連載は続く~ SF掌編『環境に応じた形化を成せばなすほどの辺りとハプニング』編


 とりあえず物価高のことをインフレと呼んでおこう、らしさを感じる素人老人的受け止めから、とりわけ欧米諸国でのインフレ趨勢をぼんやりイメージするに、上がった物価が下がりにくくなっている辺りについては、人のすることだからの観点から充分に、当面の趨勢を考察可能と見るし、一方に原材料ほか諸経費が物の生産、流通に付加的に作用しての物価高という辺りも今時、ニュースでお馴染みになっていて、基礎的条件が違ってしまっている支払い手段である貨幣の出回り易さをいじってどうこうする局面というよりは戦争がまずは問題だろうくらいのことはニュース報道が盛んな(地表面規模である程度にぎやかになっている)おかげでだれもが程度に知れ渡っていたりもする。

 シンの方もそうだったように今時のゴジラは絶滅しないというよりむしろ地球と共にくらいの寿命を保持しているかのごとく描かれている。
 またもやそう思えたアカデミー賞受賞にニュースに踊らされた素人老人は早速ごく近くの映画館を訪れて、そんな印象を改めて感じていた。
 とにかく音が凄い音量でもって出ていて、それに心が知らず知らず揺さぶられていた。
 肝心のVFX体験としては、とにかく水CG表現は、特許物を各作品が使いまわすようになっているのかどうなのか、水っぽいので、すんなり見入っていた。テレビ画面サイズ感ではなく、映画の大画面の水がいかにも水っぽいのだから、すんなりが正直なところ。
 ただし、ここらはより水っぽい描写を可能にしてのようなことも避けられないから、追々、かつての水はちっとも水っぽくなかったね、のような昔語りも登場しやすい表現の時代性の辺りには注意が要る。

 とはいえ、ヒトっぽいだれかたちがきっと宇宙のどこかに・・・を期待しての本格的研究調査やそこらを踏まえたマスメディア作品など賑やかそうな一方で、ヒト自体がたったの氷河期系の集団性生き物に近い辺りに気づけてもいるのだから、その取り上げ方自体が誇大と受け止めて時に冷静さを気取るくらいは必要かも、など老人くせがつい出てしまう。
 地球史において相当な年月(数千万年間)続いた恐竜たちはなんとあっけなく失せたことか。というよりも、膨大に試行錯誤させる種誕生物語の中で、べらぼうな数の種が滅んで、それでも未だ膨大量が試行錯誤しつついる感じだ。
 そして太陽系の寿命とともにか、それ以前のなんらかでどうしたって地球上生命の現象は途絶えることになる。
 素粒子の運動性なりエネルギー状態のなんらかと生命現象とを結び付けられるなら、とにかく生々流転で条件に応じて形とも成しては消えてまた・・・と繰り返し続けることになっていそうだ。
 ヒトとか地表面生物系のイメージでの生き物を想像して、宇宙のどこかに?と期待する向きには、ハビタブルな地表面でさえ種は雑多を試行錯誤させつつ年限がくれば滅びるようなことを展開し続けているのと似て、宇宙でも同様と見なせれば、同じっぽいのを見つけること事態が奇跡近そうだくらいの推理もしたくさせる。軌跡を見つけられるかもしれないから、多少は追跡調査も無駄にならないかもしれないけれど、つぎ込みすぎもそれなりに危なっかしそうだ。

 そうはいってもヒト自体にとっての数年間すらが実感たっぷりの事態なことはだれもが認めてくれそうだ。
 たった一日の出会いがとんでもな触発を誘うということだってヒトの場合に限らず、それっぽく動物達のいくつかでは起こってそうだけど、それでいてヒトは生まれる前年のことを遠い過去のような実感の無さをどうしても伴わせがちにする。
 そこらが世代論の背景をなしていそうだ。
 ただ、昨夜、ネットにてそのハイライトを見ただけなのだが、2022年U-20女子サッカーのパス連携技に感動した目を疑うようなAFC2024年U-20の前半から後半途中までのハイライトシーンを見ることになる。
 動きつつゴール前への攻めのモードで長短の素早いパス回しで相手の追従を困惑させてシュート機会を伺いつつのプレイタイプは、日テレベレーザチームのFW土方選手が得点したシーン辺りからそのハイライトの中でも得点とからむ形で選手の配置、動きから観察できた気がしている。大雑把には全体の経過時間として80分前後からその先でやっとゴール前での、2022年U-20タイプのパス連携モードが旧タイプ(とも指摘できる、当てずっぽうでの蹴り込みにゴール前の各選手がとにかく混戦しつつ応じて得点を狙うプレイタイプを披露していた。(この準決勝の試合以前のハイライトもこちらのプレイタイプに近い印象を持つ))のノリから変化して位置取り他も機動して、ボールが選手間で動きやすくできる感を観客に示せていたように受け取れた。
 選手間の位置の取り方パスを巡って動いてもらいに行ける動作をこなせるか否かなど、ちょっとした身のこなしを面倒くさがらずに出来る面子(めんつ)ということが関わっているのか、ただ、スタッフの仕掛け方指示がそうさせているのか、そこらは端からはまったく想像できないくらい素人老人なのだけど、パス回ししてゴールに何度もFWが上手なら何点とったか知れないくらいの配球をこなすパスプレーをやってのけたチームを育ててしまった実績を持つJFAのスタッフのはずだから、今回のAFCでの試合展開の対照的な有様についてはできれば以後に生かしてもらえると、見る方の都合としては相当にありがたい。
 2022年以降の世代ならば・・・とついこの間まで括ってしまっていた素人老人としては、動いてパスをもらいに行ける総合的技量を随所に求めるサッカープレイを期待し続けているということで、Jリーグやその司会進行役所氏の宣伝文句に誘われすぎないくらいの視聴を試みてもらって、やる方も見る側も面白いサッカーへ誘ったもらえるとありがたい。


 燕国から楽浪文化、帯方郡加耶諸国の経験と特定の地域的広がりを背景に持つ列島の雑多性についての具体性の辺りは、少しだけ押さえたくする素人老人だ。
 古墳時代を出現させた可能性大の加耶諸国の趨勢と列島での出来事の辺りについては、ひょっとしてということで、松本建速著『つくられたエミシ』からまたもや引用。
 p85あたりを参照願いたい。
 2世紀から5世紀前半:東北北部ではほとんど集落跡が見つからない(p87)
 その期に見つかっている遺跡は八戸市田向冷水遺跡(5世紀後葉から6世紀初頭)だけ(p87)。
 その後6世紀終わりまで集落遺跡どころか土器片すらない(p87)。
 田向冷水遺跡は土器も住居もすべて古墳文化社会のものだ(p87)。
 弥生時代中期以前と後期以降の間に、たとえば竪穴住居跡が見つからなくなるなどの変化が生じる(p87-88)。
 6世紀後葉:現八戸市域に住居跡出現(p88)
 7世紀:東北北部東側広域に集落形成(立地特性として台地上)(p88)
 8世紀後半:東北北部西側に集落形成はじまる(p88)
 9世紀:東北北部西側に(東部と比較して)大規模な集落形成(立地特性として台地縁辺)(p89)
 7世紀以降の人々は農耕や馬を飼い、カマド付き竪穴住居に住み、鉄器を持ち、幾種類もの土師器を使っていた。(5世紀前半までの東北北部住民の続縄文文化と石器使用の生活(弥生中期以前と違って竪穴住居跡を残さない居住形態)と比較できる(p89))

 広域を統制する法治なりが機能しての指揮命令系由来からする集団移住の類ではなさそうな辺り。
 古墳期での集住と移動のリアル感が漂っていないか。
 考古資料の年代特定術をより細やかに出来た時、ぐっと歴史を描き易くしそうだ。

 

 

   川柳もどき


    フクジュソウ

    クロッカス

    沈丁花

    香り漂うのはどれ?

    春先、色に感じて

 

連載は続く~ SF掌編『BSの報道番組を見過ぎ状態の素人老人』編


 素人でありかなりの年寄り、ということで先走って指摘してみたい。
 伊都国に住した漢文を優れてこなし、時々の中国の政権と(の関係性次第で)つないでしまう力量も示す人脈諸氏とは・・・に、燕国由来の、ということで周とも浅からぬ縁を持つ人脈を想定できる場合、途中端折って、唐の時代の高宗氏とともにの武則天氏(唐の流れの途中で周を起こした)にまつわる業績の数々から、690年から705年という時期的偶然を並行性ということでは偶然としないで済む考察も可能になるのでは・・の辺りをまず指摘してできそうだ。
 この漢文に通じる人脈諸氏は遡(さかのぼ)ること数百年間、中国では前漢以前からの脈々とも見なせる。そして半島の政治にも、列島の政治にもその範囲を限定できるならばそこでかなり濃く関わりうる。とりわけ秦以後の時期を想定するなら、法治のための官僚制以後として、それなりの組織論を身につけ続けてきた人々ともとれそうだ。
 武則天氏と『周礼』との結びつきは歴史知見だ。その『周礼』と藤原京設計図とを並べて想像できる。
 その少しだけ南は蘇我氏で有名だ。奥まったところに談山神社。濃厚に三者(蘇我、中大兄、鎌足)の名が結びつく。
 しかも、『周礼』のデザインは短時間のうちに修正を求められてしまう。
 それが710年に実際の事態となる。
 プランが秘めた国分寺案はその後も実施への道を歩み続ける。
 数百年来の付き合いを持つ権威筋を官僚頭脳、発想の漢文を優れて操る人脈諸氏が多分、ぞんざいに扱うはずがない。
 一方で恐らく情勢にもアンテナを張って詳しい状態であり続けたその人脈にとっては、半島情勢での鉄と関わる人脈については、それなりの密度を保ち続けた可能性を空想くらいはしたい。
 すると、扶余系、加耶系の権威状態を官僚系発想から認知しつつ、列島の権威筋との整合もなんらか工夫してのけ、ただし、政治家・武闘系ではないから、加耶諸国的実際にとまどいつつの、時代の趨勢との整合を試行していたことも可能性として考えておきたい。
 だから中国発の情勢・情報を踏まえた660年契機も十分に受容可能であり、国つくり指令っぽく受け止めて、列島各地に住み分けていた加耶系に半島情勢ゆえの移住組、百済系、新羅系をも無理なく各地に住み分けられるようにしつつも、国としてのまとまりへと試行を始める。
 で、時点、として、記紀が成る時期を想起して、その編集手法からその時点での人脈構成とか主力なりをあぶりだせそうにも思える。
 こう素人の老人が指摘できるということは、ここまで整理してくれた古代史専門家、事情通諸氏においては、学説として出す以前の作業を地道のこなしている最中と考えられるから、素人が先走ったところで、もうじき実際に、この時期に至る多くを語り始めてくれそうに思える。


 ところで、農業の営みと関わる話題をあいかわらずBSのテレビ報道番組から頂戴し続けている。
 地元の消防団要員に先細り傾向がうかがわれるようになっているらしい。
 外側からのしかも素人老人の観察だからあてにはならないけれど、会社勤めとか勤め人タイプの諸氏にとっては、時間使いは実に融通を利かせにくい、と(素人老人は)想像する。
 生活を時間のやりくりとして見たときの自律性が弱い。
 専業で農家をしている諸氏ならば、その生業(なりわい)と関わる限りでの縛りは強烈と察するが、その関係性への配慮を欠かない限りで、時間の使い方に自律性を持ち込みやすい。植物相手だからそうは言ってられないはずだ、という一面を踏まえて、消防団の不規則な時間使いについては、勤め人とは全く異なる融通を使いこなせそうに思える。とりあえ
 その自律性こそが、子だくさんをも可能にしてきたのであって、生産性を向上させて儲かる農業にしなければ農業は続けられないという発想に凝り固まってしまうのとは少し違う発想が要ると推測する。
 当然、支払い手段の多い少ないで農業を営む営み方が大きく揺すぶられる時代の趨勢だから、そこは稼ぎも無視できない要素、ということで、そこをフォローし合えることは必要だけど、時間割作業として濃密に作業を設計してしまうなら、時間使いに関しての自律性を手放す格好になってしまうと、心配を持ち出せる。
 ただ、産業誘致話題でも指摘されていたのと似て、動態としての影響関係を知りうる要素間での整合など指標にして事前に問題群の捌き方を準備しておくことは重要だ。
 余剰ということで農を離れて職を探しに出ないといけなくなる家族のだれかたちが結局膨大にふくらんでいく。


 産業誘致のことでは、USなど飲むのにも精密な作業に要するとかにも欠かせない水は多分、日用との間で取り合いになってしまいそうだ。その点、列島ではある程度までなら、分かち合えそうだ。ただし、べらぼうに使うなんらかを誘致してしまうと多分大変なことを招きかねない。
 そこらを現代の半導体産業誘致の現場では話題にしているようだ。
 農業を犠牲にしてまで産業を誘致することになるのか、水の長期間での使い分けは可能なのか。
 当面の課題として、人手を取り合う場面も想定されているらしい。
 ニセコなどでは介護人材が集まらなくなっている。
 そこには問題がもうひとからみしている。
 実は欧米は実際に過度な趨勢としてのインフレの中にある。
 ファストフードのハンバーガーが千円単位で当たり前になっている。その分、支払う方もそれなりの額の収入を得ているから、まさにコストがお互いを持ち上げ合って、それが継続中のようだ。
 その点、賢いと素人老人は言ってしまうが、物価安定策を堅持してきた列島の民間・政府系諸氏の発想と実践において、給料も安いけれど、物価もそれなりに安定させてきていたし、100円ショップのように廉価商品を工夫する発想での補(おぎな)いもありえた。 けれども、木田氏が言うには根雪作戦とのことで、その含みをどう解釈するかで相当の隔たりをその先で生みそうなのだが、素人老人の推理の方に寄せてみる場合、とりあえず一度中小大全般に上げ底作戦に誘い、その後は無理してまでそういうことはしない。そうであれば、これまでよりは少し給料をもらえるようになるし、既存の高物価に、それがそれ以上上がり続けることを上手にバランスさせるようにしておければ、生活苦の状態は少しだけ改善させられうる。生々しい情勢変化に不利な状況を囲った諸氏へのフォローは欠かせないから、腕白発信(強いところを見せようとしてつい相手を攻める言論パフォーマンスに走ってしまう軽はずみで、結局聞き入れてもらえる度合いを減じてしまう)風を装うことなく、取材力ゆえの貴重な現場の声を、事態を、国会の議論の場なりに、持ち出して、こういう現実を見てみない振りしないで、しっかり政府としても対応してね、で、積極的な意思表示を得られれば、それは後には引けない首脳の立場の発言としてとことん思い発言だから、それを一応信じて、事態のこれからの推移を期待して研究者並の観察眼を用いて追い続ける。手を抜いたことがわかれば修正の機会くらいは提供して、それでも怠けくせが判明したならば、選挙の際、そこを全面的に公開して、自分たちなら同じ条件でもやってのけらると、とりあえず、相手がどう制約をかこっていたかのところはわからなくても約束くらいはできるから、それもまた他のだれかから観察されて判定されることになる。
 電力食いでもあるようだ。
 配電の都合上、時々、停電もするようになって・・ということはないだろうけれど、それなりの膨大な準備は要る。
 だから呼ぶ方の利害の一方で、他所(よそ)では条件によってはやっかいものという性格も有(ゆう)してそうだ。
 空飛ぶドローンタイプの自動車構想は、当面、実用に向きそうにないということで、気前よく数千万円規模の投資をした各組織にとっては相当な痛手となっているらしい。
 だいたい、かつてsublogic社が出していた飛行輸送シミュレーションとか今ならPSバージョン10辺りかもしれないが、横間隔、上下間隔、前後間隔とか定期便でさえ相当な工夫を盛り込むのがシステムとしての空輸なことがわかりやすい。
 それを踏まえられるなら、身軽に動けるドローンの類が、好き勝手できないシステムにどうやってはめ込まれるのか、実際に相当な工夫を要しそうなことは素人老人ですら、ちょっと想像してしまう。
 集団的曲芸までこなして、光のショーでも大いに稼げているプログラム仕込みのドローンなのだが、ヒトを乗せて充分に安全に安定的に運航させるのには一工夫が要るということのようで、素人老人以上に先走りしてしまったようだ。
 誘致にしろ莫大な投資については、事前の緻密な‟勘定‟程度は必要らしい。
 根雪発想のもう一方はそれが積もりに積もって氷河期突入ということだから、そちらの発想ではないことは、明確と見た(一回だけ頑張ってみようの類)。
 内部留保が、コロナ騒動の混乱を潜り抜けさせた。
 過度なインフレ状態を通常にしてきた欧米経済の営み方は、だれに損な役を引き受けてもらうか戦々恐々としているかもの推測を持ち込んでしまうなら、同じ営み方という過ちをせずに変わり者で居ることも三方良しの感受性を失わない範囲で、容認される範囲内と素人老人は行き過ぎた、過度なインフレ運営をしている諸国の諸氏にとっては後悔先に立たずかもしれないが、居直ったりもしないタイプと見ておきたい気がする。

 

   川柳もどき

    歴史家諸氏は実に慎重だけど
     素人は実に軽く
      仮説にもならない筋書きを
       先走って持ち出して
      どうだい、これほど知ってる専門家はいやしないぜ
      とたかをくくっている
      はずは断じてない!!!
     なんとか専門書の数々によって
      この時点での解明を成してもらいたい
      と切なる希望がはちきれそう
       なのがもっぱら素人の老いぼれ

 

連載は続く~ SF掌編『たまに女子サッカーがテレビ中継される』編


 ヒトは毎日の更新を経(へ)続ける。(食うこと(空腹に耐えられるとしても)、水分を摂取すること(こちらはより切実に数日で致命傷へと誘う)、並行して排泄すること(こちらも排尿が短時間に生命維持と関わってしまう)、(たとえ短時間でも)熟睡できること(睡眠を管理して洗脳に使ったりできるくらいの要素))
 ということで、日々の繰り返しとして区切りにも使えるストレス解消の機会を持つことの大切な辺りにも気づかせる。
 介護職諸氏においては特質として生々しい現場感覚として引き受けざるを得ないタイプのストレスをそのまま引きずることなく日々、整理なり処理なりで区切りをつけていくことが欠かせなかったりする。生々しい現場での瞬時の判断に誤りを誘わないことと密接な辺り。
 市場にゆだねる品々の価格の変動ということでも、ヒト対象の場合、そうはいきそうにない、ということの切実さをこの程度の指摘でも気づける諸氏がより多ければ、そして権威筋に当然なくらい人数がいてくれることで世の中の営み方に大きく影響してくる。
 品々でも日用の品々については、変動幅が極端な場合、それはどういう原因かで、変動幅に規制をかけるかかけないかの判断に使えそうだ。
 作り過ぎて処理しきれず、安売りでもやむなし、という場合であっても、作り過ぎの主が市場を支配していて、その作り過ぎが失点であって、そこへその他の参加組が安売りしなくても、日頃の努力が実って挽回の機会にできるかもしれない、という場合もありうる。そこをべらぼうな安売り(原価を大きく下回るタイプ)で市場占有の状態を失わせないという策の行使であれば、行司役はそれなりの熟慮も必要だけど、かなりの判断力を求められるケースと、これでも未だ単調な説明にはなっているけれど、素人老人なりに指摘可能だ。
 受給調整に市場価格のメカニズムはそれなりに有効という経済の学からの指摘であっても、汎用としてなんでも、いつでも有効というわけにはいかない。


 さて昨夜は女子サッカーを落ちついてみることができた。
 若手世代女子サッカーに注目の素人老人にとっては、なでしこチームの対戦相手、北の朝鮮チームの若手世代構成にも注目することになる。
 AFCの去年の試合をご覧になった諸氏は大勢と察するが、なでしこチームの構成はまったく異なる年代構成だ(つまり動きの基本的構成も異なってしまう)。
 北の朝鮮チームの動きについては、若手ならではの要所はうかがえたけれど、1-2-3くらいのパスつなぎを各場面で使いこなすようなゲーム展開発想は未だ希薄なチームのように感じた。そういうタイプでワクワクのりを身につけてくると、見る方としてもより面白いゲーム展開を期待できそうだ。
 とりあえずなでしこチームのゲーム展開を追う視点でいくつか指摘してみたい。
 その前に、どの代表チームも、ということになるけれど、代表として選ばれて散々な観客とかマスメディアとかその他からの圧を被る立場になってしまうわけで、そこらを配慮できた場合、人選で選ばれたということから他にも選ばれていたかもしれない選手諸氏とか全体を見渡せるならば、代表であるという立場と他が選ばれて自らは選ばれないということを経た現事態であることへの確認ができることで、代替的観点からの言及も当然ありうるし、一方で、選ばれた代表ゆえに主役は自分しかいないという立場からの取り組み方へと誘う言及も並行して生まれてしまう辺りには、注意をうながせそうだ。
 選ばれた以上は各ご本人にとっては最善を尽くすしかない辺りへの細やかな配慮は欠かせない。
 ということは人選の主諸氏こそに責任論とあえて絞り出せば、そう指摘できそうだ。
 選んで、集まって、その構成でサッカーのチームを動かすほかないわけだ。
 そこらをとことん踏まえたうえで、素人老人サッカー談義の超小型版。
 【前半の(試合経過時刻・・以下同様)9分50秒頃】
 相手チームのインターセプトがあって返されたボールを更になでしこがインターセプト
  10→11→10→8→11

 の場面
 10の素直なトラップから11へパス。11も軽くワンタッチパス返しで10へ。
 10はそれを素早く8へパス。
 8も素早く11へ。
 11はゴール方向へ素早く動いて・・・この時には強引にシュートを狙ってキック。
 (素人感想)8が準備していたのを11が使う手も十分にあった。
 ここらはNHKアナ氏は上野選手のシュートの正確さと表現していたけれど、解説のお一人(もうお一人は矢野氏)岩渕氏はシュートが上手いというニュアンスで正確に表現なさっていた。
 AFCでの得点の仕方もそうだしWEリーグでのもそうだけど(大宮アルディージャとの試合)、ちょっと圧を受けにくい位置でのゴールの狙い方がシチュエーションとして巧みなタイプなわけだ。体の使い方、狙い方向選び、蹴るボール質などなど。
 そして指摘済だけど、圧がかかる状態では旧世代全般同様に、揺らぎを誘われやすい。
 この場面では、ごちゃとしていながらボールを出せば受けて抜け出してか一瞬決めのシュートが可能なシチュエーションだから8は11のパスを得られれば、傍目には軽々とシュートを決めていた可能性もありだ。
 余計なことを素人老人ということで許してもらって指摘してしまうが、(年齢差と言うことに限らない)先輩後輩タイプの発想が物をいう世代が未だ残っているチーム構成では、なかなかパス系の攻撃型魅せるサッカーはやりにくそうだ。

 後半
 【16分03秒】
 相手7のインターセプトを更に奪った15の場面
 15→8
 2018年U-20、2022年U-20世代以降の選手諸氏は陣形としてもパスの緩急使い分けとしても常時その備えを発想に持っていると想定しやすいので、いつでもどこでもその種の連係プレーが可能になりやすい。
 8は旧世代だけど、シュート場面では任せられるタイプ。
 走りこむ8。パスを出す15.
 裏を・・が単調な強迫観念を生んでいるためか、相手を抜いて、その背後に入ったところでのパスつなぎイメージでしか動きを誘えていないなでしこ、WEリーグの試合、と素人老人は指摘する。
 この場面では、15は相手の壁手前で、また8もそれを先読みして、手前で早いパスボールを受けて、できれば即座のシュート。相手の動き次第ではちょっとフェイントを使ってか、頭越えのソフトタッチシュートでも良かった(奥の手(足)としてはヒールキックのワンタッチでの頭越えシュートだって可能)。つまり15,8両選手に裏をとれの形についてワンパタン発想を植え込んでしまっている発想の単調さを誘うスタッフ諸氏の問題を指摘できる(ヒトが裏を取るかわりにボールが裏をとる(それが転がってゴールイン)形だっていいわけなのに)。
 【15分36秒】
 1→15→11→15→17(↑ゴール前右2・11・13左)
 1の正確なパスを軽くストンとトラップした15が11へパス。
 11は即15へパスして前方へ。
 15は先の方に位置取りしていた17へパス。
 助走から一気にダッシュできた17は相手選手を追い抜く勢いからフェイントを使って相手選手をかわす。そしてこの場合、シュート。
 場面としてはゴール前に右から2,11,13が駆け込んでいる。13は特に早い段階でボールほこせ発信している。
 浦和レッズレディースの試合では中堅ベテラン世代から、自らシュート機会を逃すことなく、だけどチーム仲間を使う術も何度もこなせる清家選手が、同じくらいの世代が大勢のなでしこ現状においては、そういう黒子発想よりはの方が前面に出た格好だ。
 点を取れることと試合展開と両方が‟魅せる‟ことに影響するという観点からは、素人老人のゲーム展開に向けた欲の方も少しくらいは参考になるのでは。
 とにかく今回のチーム構成では、状況を読んだ選手たちがゴール前に遠慮なく押しかけるし、それが守備に不都合を生じさせていない辺りは、好条件と素人的には押さえたくした。
 【30分00秒】
 相手3のボールを15がインターセプトしての場面
 [3]→15→10→2→15(17)
 15からのパスを10は2へ正確なロング(ないしミドル)のパス。
 2はラインぎりぎりまで走りこんでゴール前へのボール流し込み式は取らず、相手選手をフェイントを使ってかわしてゴール前に見事な中空を舞うパス。
 キーパーは横の動きを匂わす17に視線を奪われた格好で右手側に微妙に体重移動
 そこをタテにゴールへ向かって15はヘディングでのシュート。
 キーバー視線からだと横動きがより注意を誘い、タテ方向にやや後ろに控えた15の動きを読み損ねた格好。
 17の位置取りとか動きとかが好作用している。
 【34分55秒】
 相手14のボールをインターセプトしたところからの場面
 この試合でも目立ったのが中盤の攻撃を仕組むパスを出す位置の選手が相手の圧への対応としてバックパスを多用してしまう場面。
 それがくせとなってしまうと、この場面のようなことも起こる。
 ちょっとだけキープしてか、周囲をいつも観察してパスの出し先を確かめられていればMFの位置だからこそできるパスの形がありうる(代表チームのヨーロッパタイプがいつも圧してくる場面に出くわしてキープとかボール扱いに自信をなくしつつあるのかもしれないが)。
 またDFポジションならば、出す相手かまわずにパスというか返しのボールを蹴れると錯覚しているとしたらそれも問題だ。そういう場面も多すぎる試合だった。蹴り損ねたりもしているし。(この日の試合に関してはDFはちょっとぉ・・・なのだ)
 DF→MF→インターセプトで・・・(ゴールに近いところでのボールの往来というアンラッキーさも一応指摘しておきたい)
 【49分20秒】
 DFヘディングによるクリアボールを相手3が拾い・・の場面
 そのボールを相手3が拾ったが15も追っている。
 なでしこDF全般に指摘できることだけどMF、FW陣並みに周囲をいつも見渡しているのかどうか。クリアするなら大きく蹴り出すとかがたいていの場合不可欠。
 そしてどの辺にかも、大きく関わる。
 この場面でも同じヘディングするならちょっとゴール寄りの角度でがほしいところ。
 とはいえ、この場面では難しかったともとれる。
 一方、相手3に対して15は習慣からか、距離を取って動きつつ身構えた。
 だから以前触れたように川添選手タイプにとっては隙だらけということで、ゴール前に際どくパスを蹴りこめている。
 ここらは以前の事例でも今回のでも若手選手の応じ方の問題。
 ということは、かなりの応用技が可能な技量を持っていても場面での発想次第が、不都合を生じさせる、ということと推測させる。
 パスを出させてはまずい場面。ならば、むしろ体を預ける方で邪魔するタイプの防御が要る。ないし、時間を稼がせないで、相手に急がせる、心理的に急がないとという圧を即座にかける守り方発想での動作が必須だった。
 そこらは発想の切り替えだけのことだからWEリーグにも即応用してもらえそうだ。
 2018年U-20世代の場合でも、ボールの落下地点に相手チームから一人、こちらからも一人が迫っていて、どちらがとるか微妙な位置関係の場合、怪我をお互いさけることは最重要なことだけど、上手な選手たちどうしのケースなら、至近距離でのかわし方、すり抜け方、ボールの動きの観察とその集中力をお互い様にしているなら、ほんの足先タッチでの可能性の直前までは接近し合える。お互いが走る状態での衝突なら直前で、ふれそうにない側が避けることも審判判断を含めて不可欠だ。
 相手がギリギリ間に合うかもでスライディングしてきたなら、むしろ(相手は体のどこかを使っての邪魔ができない単調な姿勢になっているから)ラッキーで、蹴られない工夫を瞬間技にしながら、足先とかを使ってボールをちゃっかりいただくくらいの芸当はこなせる。そこらの積極的瞬発力(怪我防御も含めて)を使いこなすことも、その次のシーンでの点を取られやすくするか、ボールを保持し続けられるかに関わって、ひいては魅せるゲーム展開と直結させてしまう。

 日テレベレーザチームのようなパス回しを常時使いこなすことはなかなかな2018年U-20世代であっても、2022年U-20世代とともに、しっかりしたトラップがすぐ次のプレーの多彩の源泉となってくれるし、それをこなして、ワンタッチ系のしかも正確なパス回しが可能になる視野の常置装備すらこなして、1→2→3(→・・)と3回も動きつつを連携できれば、今時の強豪チームだってそうは追従しきれなくなる。
 それがシュートをいつでも蹴れるとかの可能性をあらかじめ表現できている選手をまじえた中で演じられていれば、守りの陣形は、嫌でも壊れつつ動かされるような事に誘える。
 パス連携に関われる技量のFW。シュート技も相手チームからは警戒されるMF。そして手堅いけれど、キープ力もパスの精度もしっかりもののDF(突如の上がりでシュートの技術も)。もちろん、今回の試合での山下選手並にまったくあきらめてくれない守備を貫徹するタイプのキーバーが、早めに育ってくれると、なでしこの未来は、好試合続きとなりそうだ。(WEリーグ(育つ環境として)が重要そうだ。素人老人の我儘発言だけど海外サッカーチーム移籍組に頼り過ぎは禁物に近いと言ってしまいたい(上記のようにWEリーグに戻ってきて活躍してもらいたい選手諸氏は何人かいらっしゃる))

 余談
 ボールの落下地点を即座に感じ取れる勘を養うのには野球とかソフトボールとかでの打撃練習以外の練習の一部を応用できる。キャッチボールの遠投だっていい。
 怪我とか体の寄せとか、体技用に、合気道、柔道の一部の技に慣れる。
 たとえば、柔道なら寝技にもっていく素早い連続動作を習得してしまう。
 投げられた後の受け身の術に慣れておく。
 相手の力業に力でよりも相手の力を払う感じで応じられる合気道の流れに慣れる。
 重心を意識できることで可能になる力の伝え方の効率性の辺りへの気づきを一度意識的に体験しておけば、あとは体が勝手に動いてくれるようになるとか。野球ならホームランバッター、それから(ドリブルやパスの連動とかで)バスケやバレーボールの選手たちは、そこらの感覚を相当に養えている。(卓球の場合、中国チーム以外、結構そこらを意識できていない可能性大)
 NHKのカルチャー系を聞いている限りで筋肉知見もそれなりに具体的にわかってきたことがあるようだ。確かに若い時の一時期を好きなスポーツで人生を‟燃焼‟できるということで人生の一時を楽しめてそうだけど、ここらの知見を応用して、怪我に苦労しないで・・の可能性も探れそうだ。女筋肉、男筋肉も典型との距離ということはあるにしろ、違いは違いとしてその可能性の探求にも応用できそうだ。
 そこで(ダッシュと持久力と)走力をもうちょっとだけ年齢に応じたやり方で伸ばせないか、といった辺りへのチャレンジを求めたい。

 

連載は続く~ SF掌編『弥生期の倭と燕国』編


 人口が特別激減しているわけではないのに、どういうわけか人手不足のニュースが舞いがちだ。
 1500円ほどの品物にとうとう1900円ほどの値札がつくようになった。
 1500円の品物が400円も値上がりしていた。消費税割合よりはぐっと高い率だ。
 これほどの値上げができるなら当然、この品物がいつもどうり売れているとして、その企業の従業員諸氏には値上げゆえの売り上げ増が見込めて、給料も当然、その分上がりそうに素人老人は見てしまうが、実際のところは不明。
 これほど激しい値上げに対して、同様の賃上げがありえたとして、その世の中はばかげていそうだ。と言ってしまうことを素人老人のことばゆえとして流していただきたい。
 人手不足についても、介護の世界では特定人脈が仲間をつどって集団でまとめてか、少しずつ集まって、職場の部分的構成要素となったりが起こりがちだ。
 熱心に介護に挑んでくれる集団構成ならば、歓迎だけど、追々、ちょっとぉ・・タイプだったりすると多数派かどうかはともかく、一定の複数性圧を行使できるし、人間関係に根づいた後ということでの対処という事態は、どうしても住居性を帯びる施設での介護の場合、騒動にするよりはそれぞれに理解してもらって良い方に向かわられるような思惑が先行するから、困った場合、解決は先延ばしにしがちにするし、施設内での問題性が顕著になれば、それを受けて、集団での離職というトンでもなことも起こってしまう。
 こういった実は集団的に動いている人々がこの列島にもそれなりに蔓延っている辺りを参考にできるならば、人手不足ということの起こり方の背景についても仮定を持ち込みやすくしそうだ。そこらは是非事情通諸氏が一歩余計に調べてくれてネットとか既存の媒体を応用していただきたい。
 素人老人はだから、コロナ騒動以前から趨勢としてあった物価上昇の最近の悪乗りの面についてもそれら集団性が発揮されてそうじゃないか、と投げかけてみたい。調べてもらえなければ、そのまま流れてしまう。
 素人老人的に何度か指摘している利益を上げよは単調に数字を追う方に人々を追い立ててしまう、という脈絡から、暗黙の期待としての物価上昇(それが生活に響くことまで考えないでついそう期待してしまう辺り)が減少させやすい、とまたも指摘してみたい。
 そこらの油断は、いつか来たそして何度も後悔しながら繰り返してきた、全体に目配りすることを億劫がった方での便法のようにも老人ゆえ思えたりする。

 さて本題。
 田中史生著『国際貿易の古代列島』('16 角川選書)に古代中国の燕が登場する。
 金属製品に特徴がある。
 半島・列島のからみで登場する扶余系の居住地のもう少し中国よりというか、現北京域にあった。
 前222年に滅ぶが、それまで、半島・倭国との関係を想起させる考古資料としての金属製品が顕著に出ている。
 加耶地域のこともふれられている。
 加耶系と金属は親和だ。
 で、MS社のCopilotに金属製品を介した燕(えん)と三国時代の半島と倭との関係を問うてみた。
 するとなんと現新潟の燕の金属製品のことまで指摘された。
 ここらは素人も同様に軽々しく類推していたので、Copilot ロボット思考もちゃっかり軽々しく類推してしまうらしい、ということで堅実な答えプラスアルファを得てしまった、ので、(このテーマに関しては)自分で(専門家の著作を読んだりで)調べるしかないか・・・と受け止めているところ。
 漢書に倭に関する記述のあることは義務教育や高校やで副読本なども含めておおくの諸氏が学んできたこと。ただ、漢書地理誌燕地条に記述されている、という指摘の仕方は素人にとっては参考になった。
 大抵は漢書地理誌ということで済まされてきた気がする。
 田中氏が燕国の特徴とともにそういう指摘の仕方をされてくれたので、より申氏仮説と合わせて、素人老人流の整理の延長に付加材料として押さえる時、連続的に受け止めやすくしてくれている。
 楽浪郡と半島~倭関係においての漢文使いこなし人脈との付き合いがどう育ちやすかったかの辺りも探れそうに思えた。
 往来が活発なことを想像しやすくしてくれそうな点も大事そうに思える。
 楽浪郡帯方郡人脈と半島(扶余系=伽耶系諸国)と倭は濃く往来していた。
 そこらを踏まえての古墳のことも解明が要るけれど、仏教絡みの経緯(いきさつ)がわかってくると、色々が鮮明になってくるのかも、などここらは素人老人、かなり安直な期待を膨らませてそうな感じだ。
 列島の経験を史実からごく大雑把に押さえるなら、継続性を持って、大混乱を招きながらもある種の自由度を確保し合いながら、よりそれを拡張することを志向もして、途中経過の現在を迎えている一面を古代史観察からは素人老人的に指摘してみたくさせる。
 未だに各地性をはぐくむ勢いは衰えていない。ただし過疎問題は、そこらに停滞的不可抗力性を関わらせてくるので、各地性の自律性とまとまり感での列島的試行錯誤に加担する向きにとっては注意事項と映る。
 列島中枢は外交上は、(お人好し系の)変わり者印象を提供することになるとしても、疑心暗鬼を生じさせるような発信を選ぶよりは、よりわかりやすい方で発信することを心がけてきたように見なしたい(特に弱者間での疑心暗鬼は弱体化悪循環に誘う)。
 サイエンスを純化発想で開拓してきた脈は(専門)分化へと急進化させて、全体としての質量においてもサイエンスとして専門家となるような思考そのものを不可能にさせかねない方向性に邁進(まいしん)中だ。
 漢方発想での事態把握を可能にする(たとえば腹診など)サイエンスバイアスの使いこなしだって多分、純化試行脈同様にサイエンスを育ててくれそうだ。
 どういうことかというと、余程の偶然が機能してくれない限り、いつかは同じことばで同じ事象について語り合えなくなってしまうヒト性をヒトゆえに切り離すことができそうにないから。
 実際的時間を区切って、成果を成果として応用できて、のところで耐えて、次の世代に渡していくことの繰り返しで、そこに実質的熟成のその先をあてにはできない辺りに、そろそろ気づいておいても損はなさそうだ。
 ことばを使わずに、熟練工の古代史以来を想像くらいはして、伝え合えたとしても、現存の諸々を前に、時間的にも、たった一つの精度に近づき得ない辺り。
 その時はこれぞ、とその確かなそっくりを真似てみせたつもりが、専門家水準で見逃していたことに後に熟練技術者・学者として気づけたりは、ありがち、と察する。
 だから分化の方向から寄せ集める試行もありだけど、全体把握の方から接近できることも同じようにありと察する。

 


   川柳もどき

    専門家諸氏はすでに燕にも気づいていたし
      加耶諸国の動態にも気づいていて
      燕絡みからは楽浪郡帯方郡・半島諸地域・倭
        を関係の中でとらえてもいる
    そして何年もたって今年はもう2024年(令和6年)
     素人の興味はどういう整理の成果を今年は読めるのかな
     だったり
    マスメディアはそこらを多分、拾ってはいても番組には
     してくれていない(多分)

 

 

連載は続く~ SF掌編『SFが羽(は)ばたく』編


 多弁で面白くて・・・だけど冷静に振り返ればだまされてたのかも・・・のような話が渦巻く政治の世界を相手のマスメディア担当諸氏においてはその手の話法に騙されてたまるか以上に同様に話を面白く関心を誘いながら、しかもそれらタヌキにだまされないどころか‟真実‟をことばにさせて出させるまでをこなす意欲まで内に育て、そしてタヌキ症候群に感染すらしてしまう、ということもありえそうだ。
 だから政治家相手に内情は、本当のところはどうなの?といった関心をめぐって偽装タヌキで攻める番組構成、という事態には視聴者諸氏は何度も遭遇されてそうだ。
 ところで、それが大地震をめぐる備えとも関わる話題に応用してしまうスタッフ諸氏が関与するような場合、どうなるのか、を素人老人的には見た気になっていた。
 1時間30分(宣伝時間込)の時事ネタ報道番組のBSTBS版を2月の16日の夜見聞させてもらった。
 そこでは低確率とされた土地での地震発生はなぜ?のような話題をめぐる番組とあらかじめ宣伝されている。
 一応1月1日の能登半島地震のニュースが未だに生々しい状態だから余計に素人老人は興味を持ってしまった。
 番組の進行としては南海トラフ地震の発生確率の数値の話題から入った感じだ。
 20%の予知情報も有力だったのに、60から70%になったのはなぜ的。
 視聴者向けには、どちらの確率を採用するのかに当たってサイエンスに相応しいのはどちら、というニュアンスを感じ取らせようとしている。
 進行の松原氏も、ゲストの元総務長官の片山氏、名大の鷺谷氏、東京新聞の小沢氏も、特にゲストの諸氏は地震予知がマスメディア系報道においてすら現状無理なこととされている辺りをしっかり踏まえているようで、番組が発する問いの内容に、千歩くらい譲って確率とかいつ起こりそうとかと関わる予知からみのことばを慎重に選びつつ付き合って答えてくれている。
 松原氏も当然、報道してきたいつかではその類の言葉を発してきているはずなので、恐らく、その時点でも地震予知は現状無理ということをご存じのはずが、そこらを棚上げして、回りくどく話題を一応ふくらませているつもりの問いかけの順を追っている。
 つまり素人老人でさえこの番組の進行の場合、10分間で済むものを1時間ちょっとくらい使ってたな、と思えたわけだ。
 やがて話題に変化が持ち込まれ、実は、危ない大地震に備えた巨額予算が組まれることが慣行化されていて、片山氏の知事経験からして、大地震対策とは相当離れてしまうような事項に使われたりがあると指摘されるくらい(理由付けがそうだとして国と自治体が2分して負担し合うから自治体はその事業を引き受けるとその半分分余計に費用負担が増えてしまう)、無駄な出費が込みになっている辺りを指摘・紹介している。多分、この番組ではここらを重心にしていたのでは、と思える。地震予知の無茶は10分間の濃縮解説で済む。確率表示の低い土地での地震頻発列島の実情をレポート込みで番組に取り入れて、能登半島の場合の復旧の大変さの要因など探って応用のアイデアへのヒント発信程度の番組にもできたろうに、という素人老人過ぎな感想もことばにしてみたい。
 一方で、同夜のBSフジ版では、税の組み立てと使い道について整合させて、世の中の営みとどう関わるかについて世間に説得する過程も込みで仕事することに慣れたかつては官庁勤めだった片山氏(自民党)、玉木氏(国民党)、経済評論の加谷氏がステルスタイプの税金についての問いに答えていたのだが、BSTBS版が紹介していたそれなりに巨額の大地震対策費用についても、能登半島地震での生々しい教訓をいかして今何に使ったらいいのかとか配分とかの実務経験系ならではの発想を開陳してもらえらた、余程ありがたかったが、番組局が違うし時間帯も別々ということこでそうはならなかった。
 地盤が脆いの能登半島のような土地柄は、第三紀層が表面を覆う関東平野各地でも無縁とはいえないから、いい教訓にできそうだ。
 どういう道路網として構築できるのか。
 上下水道の敷設にしても、どういう材料とか仕掛けとかたとえ壊れても復旧しやすさとかをあらかじめ組み込めた仕組みでの工事が必須のようだから、設計面での技術者諸氏も、敷設の技術者諸氏も合体してアイデアを詰めてもらえた方がより良いものにできそうに素人老人的には思えた。
 今やスマホは高齢者も使いこなす時代。だからその途絶は致命的な事態に近づかせやすい。そのためのアイデアも列島事情を想起できればいますぐにでもの類と察せられる。
 断たれた水源、排水網、だとしても、なんとか現状を維持できそうな代替手法をかなりの広域、人口の局地の各所において可能にし続けられる事前の準備ということも具体的に今用意できた方が相応しそうだ。
 災害時のインテリジェンスとかを強調されていた専門家の意欲を踏まえるなら、道路網寸断状態を前提に、緊急性、対応性の順など踏まえて、固すぎて融通の巧みが機能しなくなることも一人のアイデアが凄いとしても鳩首協議だってたまには発明発見をもたらすことを思えば、統制状態にしないけれど、最低限の通路を確保するアイデアの線は有効に使えそうだ。そしてどう何を送るべきか(必須の予定や希望)、そして送り込めるか(リアルな制約)の辺り。
 同乗する中に介護発想で鍛えた看護師部門が一人でも関われるとそれなりの対応の広がりを可能にする(現状許された医療行為と介護領域をテキパキ個々の事情に応じてこなしてくれる)。
 森林の維持管理の列島版はどうなっているか。
 過疎の各地で、避難はどうおこなえるのか。
 大地震時の火災は危険なことがわかりきっていることを踏まえて、消防のための諸アイデアとその先の実際対応策はどうなっているのか。
 建物はどのように堅牢に作ったところで地面が動く・変化してしまうことへの対応とはなりにくい辺りに気づいて、建築家の頭脳と閃きに期待してすべての建築について、斬新な設計、施工の具体はいつできあがるか。それに基づいて資金は動く。人生設計も変わる。
 大きく経済の営みの都合としての、稼ぎ手の問題を自動車とかIT関係とか(エネルギー源ということで)基礎部門の電力とか燃料とか素材とか巨額部門の設計次第のところに、どういう工夫を持ち込めれば自然災害耐性となるか。
 それでとりあえず巨額を回せて、その他の日常を支える変化に富んで融通も聞かせうる部門の各地がそれなりに資金繰りに苦労しないでなんとか営めていれば、地表面での様々な不可抗力の負荷をどうかわしつつの辺りへの関与の方で、巷との間にバッファ程度の干渉帯っぽいのを備えられる。
 素人的にはこんな程度の大雑把な使い道しか提示できないけれど、もう少し詰められる諸氏において、大地震対策巨額予算の使い道は無駄などしてられないぞ、となる案を導いてもらえそうだ。

 


   川柳もどき

    たまたま地震災害をテレビ画面に見ていて
     歴史を振り返れたつもりになれた時
      病的にならないような注意が要る
      とはいえ
       そこら色々を心配するその精度とか広がりとか深度とかのイメージ
        にゆだねて、暇なしで観念系を作動させている様は
      科学なりサイエンスなりが誕生しつつある様のようにも
      受け止めたくさせる
    安穏を否定するものではないのだけど・・・の辺り
    超密度でもって想像できること、すること
    が
     かけがえのないように映るなら

 

連載は続く~ SF掌編『一端、‟概念‟から離れてみる』編


 一応整合させて概念の類を使いこなす形から議論用のことばの羅列を演じのけるならば、それなりの姿として玄人筋、というよりは標準形を保つことに人生を賭す脈々が、お見事と認知の方で受け止めてくれそうだ。
 だから概念以前の状態として事象を改(あらた)めて整理する必要をだれかが感じた時、ちょっとした野心というか、多少は住み心地の良い住居も自らの資金によって建てたいし、そこでの家庭っぽい集団の営みにも人生を置きたいし、そのためには仕事場を確保しておきたいし、などなどが頭に浮かび出して、標準の問いへ標準の答え方、正解の類で応じることもイメージできるだれかたちにとっては、ちょっとよりはそれ越えの危ないかもの方で受け止めさせそうだ。
 現代での学問に成績優秀な諸氏においても、関心と感受の辺りの反(そ)りから、概念について未然の要素こみからの説明が要るな、と本人のためにもの方で受け止められる事態、事象と遭遇してしまった場合、そこでちょっと挑戦してしまうどなたか諸氏もそれなりに登場するのがヒトの観念系ならでは、と素人老人程度からも想像がつく。
 神とかのことばへと収れんさせていく中央集権化の時期の前後はいったいどうだったのか、記紀をより読み込めばそこらはは、記紀からも探れるのかもしれないが、中央集権化意欲がより勝(まさ)る発想をうず巻かせての事業と想像できるので、素人老人程度の基礎知識から探るのは無謀と予想でき、ならばと専門家、事情通諸氏の著作にそこらを探れるのはないかと一応頭の片隅において、他の色々な関心も含めたアンテナを張っていたところ、たまたま書物の巻末に載る出版目録一覧のようなに吉野裕子氏の著作を見出し、『日本古代呪術』が何度となく原作を元の新版が出ていることも知った次第。
 今は借りて読んでいるところだけど、ざっと、中央集権化以後の事態を素直に受け止めて、そこに伝承を読み取っての作業ととりあえず押さえてみた。
 つまり伝承と受け止めた時点で、既に中央集権化事業が結果する記述がもたらす成果を専門家、研究者が前提にしている辺りに気づかされる。
 もしも吉野氏が吉村編『前方後円墳』での申論文を読んでおられたら、各地性の気づきから、更に、発想を刺激されて、各地性からの各地性と共通性と、共有の偏りとか、散らかり方とかで分類出来て、列島の成り立ちの変遷の各筋の複数性なども見極めてくれていたかも、など、空想を膨らませてしまう。
 欧米が神ということばを使っているわけではないけれど、列島版の文字系は神で訳したことになっている。だからどちらかというと漢字の神を使うものの、概念的な作用としてはむしろパン何とかの脈絡としても、翻訳する元になっているソースの発想の方で列島での事象をつい解釈してしまう形に向かわせがちにする、と素人老人からは推測したくさせる。
 それほどに概念という置き方は工夫も重ねられ、同時期での共有を経ることで成り立つなんらかとしてかけがえのない働きを持ってそうだけど、一方で、その都合だからといって、知ることをめぐる作業に相当な迂回路を知らず知らず儲けがちにもしてしまうよな・・・とかぼそっと口ごもらせたりもする。極端にはインスタントに通用性を発揮する重要な道具立てを用意しつつも、あくまでもその暫定性に無自覚であるとその時期に禍根も残しがちにする、とか押さえて置けそうだ。試行錯誤の機会は逃さない方が無難だ。
 中央集権化を担う人々こそが、個々性にも気づけて、個々の自由を希求するためにもの中央集権化であったはずが、言うことを聞いてもらいたいから、言うことを聞けに状況次第では移ろいがちにさせて、本末転倒の事態を招くこともヒト観念系作動状態での実践の難しさ発揮ということで、今も昔も集団の営みをリードする層は特に、考えたり躊躇したりの時間不足からつい我儘寄りの方で動かざるを得ない巷の膨大な個々(中には信心ゆえの(ご本人にとっての馬力発揮の起点意識が明確かそうでないかはともかく、傍目からすれば)信心のせいにできたと思い込めて他人を害するタイプの挙(きょ)に出たり)とは違って、よう注意項目として意識し続けてもらいたい辺りだ。
 2月14日の夜の時事ネタ報道番組系(BS日テレ版、BSTBS版、BSフジ版)は、その前にBSにて地デジ番組を見ることが偶然にもできてる今日この頃ゆえ、田中角栄氏の人生とからめた政治劇の顛末について要約的に整理された辺りを相当に年取った時点の素人として受け止めさせてもらって、それを加味した感じで興味を持って見聞させてもらった。
 3局の番組については長くなってしまいそうなので後日となりそうだけど、角栄氏の番組のことは少しだけふれておきたい。
 マスメディアが動き、特捜が動き、安泰以上の立場を実感されていたかもしれない政治中枢に動揺が生じる。
 近過去のトランプ政権が、素人老人の想像を超えてマスメディアが問題視する発信を盛んにしていたくらい、パンアメリカーナをまとめあげる作用系・各人脈の活躍は堅固な方で準備してきたと逆に素人老人的には想像している。
 そこらから敷衍(ふえん)して、角栄氏の番組でも紹介されていた当時の中国中枢訪問という出来事がパンアメリカーナの都合をはみ出してそちらの都合からすれば踏むべき階段の順を無視して数段飛びくらいしてのけたような出来事にしてしまった辺りと素人的な想像を誘う。
 毛氏、周氏らはパンアメリカーナの具体的脈々であるよりはもう少し身近に感じる情勢を生きておられる。むしろ膨大なとりまきの脈々としてパンアメリカーナの機能とともにで動く人々がおられる。ここらは、地表面秩序を探る間柄を意識し合える脈々としての切実な辺りを百歩以上譲って押さえておくことも大事と察するけれど、対立軸として機能しうる要素の強力な端々の一部が突如、その典型の相手と固く握手してしまうのだし、テレビ中継できる時代でのショーにもなってしまって、パンアメリカーナ脈々としては驚天動地の出来事に近かったのかも、などいかにも素人で老人らしい受け止めをしたくさせるが、田中氏個人の一方からすれば暴挙の類だとしても、平和友好バイアスの方での接近なのだからその一人の行動力が、パンアメリカーナとはいえ対抗の相手とも友好関係を結ぶ必要ありの方へ即座に誘ってしまうようなバイアスをもたらしたことは年表を見るだけでも素人諸氏は知ることができるわけだ。
 散々弁証法役割分担の方で相手役に仕立ててしまってコカ・コーラペプシコーラかで区別するしかないようなことにしていた当時のソ連という相手も追々接近するしかないはずだという準備し過ぎた役割分担を編成変えするようなタイプの超超難問をはらませてしまう。
 左右中の役割分担作業によって極端にぶれやすいし政治的に有力にもなりうるだれかたちをあぶりだしやすい装置を捨ててまで友好関係を築いて交易重視の方に舵を切り替えてしまうのか、それは危険要素か、そこらは19,20世紀推進脈にとっては、荒っぽいころをしなくて済むようになるかもの観測も成り立つだろうし、一方に、積極果敢を勘違いして暴走するどこに生じるかもしれない危険因子の探りにくさに通じる辺りへの警戒をいかに機能させるのかなど、どちらをとればとか、両方だ、とか、地表面相手での秩序形成を摸索する脈々としての心配くらいはスパイドラマにも馴染んできた現代の人々ならば、きっと想像できそうだ。
 計画化して、単調に分配を待つシステムを空想はできても、実際に、満遍なく、万が一においても不都合を生じさせないタイプの円滑さを計画的に保ち続けることは至難、というよりは、現状無茶、とだれもが口をそろえられる。
 経済学においても、値段の動きが消費の動きを映してくれる働きは凄いから、そこは計画頭過剰であっても、踏み込み過ぎないように、と注意報を出してくれている。値段が恣意的にに操作されての結果だ、とかがわかったら、むしろ、市場原理主義発想ではない発想になるけれど、物の動きの過不足に不都合が生じないように値段が消費行動の実際をリアルタイムで映し続けてくれるように調整に入る。
 ただ、今時のように、外圧的不可抗力要因からやたらと物価上昇してしまうような場合、外圧要因だから、できれば、常日頃からの同じ経済圏内での自給力を高めて置けるなどの準備が要りそうだ。外圧系がそれに不都合を感じて文句がでるようならば、戦争をしないやり方の選択を求めるくらいは政治なり行政各部署が常日頃から接触をもって工夫を重ねておく必要を素人老人なので気楽になってしまうが、指摘だけはしてみたい。
 今時は更に気象変動由来での価格変動もありだけど、そこらは助け合い系の発想も加担させないと、長期には通じそうにないと察する。どういうタイプの貿易にするかの地表面条件の変動に応じた切り替えくらいを経済の発想から準備できるくらいのネットワークは構築できているのでは。(巷次元での価格の大幅変動を避ける、物の動きへの関与可能な交易要素への関与)
 色々な商品を売れ残り前提に大量に試行錯誤する売り方は、当然、無駄な売れ残りを出し続ける。そこらへの関心は業界が持っていそうなことはニュース報道からも知れ渡っているけれど、これまでの蓄積があるから惰性の膨大量が売れ残りを膨大にし続けていそうだ。
 日々の飢えが問題な各土地柄からすれば、トンでもな事態だ。
 列島での格差問題においても、それはなんとかならないか、で代案は試行錯誤され続けている。
 けれども、それがどうしても弥縫(びほう)となってしまうのは、そちらが拡大すれば、通常の売買の市場(いちば)に跳ね返らせかねない、からだ。
 作った以上は出回ることはないとしても、無視できない売れ残り処分が続く限りで、通常の売買を圧迫するようになってしまうから、それを避ける方での発想が市場(だけではなく、通常の生産流通消費の温存)利害から当然勝って、たいした助けの事業化には成し得そうにない。
 類推してもらいたいのだけど、農家が土地に固執して終身雇用を自らが営めている状態を前提にできたとき、会社勤めでも、部門ごとに、終身雇用でもかまわないかどうかを今から改めて検証し直す手もありそうに思える。人によっては、自らが不安定かもしれないけれど常雇いの立場を選ばないケースも含め、部門に必要な雇用の形態のいくつか程度は経営層が想定して、必要な人員を雇い入れる。若気のいたりから、初期、そう自ら選んだけれど、どうやら自分には向かない就業の仕方だったと修正できる機会もありだ。
 そういうことを前提にした雇い入れの形の標準形くらいは経営意欲をお持ちの諸氏ならば、描いて準備できそうだ。
 原点の農村を想像して、とはいえそれすら様々性を有しそうなことは忘れないことにして、そこでずっと働いて熟練して尽くしたいというだれか、仕事を充分に身につけて独立するとか、他で試したいとかいうだれか、人生の何割かを稼ぐことに使いたいというだれか、そこで会社経営まで学んで後継者がいなければ自分がそれを買って出たいというだれかとかが集まってくれるようになれば、経営のだれかたちにとっては、張り合いのある日々となりそうだ。会社仲間ごいっしょツアーを特に心がけてみたいなことは、特には必要がなくなっていそうだ。
 医療・介護部門になりてが足りないという場合、他部門から人がやってくることで解決するということくらいは指摘できそうだ。
 ならば、現状、他部門は余剰だらけなのか、という問いも可能になる。
 どこもかしこも人手不足さ、といったあたりが想像しやすいと察するがいかがか。
 既存の就職機会を求めて新規にそこへ参入しようと意欲するのだから、既存性の辺りはミソだ。
 もしも、既存の状態に、なんらか優先順を付けられるならば、現状、どうしてもこちらの部門に人が集まってほしい、ということで明確化する。
 それが医療・介護部門ならば・・ということで、なんどか指摘もしてきた。
 人口が少ないし、これからはもっと減っていくんだ、ということならば、で、米作農業の工場タイプでない働き方(伝統的終身雇用タイプ)が人口圧を発揮させやすい辺りを先日ふれた。
 どの部門にしろ工場化すると堅実な方が相当なバイアスを発揮し出す。
 では農村での人口圧が発揮し出して、いつのまにか1億人以上のついこの間までの列島人口環境が持続しているとして、現状のやり方での農村で常時過剰人口を養いきれないのだから、各地へと人口流出は生じる。近場かもしれないし遠いところへ、ということも起こる。
 百姓が農民のことと勘違いするタイプの農村だらけの頃に人生を出発させた角栄氏は各地に道路網と工業地帯を広げて、豊かに貧富格差解消策を目指した。
 サービス業とかにも人々は動き、不動産部門が開発地先読みの先買いで土地の価格を動かし始めてしまう。
 価格と消費動向の映しの働き上不都合な関係が生じている。
 政府や行政各部門の活躍の目論見の通りにはなかなかいきそうにない。
 計画が出過ぎれば必ず(なぜか)モノ不足障害を生じさせやすいという知見は地表面上経験済だ。膨大量、膨大品種の物の動き相手の場合、個々の意欲、自発的動きの結果を適格にフォローする方がより相応しい結果を導ける。例外とか、不可抗力とか他の条件を無視していいということはない。また市場原理発想的な放置とも異なる。経験からする理念的関与の余地はいつでも作動状態にしておくことは、万が一への準備と密接だ。
 農業以外にも就職することになる農村の人口圧を列島の各地が吸収して、人生時間を共にし合うことになる。
 ここらは、格差問題の要所、消費したくても持ってない層への仕事と結びついた稼げる状態回復策が必須の辺りと込みに、人口圧を生じさせるまでは何とかなるとして、その先のことを考えるばあいの参考にできそうだ。
 典型的にはやくざものにならなくてもいくらでも気に入った就職口を探せるし、それなりに良い消費者としての快適生活がだれにも可能になるとか就職年代になっての心の不安定にも充分に応えてくれる環境も行政各部門や巷の活躍層が動いて賦活状態にしておけたりがそれなりに役立ちそうだ。

 


   川柳もどき

    戦闘本となると結構危ない要素もつまってしまうが
    サバイバル系に限れば
    地表面各地での飢えに近い各地におけるちょっとした工夫の発想へと
    誘ってくれそうだ
     その膨大な細かい知恵のたぐいに向けて過激になって
      各地の知恵の面での助けになれる過激派だったらその次へ
      のステップにもなる機会提供ともなっているので
      そこから地元の大富豪が誕生して、そこでの雇用機会が突然
       巨大に生じてのようなこともいくらでも起こりそうだ
      そのためには
      (多少騒がしくても)平穏で無事な巷がなにより

 

連載は続く~ SF掌編『昔の民主はやがて中央集権化をも探らせる』編


 古代列島においては中央集権化を大乗仏教の列島在住勢力からする解釈において採用された方向性も主な主軸としてある時期から邁進(まいしん)されることになった。
 ということで当時の主流の一派にとっては各地に信仰の形が数百年間規模(西暦300年近くと400年代に入って以後のと)で育ってきていたのだから(そして移住前のこの時点では忘れられていたかもしれないけれど半島での集団の営み、各家庭での営みにおいて営々と継承してきた信仰の形=色々性、各土地柄性ほかが列島での分散的集住を経ての・・)信仰というヒトにとっての営み、集団の営みとも密接な営み性質を想定できた時の困難さ自覚から、仏と各地・各家庭での信仰とをどう落ち着かせうるかをめぐっては相当に工夫を重ねたくさせていたと、素人老人的には推測したくなる。
 村山修一著『本地垂迹』('74 吉川弘文館)の目次など参照もしながら、いかになどつい考えてみたい方に誘う。
 それにひきかえ、廃仏毀釈の方向性の歴史的振り返り不足は明確と察する。
 どこかしら起点において勘違いから出発してしまっている。習合の実際とか経過についての考察を経るよりは、かくあるべしの理念先行タイプでの暴挙に誘われた感じは否(いな)めそうにない。
 ただ大乗仏教を採用してそれを軸にも使って・・・という事態についても、当時においては、他の通じやすい常識の各地性を相手に説得を伴わせたことを想像できるなら、そしてそこになんらか説得の背景をなす権威っぽい辺りに気づけるなら、今時の欧米、欧米と言えば近現代においてはリーダー役を買って出た勢力と見なせそうだけど、長い歴史においては新参者だったわけで、各地性が濃い古代列島での中央集権化をめざした人々と似ているところを見るならば、同様の困難を抱えてそうなことにも推測は及ぶ。
 権威を保てなければ、こちらが安心・安全のための様々を理念とし、その理念に相応しい概念を用意して地表面各地に普及したいのにも関わらず、言うことを聞いてくれなくなってしまうのではないか、に関わる極く重いタイプの心配性を意識しつつ、また意識できるから表立ってそれを表現しない慎みは実践しながらも、つい、心配性の方が勝(まさ)って規則・ルールの類を新規に持ち込んだり、変更したりで地表面秩序へ揺さぶりをかけて、覇権のなんらかを保とうとしてしまう。やって少し成功しても、実は信用は下げてしまうリアルを内心感じ取れる感受性は(リーダー役だからこそ)働くので、いつでも後悔くらいはしているけれど、長期政権(19世紀以来だから)ゆえのこだわりが既に埋め込まれていて、立場を変化させることにも心は動きにくくなっている。
 列島古代においては、事業を進めている過程では、各中枢が元気そうだ。
 けれども、人脈的に連続と見なしておかしくない鎌倉期を迎える頃の落ち込みを鎌倉の刺激程度では賦活へと誘えないし、室町の貿易系も官製だからかなんなのか、賦活材料にしきれないまま、各地性の元々の元気度合いゆえに中央官僚派遣というよりは武断系の派遣の形がある程度普及を終えて傍目には混乱のようなことになって、列島は大混乱の時期を迎えてしまう。
 とはいえ、多分の話だけど、一般の中から兵隊を誘ったとしても、一般の継続的集落を全滅し尽くすようなことにはなっていないはずだ。

 武の中央官僚層が族として各地に展開もして実態を(現地の人々も含め)事情通諸氏、学問系が余程丁寧に調べてくれないと、だから実際の今に至る過程・暫定的現状のことはわかりにくいとは素人老人的に思ってしまうが、それでも、百年タイプ、数百年タイプ、千年タイプ、二千年タイプくらいは数の多少のことはおいて、列島各地に探せそうな気がする。
 数百年タイプくらいなら、江戸期以来ということで探りやすい。
 列島在住で長い人々は、個々性にこだわれるタイプだ。
 また村などの集住においても、時代相からの影響はあるものの、各家庭単位での好き勝手性は尊重され合う。
 それらを村のなんらかとして納(おさ)め合う。落ち着きどころの結果が村の姿として観察されてしまう。
 https://www.soumu.go.jp/main_content/000273900.pdf
 を参照してもらいたいが、関東平野部、見沼代用水をめぐる小史をご存じならば、米作こそが人口増を促(うなが)したらしそうだくらいの推測へと諸氏を誘(いざな)ってくれる。
 昨夜の時事ネタ報道番組にて『最大の課題「人口減」 公共サービス消滅危機 働き手不足に緊急提言』をテーマにベテラン・若手両キャスターの進行にゲストの加藤氏、増田氏が現状解説と提案などを盛り込んで、視聴者諸氏において恐らくこれからの列島事情と密接なはずと関心をもたれたのではないか。

 富山の知事森氏がコンパクトシティの発信源のお一人らしいことを知るまったく素人の老人なわけですが、それはそれ、としてゲストたちはその案にばかりとらわれることなく話題を持ち出してくれている。
 列島の集落の歴史を知ることで、持続的タイプと世代ごとに衰亡してしまうタイプの違いくらいは明確になっている。
 農村は機会が訪れるなら、莫大な人口圧を発揮し始める。これは明確だ。
 また列島農村の多くは少なくとも数百年は継続させてしまうことも明確だ。
 その集住のあり方は、寄せ集めたりしない。それぞれ性にとっての距離感を保ちあえている。身内での分家の仕方が土地の狭さからうまくこなせない時の暫定的なあり方が固定的仕組みと勘違いさえしなければ、趨勢としては距離を保つ棲み分けだし、個々の家庭の事情に余程のことがない限りで、放置の方を選ばれる。大局のルールの時代相とは村ぐるみだったり各家庭だったりの工夫で望む。
 それと比べてしまっては失礼かもしれないが、近現代輸入物の集住形態の多くは、若夫婦は同居したがらないコミュニティ、高齢者コミュニティとなって、追々土地の造成段階から作り直しの対象になってしまうタイプとして明確だ。
 そこらへ素人代案は示しやすい。
 割り切って、その手の輸入アイデアタイプで集住宅地を造成するならば、一世代は晩年まで住めて、その後、住宅の耐用年数期間は、一時的に住みたい夫婦ものも含めた人々に済んでもらって、その後解体となる。また次の一番目の世代のために設計し直される。
 けれども、そのタイプは、高齢者どうしの介護家庭とか、高齢者独居宅とかで埋まりやすい。日々の生活そのものがリスクたっぷりな空間となりうる。
 次に住むのはやがては新居に移る前の暫定的定住の人々の使い捨て感覚コミュニティになる。
 また集住させすぎてそれに応じたキャラを求めさせてしまう大都会タイプの密集住タイプもそれなりに成功させやすいけれど、高エネルギー消費タイプであることは避けられないし、メンテナンス費用はべらぼうとなる。そういう特異な経済圏を保ちつつ、列島をまとめてどう営めるかを考える官庁なり大企業なり産業全体の担い手と各家庭を軸に学校とか手続きとかの役所とか公務系の仕事場と買い物ほかの経済要素なども、特異な地域をどこまで容認しるか、考えどころと察する。
 不可抗力対応にはなんらか支払い手段の余分が臨時におおいに役立ってはくれる。助け合い以外の外部性が必要になったりするのだから、といった当たりがヒントにできる。
 しかも持っているだれかがその急所感覚を持っているかどうかでも事態は違ってきてしまう。助け合いのなんらかと関与する感じで持てる支払い手段をつかいこなせる日頃のリーダー層的観察眼を持ち、万が一に備えた思考の積み重ねが日常にできているかどうかの辺り。
 農の営みは条件が揃(そろ)うととんでもない人口圧を発揮してくれる(必要不必要感覚はともかく人手が豊富で将来安心発想が根強い。二けた人数の家族が当たり前)。
 そのほかはどちらかというと、人口を少ない方に誘いがちにする(たとえ発明家一家であっても堅実な生活志向)。
 列島は農政(と国つくり)の将来展望作りを怠ったために、より人口圧を減じる形ばかりを経済系が発信して、今の結果を招いている面も指摘できそうだ。
 効率を求めたり、利益を求めたりを動機付けに誘導するのは、単調な目標に向かう単調な判断の範囲に誘う、で、ヒトの世の中の営みにとってはろくなことに誘いそうにない。 個々の仕事における効率は熟練が自ずから改善しまくってくれる辺りは常識だったはずが、マニュアル下敷きの促成栽培型を安易に輸入しまくって失敗へと誘ってしまっている。(たとえば介護で適切な仕事をなしとげてくれるタイプのベテランの仕事の結果効率的なあたりは参考になる。手抜き上手のベテランの方もその線で参考にできるけれど)

 各業種の現場がつまらなくなっていそうだ。忙しだけで、給料はそこそこ・・。
 熟練の過程ということを持ち込めるなら、何かを覚えてこそ可能になる仕事の質・量といった手ごたえを感じつつ、更に欲が出て技能・技術・技量を習得し続けられる。そこに終身雇用の安心感や達成感や、(子供の学費にも使えるくらい)ちょっとずつ上昇する給料とかの期待を伴わせて日々の習得と地味な仕事とが張り合いと結びつくようにもする。
 多少忙しいくらいの方がもめごととか、雑談上のトラブルとかを招きづらくもしてくれる。日々の達成の後の一杯が世相的に赤ちょうちんの頃もあったし、今時ならちょっとお茶とちょっとの食べ物とかでその日のなんらかを語り合って帰宅ということもちらほら程度はいそうだ。
 仕事と生活のバランスは実質的にヒトの営みと関わることだから、そこらの達成度合い次第では海外からの技術・技量・技能の専門的達者な人々がわんさか列島の職場めがけてやって来たくなるということも空想より起こりそうなことだ。
 介護部門の人手不足は多少の給料上昇くらいでは解消しなかった。
 介護技術の習得の現場での工夫が最も大切な辺りを経営層が教育ということで担えるようにできるか、その支えとしての経営そのものに、収入源を介護保険のみではない工夫から広げていけるのかどうか。そして今浪費している分野から介護サービスにお金を使う循環を育てていけるのかどうか。どの分野にもそれは言えるけれど、そこに分野別に優先順はつけられるはず。

 能登半島の場合、表面の不安定な堆積土壌については、ネット資料がおおいに参考資料性を発揮してくれるようになっている。
 道路復旧に当たって、崩れることを前提に道路網を設計し直せるなら、という夢・希望・期待は素人的に持ち出せる。
 上下水道なら、折れやすい箇所をわざと敷設する工夫は必然として昔から採用されてきたと察するけれど、より、折れてくれる箇所を上下水道知見をもとに、適切な長さを用いて設計し直して、大地震の際の注目点は緯度・経度から探れるようにして置ければ、そこをまず点検して(ないし揺れ対応の壊れ具合検知センサーがついていればそれの信号で判断)、それでも漏れが生じているなら、他を探すしかないということになる。
 トイレも田舎事情ならば埋め立てタイプで立地選択を誤らない限りで、しばらくを耐えられるようにする。簡易トイレ必須、排泄物は埋め立て処分。そのための道具は地震前に定期点検込で日頃のメンテナンスが仕事の一つになっている。
 高齢者が多い土地柄ならば、月一くらいの定期でたとえばNHKテレビでお馴染みだった青山流を習っておけば、年寄どうしの介護でも腰を傷めたりしないで相当な体力差のある老人たちが助け合える。介護関心の発想に気づけるようになると、ちょっとした動作が工夫込みになってしまうことも貴重だ(救急時にも、日常のゆったり事情にも対応可能)。

 ホコリは風のひと吹きでキレイに霧散してくれる。
 土地に馴染んでということは集団の営みとも好い相性が育っていて(個々の家庭がいい距離感を得ようとして、ある暫定の進行形にあるとか)、苦楽を伴うにもかかわらずの辺りへの受容も育っている、といった辺りに気づけるとき、代案なりが思い浮かんでもおかしくない。
 若者たちがそこで同じか違うかも含めて、将来的な営みを構想できる土地柄として大人たちが育て、また大局がそこらに突然的急変を関与させることなく(事前に変化を打診できるとか一方通行性を慎める)ないし更に外部の変動が中央集権化以後の達成度合いからする関与によって変化の困った要素を緩和させるなどの数々が関係し合える環境も用意できて、列島各土地柄は後継者不足も解消となるのかどうか。

 


   川柳もどき

    列島事例
     各地に、各家庭に引き継ぐ
      信仰の形をはぐくみつつ
      それらが物系、観念系ともに関わらせて
       生活の支えともなりえた確実さ
     時代は変わって
     観念系の造作をいじくりだして・・
     とはいえ
     伝承の長年月を振り返れれば
      各々(おのおの)、諸氏にとっての
       手繰り寄せてみれば・・とても細いかもしれないけれど
       中央集権とはまた違った、個々にとってのかけがえのなさ
      とかが、どれほど工夫して
      まとまり感も並行してそだてているのか
      とか考えてみたりするのも、たまには
      どうだろう