発信で紹介されている今日この頃。


1990年を前にしていた頃、US のナーシングホームでのひどい状態を、そこへ行くことを回避する人々ということで形容されていた。
そして数年前くらいまでの時点でも、どうやら、施設によってはかなり改善されてきたように受け取れる紹介も含まれつつ、未だ、しょうもない状態を引きずっているようだ。
だからハッキリ、列島介護事情で試行錯誤できている諸氏とUSでの介護について試行錯誤している諸氏(介護担当者は言うまでも無く、ご家族や、入所かもで悩むご本人諸氏、そして問題群への関心を持つ諸氏)においては、お互いに課題に挑める同じ立場を共有できそうだと指摘してみたい。
US の巷では物騒なこともニュースになりやすいけれど、多分、それどころじゃない。そんなパワーがあるなら、US の老後もそれなりにヤバイと知っておいたほうが良い。
列島も、個別対応ということでは、まったく知識層においても圧とはなっていない。つい集団対応で良しとながされかねない。経営層は意識としては近代発想を受け入れるようになっている。でも現場の雇用確保利害からいつでも心は不安定なことを想起できる。
そこらの人脈問題(もぐりこみ捜査っぽいことでもしないとついながされがちにしてしまう”深度”を指摘できる)
大局をいじくれる部門がある程度方向付けする必要を指摘できる。
でもそうやっても現場人脈の"深度"に作用点を持ち込めなければ、うやむや圧がどうしたって勝ってしまう。現場は大変だ、で流れがちにする。そこらは現場の意欲系においても、仕方ないかもになるくらい、必要な業務・仕事が見えれば見えるほど、現場の忙しさで手一杯という現状を指摘しておける。
ご家族、ご本人がとりあえずかなりの費用負担を、月々とか日々とか出してなんらかサービスを消費してくれるような経営手法と需要との上手い具合のそろいかたがなんらか生じていれば、それなりの資金循環も生まれそうだけど、介護を負担、それもかなり重い負担だけど、そこで使う分を他でも使いたいと強く思ってしまう度合いに応じて、介護現場の問題群の放置に繋がりやすくする。
先日、重度認知症の方に登場していただいたけれど、アルツハイマー型の認知症でよく言われる古い記憶の問題と新規に取り込める記憶の間に差が生じてしまう病状とも受け取られたかもしれないし、そうでもかまわないけれど、できれば、そうではない現状を打開できればの辺りにも関心を誘えれば、なんらかヒントともできると素人なりに考えている。
また、介護を担う場合、人付き合い同様なことになるわけで、信頼関係の介護版のようなのでそこをどの程度しっかり押さえる事ができるかなど、大前提となる辺りを改めて指摘しておける。それこそ人間関係作りと同様、万全とはいきっこない。そこは年寄りなので承知できている。でも、若者諸氏であっても、信用を得られない対人の仕事はマニュアルをどう工夫しようが、直ぐに見抜かれの現象と対することになり、決して、気持ちよく仕事をこなせるようにはしない。
だから教える側もそれなりの熟練諸氏が当たる必要を指摘できる、当方、年とってはじめた介護仕事なので、やっと10年程度のキャリアで、えらそうなことは言えない。それくらい経験と学び取る濃さが必須の仕事だ。たとえると、引き出しの数とその検索能力が現場では物を言う。手足が活発に動くことも必要条件に違いない。自身が手足のどれかが思うように動かない、とかは気にすることは無い。持てる力で工夫次第。その先のことだ。
頭がちょっとぉ・・なんて、冗談のようなことを言っている暇は無い。とりあえず必要に向けて動ければ、相手も理解してくれて、それが持続的なことが通じる度合いでも、信用に繋がると期待くらいはできる。
相性のことは以前ふれた。どうしたって、最初の印象を引きずるタイプとかいろいろ相互性では生じやすい。そこらをベテラン諸氏はしっかり承知してくれているので、担当の配置の工夫とかそこらはその職場の熟練度で答えてくれる。それができていないようなら、経営層に働きかけてベテラン(10数年から20数年以上タイプでできるだけ職住近接系)を呼ぶ工夫など即席技も使える。
US ナーシングホーム事情を踏まえれば、列島在住(UK発音とは違う)US 英語な諸氏が介護のより多くを獲得した諸氏とみなすわけいにはいきそうにないことにも想定しておいたほうがいい現状を指摘できる(US在住な諸氏も列島在住な諸氏もいっしょに課題に取り組める辺り)。ここらは、ナーシングホーム知見を改めて調べてみた現段階で気づけた。遅かった。

 

連載は続く~ SF 掌編『コロナ騒動とか US 1950年代SF映画とか』編


コロナ騒動では面従腹背という大人の態度を落ち着いて表現されている諸氏においても、遊ばれてるかも・・くらいのちょっとした勘くらいは働かせているのでは、と察する。
先日少々引用させてもらった喜田氏などはかなりの対インフルエンザ準備を自ら担い、多方面に働きかけられている。
だから今回、コロナウイルス系ではなくてインフルエンザウイルスの騒動ならば、列島に限っては相当な対処か、インチキっぽいかどうかの判別まで可能だったと言えそうだ。
既知から外れたとして、どういう外れ方かのサイエンス知見・作業は並ではない。
だからインチキするほうもばれないための準備費用が合う合わないの天秤にかけざるをえなくする。
そういう意味でも準備は予防効果を発揮する。
たまたま、コロナウイルスだったので、そういうことが適わなかった。
だから遊ばれているのかも、という疑念も、少しくらいなら示しておけそうだ。
だってインフルエンザウイルスがいたずらしたとして、その細部をかなりのところまで短期に探られてしまって、きっとたどり着いてしまう。
だから万が一いたずらが混じっていたなら、コロナウイルスしかなかった、という仮説も成り立つ。
ただそうやって故意の方の話で盛り上がっていてもしょうがないわけだ。
列島はすばらしいことに喜田氏がデータ整理ほかの準備知見を列島のメジャーな部門に啓蒙できて、準備もしている。他諸国からすれば、それは脅される意味じゃないけれど”脅威”だ。侮れない意味合いで。
ということは、恐らくコロナ騒動をきっと使っている。なんらか対処の為の準備に予算を得やすくして、それをこなしている。今度コロナ騒動が出たら、なんだかわかんないけど慌てろ!めいた発信ではなくて、わが国ではもう準備万端!のような発信が予算豊富な諸国から発信される。他が困った状態で、取引を持ち込まれやすいかも。
当てにしすぎては駄目なワクチン作戦は補助手段として研究は続く。
当面の治療薬開拓は、対症療法では、の欧米発想医学・医療部門として避けるわけいにはいかないだろうから、きっと機能、機序面から使えそうなのを探して、更に新薬とかへと貪欲じゃかなろうか。
既存の薬品の中に副作用とかの心配のない混ぜ物・合成物の少ない薬品も見つかっているらしいので、そこらも列島を初め、かなり試されていく。
そうやって喜田氏の言う、病状としては重くさせがちな季節性となって繰り返しやってくるコロナかぜやインフルエンザの症状でダウンしないで済むよう現代医療は取り組む。代替系もそこに、確実な臨床を明解に整理して提示できるようになれば、より安価で、副作用に悩まされない風邪の治し方として定着させていける。

今になって、騒ぎなれした解説者諸氏は、ことばの選び方も慣れて、慣用句盛りだくさんで、素人視聴者からすれば、大丈夫?!状態だけれども、そこはマスメディア業界ゆえの性(さが)だろうから、他の番組でも見て口直しするか、見ないかとかとにかく滅入らない工夫は必要のようだ。

同じ時間帯の番組を選択できるように沢山作れる条件を用意してしまうと、番組毎に趣味に応じた住み分けが生じてしまうらしい。感覚的になんとなくわかりやすい。
それもまたちょっと問題だろぉ・・・との多くの声が聞こえてきそうだ。
幸いか、列島ではそう極端に同時間帯に選択できる局が膨大というわけではないか?よくは知らないけれど、どうなんだろう。
宣伝広告番組か有料放送かくらいの印象は濃く持てている。だから見るテレビ番組を選ぶというたまたまの時間帯に実際に選択肢に上るのは、かつての関東圏だった数局とかだったのと、ほとんど変わらない。
これはこれで、なんとなくただ見てしまうようなことに誘われかねないので(誤解のないように指摘するなら、当方にとっては、ということで、番組の作りがおざなりとかなんとか批評するつもりはありません、ここでは)いつでも力の入ったスペシャル番組ばかりというわけにはいかないもんな、など知ったかする素人が突如登場していたりする。
集合現象まで想像できて、選択肢の多さで弁解できるかどうか、となると、結構民主主義の実際的(!)達成とか試行錯誤というのはそれなりに難しそうだ。
列島では、週刊誌とかワイドショーとかそれなりににぎわすから、怪しい脈に支えられて結構な立場の選挙に有力候補として出るところまではできても、それなりの裏情報が盛んに世間をにぎわせる仕組みくらいはできている。そうでない土地柄だとどうしたって、情報通の公式筋が公式になんらか対処せざるをえなくするから、本当に、歴史的な民主主義ね向けた試行錯誤というのは難しいと素人考えを持つ。
それと、同時期論は以前、ちょっとふれた。この時期をごいっしょできる諸氏がこの時期を演出できる。構成してくれる。そういう時代相をいっしょに体験していく。
テレビとかつい見てしまう年寄りなので、ニュース報道の表舞台でストレス一杯かもしれない役をこなされている諸氏は意外に身近に同時代をごいっしょ系かもしれない。映画なんかで僕は知ってるよ、そりゃそうだろう、自分はテレビに出てるからね、とかの会話と瓜二つの現象。そういう不思議なことが起こっているのもマスメディアが発達した諸国ではごく普通のことで、わずかの諸氏への圧が相当、という事態だ。(業界の内輪事として)ケアとかきっと大変なのではないか。
ドラマもそうだ。ただBSでは再放送が多いので、一方的に役者諸氏を同時期の御一緒系に見なしてしまっている。ここらは年寄りのことだから、多くが許してくれそうだ。
この時期ということを考えされられたのが、先日BS103で放送されていた『禁断の惑星』('56)。
多少怪しいタイトルだけど、実際に意味深い。理想をめぐる思考のある方向を突き詰めて、その試行錯誤の場となった星を先に訪れていた人物と後から探しに来た人物たちとの遭遇の話。
そこで語られる言葉は、それなりに実際的に響く類だ。参考になるものだ。
そういう作り方が1950年代前後から60年代にかかったあたりまで可能だったUS映画業界を想起してもらいたい。最近のBS放送映画を参考にして・・
1944年若草の頃
1947年殺人狂時代
1948年イースターパレード
1948年赤い河
1955年足長おじさん
1956年禁断の惑星
そして1950年台になると先のようなSFが沢山登場して列島の映画館でも公開になっている。
本日見た『地球の静止する日』(The Day the Earth Stood Still '51)も、実際的な考え方に近いほうで物事を判断させるようにして理想を論じている。セリフことばで論じている。
実は、『禁断の惑星』(Forbidden Planet '56)からの刺激で当時のSFの中から難点か選んで安価だったものでまとめて何本か購入して見ているところです。
そういうことを経ているから、たとえばデンゼルワシントン氏演じる主役に向かって(公務員の諜報や特殊任務に就いて)自分たちにとってやっていることが正しいことなのかなんなのかわからなくなる、と言ってのけて居直り犯罪者として振る舞う人物を対置してのある語りも可能になるのかな、など思い浮かべた次第。
(国際的な関係性の中で警察役をこなすとか)大国って大変な立場だ。
コロナ騒動はマクロな大局の出来事に目を向かわせがちにするかもしれないけれど、いつも瑣末だけどじんわりねっちり関わってくる改良できればそうしたいな、の辺りの難所がどこかへ吹き飛んでしまったわけではないし、ついでの難事も副産物として残していきそうだ。