連載は続く~SF掌編『卓球試合に0.1言(一言じゃなく)』編


早く終わらせる方でアイデアを瞬間出しする競技にとやかく言える発想を多分欠いている当方としては、その向きでの発信はできそうにないけれど、つまりキャッチボール発想でできるだけ何回やりとりし続けられるかで楽しみを得やすい発想なもので、相手が返せない工夫の方で発信は無理に近い。
けれど、試合運びということでは、素人ながら、ほんのちょっぴり発信できる今の段階では、と思えたので、卓球試合へ、ちょこっと。
ヒトの生理は、思考に偏れば心身の反応系に多少遅れを生じさせる。
でも日頃の慣れ化の繰り返しトレーニングによって、ことばと心身反応の反応性の一致に近い状態をもたらせることは、スポーツでは普通のことだ。
だけど、ヒトのくせとして、気持ち系へと誘う安易な発想がしばしば多用されがちにする。たとえばことば運用の様々の習得を経ずにアナウンサー職のようなプロの位置についてしまうと、ことばの用い方としてその手の語彙を多用しがちにして、時間をやり過ごすようになりがちだ。
そこらをスポーツに担い手自身がヒトにありがちな未熟者のくせだなとかで距離を取れればいいけれど、心身にまともに受け止めるようなことがあると、そうかも・・とか心身において受け止めていたりするものだ。
そうなると、試合、競い合いでは、必ず一定程度怒りのホルモンを出させるような作用も働くから、その度合が、より酷い方へと誘われてしまう。
その場合はシンプルに、疲労に誘う。”頭の回転”も億劫な方で作用している。試合運び上は良いことが無いわけだ。
でも、そうなることもあるわけだ。
卓球放送でミヤザキ氏が解説しているのを聞けるなら、非常に参考になるのだけど、特に卓球などは、一勝負ごとに”一呼吸”入れられる区切りが必ず用意されているので、氏が瞬時にその試合の進行中の各シーンの仕掛け合い分析をこなし、それを踏まえれば次の工夫がむにゃむにゃでしょうとやはり瞬時に提示される。それを試合の担い手である選手たちは現場で勝負毎に積み重ねて、試合の終了するころにはその試合でのシミュレーション以外に起こることはまずありえないくらいの生々しいデータを集積している。
そういう頭脳プレーを意識的こなしながら瞬時対応する心身と技の数々を後者は練習で完璧に身に着けている選手たちで、その技の格差が問題だった一時期とは違って、今は互角で一流の選手間の試合に望める時代になっている。にもかかわらず、列島系の選手たちはなぜか、怒りホルモン制御ではなく、むしろ怒りホルモンを分泌させやすい懸命ノリの方で挑もうとしがちなために、疲れるし、技も出にくくなるしで追々単調な攻めに傾き相手選手の思考の巧みに弄ばれるような試合にしがちな傾向になっている。
(心身)技が互角ならば、思考も並行してこなしてしまう選手の方が断然有利だ。
素人推測だけど、水谷選手はそう意識しているわけではないけれど、試合の流れの中で追いこまれたような時に実は思考の瞬間技をこなしていて怒りホルモンの悪影響を回避できていたのではと想像している。ここらが少し当たっているようならば、是非、ミヤザキ氏解説なども参考に、試合での怒りホルモン分泌過剰回避作戦で楽しく瞬間技の超絶卓球プレーを試してもらいたい。


話しはまったく違った方向に向いてしまうのですが、19,20世紀の不思議の論を踏まえたならば、現状の各国しっかり理念を継承する人脈諸氏において、英→米の流れの中で、米の自由が誇張されて心身に沁みわたるように演出された(当然そのために高級官僚系にそのための(各国地付きの)グローバルエージェント諸氏が相当に沢山育てられたはず)弁証法役割分担上の嫌われ役としての左理念とは間違っても言えないはずの全体主義的(イメージとしての民主主義とは相容れない強い印象を放つ)、情報非公開的統制をこそ自分たちの採用するところだと主張するとか、その裏付けがあるからこそできる施策だとかをこなす政治勢力が表立つ。
つまり、その役をこなすように育てられたエリート層でもある官僚層が居てこそ継続的に表立たせることができた。政治のトップがどう言おうが、そちらに引き寄せられるし、その線で良いと判断した乱暴系の指導層も可能性としては登場可能だった。
普通、左翼思想として習うのは、自由だし、情報公開だ。ところが、右も左も全体主義的で情報統制大好きのようなイデオロギー状況をいつのまにか育ててしまった。
日本書紀をざっとでも目を通せばすぐに気付けるように、実にトップからして仏教的にとことん平和望み志向一直線だ。実務のトップ層である藤原氏も同じだ。それに感応してくれないやっかいものを荒業と巧み技を使って処分するようなちょっと問題ありの策もこなすので、素人としては褒めることはしないけれど、その立場ならば、他に何かできるか、ということに答えないとダメだ。
そこらが急展開して慣れないことに手を出したのが明治以後のことで、明治以後の自称の右とか左とか、特に右系の人々の中には、相当に勘違いされている諸氏が多そうだ。
藤原氏の”闇の人脈”を巧みに導ける発想が既に藤原人脈から失せているのかもしれないけれど、(八百万の)生命を大切にする発想は中央集権化策以後はより顕著に継承されていたはずだ。
いつの時代でも支払い手段を蓄えたり得たりすることの本幹を継承できている脈は頼りがいを少しくらいは期待できるのだけど、成金系はそこらを継承し損ねている場合を想定して対処しておくことがどうしても欠かせない。かえって、学んで継承した稀少な人脈もおられるかもしれないけれど贅沢三昧に誘われるタイプも起こりがちだ。贅沢三昧よりも、支払い手段ということを意識して、巡り巡らせる工夫に頭を働かせられる智慧ものが要る。
どうしょもないおバカが集まってしまったと思ったら、ポトラッチ手法でかわす、という手もないわけじゃない。ただし、たかって、すい取って上手の取り巻きがそこを突いてくる可能性くらいは警戒できないと、勢力間のバランスを悪戯に乱す可能性も含ませる。
現各国民国家は、当然、現代の知見を心身化している諸氏と察するので、競争するならば、情報公開の水準や、非全体主義(民主主義の工夫は様々に展開可能なのでそこらの様々な分岐における試行錯誤とシミュレーション可能な形の帰結について学者・専門家諸氏が発信願いたい)での秩序形成力の方で巧みを発揮してもらいたいものだ。
それぞれ難題がついて回ることは、周知かもしれないし未だ動的啓蒙が必要かもしれないし、難題把握の再検討だって要る。
で、これからの若者たちに奥義の一歩手前くらいの情報が出てそれを元に専門家のどの分野を目指すかを選択できるようにするか、そうなるには一定の人脈フィルター経て出ないと入り口にすら届かないような現代的制約を課すのかなど、そこらすらも難題に違いない。
素人的には、出版や啓蒙メディアがネットの凄さに感応して、更新の巧みを適時こなして生に近い情報に接近できる機会提供を列島で実現するし、それで賢さ入門途上の若者諸氏をハグレ猿化しないような巧みも是非広く啓蒙業の中に組み込んでほしいと思う年寄り発想だ。