連載は続く~ SF 掌編『US事情を映画でも時々学ぶ』編


文字の発音について、慣用を軸に使い分けることにしました。
テレヴィはテレビで行く。Vをどう発音しそれを文字にするか、という順発想ではなく、どこのことばの発音に従うかということの選択であることに気づければ、とりあえず自分が普段使っていることば以外のどこかのうちどこの発音を採用するか、ということだと、一般性は失せる。通じる度合いということでは、たいした工夫ではないテレヴィ表記なので、ここらは、慣用っぽく書き手が判断できた表記を採用、ということです。

で最近、テレビ放送の映画をしばしば通しで見ているので(それにかなりの時間を割かれてしまう。ドラマを通しで見るようにしたら、一日の大半がそれに費やされることになると簡単に想像できる。本人次第だけど)、たとえばつい先ほどまで見ていた『アクトオブバイオレンス』('18)など映画館で見ていなかった分、新鮮に受け止めさせた。
US事情はかまびすしい。しかし、映画でそれなりに学んできたつもりになってしまうタイプの当方にとっては、US 事情の一面として、受け取っているところ。
大変だ。大国は大変だ。
軍に入って戦地で一応実践力を試されて、かなりの熟練となりうる。
大国としての”警備”で諸外国の紛争に様々なかたちで加担しているのだから、人手はきっと足りないくらいと想像できる。
現US軍事事情の精度に応じた錬度に鍛えられた若者多数とベテランたちが戦地で活躍してしまう。
戦争現場の特殊性から、ヒトが普段の生活だったら制御することを何歩が踏み出すような様々を受け入れるし、自ら手にする。
そういうことの熟練になる。
そして職業的に現地に居たままになる人々以外は生活の場に戻ってくる。
戻って精神的に混乱を引きずってしまう諸氏もかなりいるようだ。
熟練技能を使って様々な稼業をこなす。
その中には危ない職業も含まれる。
そんな一面もちらっと登場していた。
現大統領に厳しい報道を繰り返す列島マスメディアと評判だけれど、この映画を時間帯は深夜ということでライヴで見る諸氏はそう多くないかもしれない。それに映画館でも沢山の人々が足を運んだかどうか。けれども、しっかり放送に載せている。
現大統領が悪戯に戦地を拡大するこれまでの民共両方の大統領とは違った工夫をその考えを志向する背景の主力な人々の圧しを得てこなしているように伺える。この映画を見れば、そのUS事情には理解が行くと察する。大変な役割を請け負ってきたけれど、国内での言うに言われない苦悩な流れと密接だった。
警察組織他、三権の精度は相当だから、どういう魂胆からか時々末端の警察が暴走してニュースになったとしても、犯罪系は表ざたになりやすい経路を極力さけてワルに走っていることがこの映画からは受け止めることができる。
電話とかを使った詐欺の類が盛んな列島のその質よりも更に注意深くワルを成そうとしている。
そういう犯罪現場の深刻度合いをUS事情としてみれば、麻薬の経路を遮断する目的も含ませたヒトの移動制限策はUS事情においてはかなり切羽詰ったもの、と率直に受け止めることができる。
諜報利害とか左右の過激な部分が諜報利害と無縁ではないところで麻薬・薬物収入依存で日々の糧にしている辺りは、情報発信が盛んになってくれたおかげで素人にも周知になっている。ここらも、US現大統領を圧す脈の熱い志向を控えさせているのだろう、とこの映画が2018年公開作ということから、察してしまう。
困った境遇になりやすい人々が、格差の多数派の中のバリエーション、濃淡の中にいる。
更にひどい境遇をかこちやすい。
そこに治安上の諜報利害とワルな脈の儲けの魂胆が混じって、わけのわからないような辛い事態を招く。
そこらを映画はほんの一端の極端な事例として紹介している、と受け止めた。
人の売買も絡んでいる。そこらも対抗勢力と絡むUS事情として周知されている。
だけど建前上、そこらにふれずに現大統領に厳しくマスメディア発信されがちだったのだけど、時々、強いて番組を見るようにしていると、現状に近いなにがしを知ることができるようにしてくれる、と気づける。だから建前の取材の利害とかからわけのわからない発信をこなす一方で、親としての心配をどこかしらに置いて、USの一面はこんなだよ、というタイプの情報発信もしてくれてるんだな、と別の受け止めもしたわけだ。


話はがらっとかわってしまう。
カシミール画像からわかることを探ることにも一応時間を費やす素人の一面を知っていただきたい。映画ばかり見てるわけじゃない。
段差表現を極端にして、歴史的に整理された川筋知見を検証してみようとしている。
製鉄知見の古代史については、ネット発信でも関東圏のことはかなりしっかり調べていることを読める。付随のエピソード的な発信も様々に成されている。
水運は、かつてのハイウエイだ。
荒川の名称は歴史的な場に置くとこんがらかってしまう。
現荒川筋。元荒川筋。そうことばを選ぶと、どの流れを指すかくらいはすぐにわかるようになっている。
現荒川筋を歴史的にたどると、旧入間川筋と表現されている辺りにたどり着くことになっている。
その川筋は名のとおり、入間川の川筋だからこれも追いやすい。
そして河川改修後とは言え、旧川筋が各所に残っている。
この川に船を載せることができれば運搬は快調、ということになる。東京湾まで高速で可能になるし、船次第で大量に運ぶことも出来る。
関東のやや南の方の台地部。大宮をとりまく台地の広がりを地図で参照してもらいたい。
そこに貴重なネット発信を参照できれば鉄・鉄具生産("征夷"とのからみの時期・<いくさ後の>唐とかの支配下ゆえの用語とも素人からは想像してしまう)がそれなりに盛んだ。
輸送が伴う。重いし量がかさむものだ。
その当時は海進の時期からかなり後退して時に少しだけ海進があったりの頃で、今の海岸線に近かったと察する。
その時に、台地にはかなりの谷を形成して中小河川が流れている。
現代に近い経験の話として、鴨川は枯れることもあったそうだ。
だから、台地が蓄える水はその程度だったとしておく。
しかし、今時の景色は、排水も混じって正確とはいえないのだけど、かなりの川幅も場所場所には生じさせ、灌漑とかでは相当に重宝しただろうし、運搬にも使えたと想像する。
で、現改修後の川筋、の以前の流露も地形からわかっているので、現荒川筋へと注ぐ台地の谷筋を流れる中小河川のその先はその通りとなる。
カシミールの段差極端表現を参照できるなら、旧入間川の筋と想定される川筋を一応図上に探ることはできるけれど、するとかえって素人的には、無理かも、と思えてここでふれることにした。
流れとして中川筋、江戸川筋の方には、旧入間川が行くのは、不可能というよりも、もっと他の河川と合流して、現荒川筋やその古い流れのくねくねの川口よりは手前の方へ流れやすい、と読める。
ある標高の台地が裾野を広げているのだ。
切敷川筋ともう一本の筋の谷も現荒川筋の方に流れている。もし、旧入間川筋が中川の方に向くなら、この流れを巻き込んでそちらへと向かっておかしくない。
ただ鉄輸送のことを考えると、と余計な推測を言ってしまうのだけど、芝川筋が確かにあるけれど、氷川神社の参道の延長に切敷川の流れと合流する谷筋があり、偶然と派思えない方向を読めるので、ここらは素人の憶測だからどうでもいいかもしれないけれど、見沼の流れを分流させたりなど、土地の人々の関心を集めやすいことは指摘できる。
しかも明治期の大洪水からして、東京の台地の東側の低地はどこを川が流れてもおかしくない地勢と読めるので、そこら。
台地周辺に旧入間川筋を見るのは多分違うとしても、その先、ずっと先ではどうにでもなる、と指摘できる。

更に、アフリカの水問題。
これはNHKBSで再放送されていた大洪水番組から知ったことの応用。
脱炭素話題に沿う番組の作りとは思うけれど、素人はまったく別の関心からでも参考にできると思えた。
熱帯雨林がそう在り続けられるのは、雨水の循環が上手くいっているから、という知見が紹介されていた。
地下に吸い取られる前に蒸発して雨となって戻ってくる。その繰り返しが成立しやすい。その条件が続く範囲で熱帯雨林が継続可能。
だから動的平衡状態の一事例にすぎなかった。
いつかは変化することになる。
また樹木が密集したままというのはヒトが関わっているからだ、という知見も紹介されている。
適度の燃えて、散らかった密集がありがちな森林とのこと。それゆえに、大火とはなりにくい。ところが燃える材が沢山のこっているヒトが関わった(小森林火災を燃えない段階で消火し続けてきた成果ゆえ)森林の形だと当然のごとく燃え盛る。延焼もしやすくなる。
焼き畑とか野焼きとかヒトの経験から学べることは多い。
戻って、アフリカのサバンナは深く、濃い森林が必要な水量を適時持続的に提供されることが無くなって再生しにくくなった姿のようなので、地下に水は一応たまっている。
そこらは気づかれても居るようだ。
人為によって熱帯雨林かのきっかけにすることもしていいのかどうかわからないし、サバンナはサバンナで、水を雨水として受け取れるようにしながら景観知見を応用できるようにしないといけない。
とにかく水をなんとかできる条件が少しだけはありそうだ。

そしてまたUS事情。
司法制度など普段は気にしてないから、列島版のことだってたいして知っているわけではないのに、US事情をつい調べていた。
そしてわかったことを一つ。
最高裁判所(シュープリームことばを使うとか)は連邦下にも制度的に設置されているし(これならわかりやすい→列島版最高裁のイメージ)各州にも最高裁判所が置かれている。ここがニュースを流しているとわかりにくい中味がこういうことだった、ということ。