連載は続く~SF掌編『(何度目かの)年寄りなのでジジ(ィ)ネタ』編


 極端な額で運用できるタイプ諸氏の他、巨額が集まった運用元にとっても、借金の膨大量を抱えていない限り、金利上昇がたとえば 0.x% 台なんてのではなくて、1.0% であっても、たとえば 1億円の 1%(=1/100) というだけで、100万円(税抜き)も自動的に入ってくることに通じる。(10億円の預金で1000万円入る。高度成長期は一般の預金額程度でもビックリ出来るほど、数%という金利で動いていた。そのためにクリーピングなインフレ、一種の慢性状態の物価上昇と賃金上昇の追いかけっこと借金財政の拡大傾向を持ち込んでしまっていた。ただ世の中の様がわりの一面に貢献してきたはずなので、内実を単調に批判し去るとかの話で分かったつもりにしない方がいいと素人的には押さえてはいる)
 本当にシンプルに、格差問題の根は相当に世の中に困った要因を持ち込んでいると見なせそうだ。
 国の借金がどう巡りやすくして来たのかについては、一応解明しておいて、財政出動の細やかな使い道手法を発見的に開拓できておくことも今後に役立ちそうに思える。
 とはいえ、グローバルな経済活動(なんでも商品にして売買してしまう趨勢が出来てしまった後を各国民国家が工夫し合っている様)の下、どうしても駆け引き要素が作用してくるので、そうしておきたいことと同時にそれとどう付き合っていくかの逐次の練り込みも避けられないところが余分な労力を誘う。単に必要な緊張感の供給先と割り切れる分量ではないように素人には思える。
* イスラムっぽく、資金がいるところへ集めておいた資金成りが融通される。余裕ができたら必ず戻すということで、金利では設けない方式も立派な仕組みだと素人老人的には見ていて、なんでも商品化して方式の容認度合次第じゃないのか?とも思えている。そこに免疫のことからもわかっている耐性の問題を持ち込めれば、市場まかせの身勝手さの要素をかなりお互い分かり合えそうにも(年寄り的には)思っている。

 そんなグローバル経済の今の、よりヒトが躍動しまくる現状ということでは、より多くが生命の躍動に共感できるようになったメディア発達後という要素も指摘できそうなので、ある分野以外でのお互いの切磋琢磨へと誘う問題解決熱の発散の領域を絶えず発明して実践し続ける要(かなめ)のところを代議制ほかのメカニズムから、各分野を担う指導層に一応委(ゆだ)ねることになる。
 多くがそういう意味で分業の巷を構成して、そこで日々忙しく現場を担う。
 ということは、どうしたって民主主義の一方の発信には考えや、データ集め・処理やで億人単位の人々のうんざりするくらい膨大な利害を工夫してなんとかするための力量ということでは、どれほど自らの足元の巷に熟知していようが、それが具体的である限りにおいて限定的関与しか可能にしずらい性質に、いざ担うという想定の際に気付かされることになる。
 また性格とかも様々だから、大ごとに自ら挑めるタイプもいればそうではない部門で着実に事を成すタイプもいるのだから、民主主義が実際に機能する場ということでも、単調に描けるものではない。
 だからとまた端折る話になってしまうけれど、一応、他者を金輪際(こんりんざい)認めないという頑固者には対処が要る(と思う)けれど、とりあえず、全てを包摂する発想からのグローバル対処が最低限の前提として持ち出せることは、多分、多言を要しない。
 つまり各土地柄で政治風土を育て合っていると思うけれど、たとえ自らの理念がどれほど他よりも優れいるとか思いこめて政治的主張をするとしても、その最低限の含みは必須のはずと、(主張・言葉の内容判断のための)秤(はかり)に使えそうだ。
 第一次産品生産・流通・販売での利益の得にくさが昔から鋏状価格差として有名だった。
 それは今でもそうだから、まんまであれば欧米諸国などは物価が高くて、グローバルには相当に不利になるはずなんだけど、豊かな生活が可能となってしまって、だからこそそこへ移民として他所から人々が押し寄せることになる。
 差異が機能していれば隠しきれないのだから、そのからくりを応用したくなる人々が押し寄せることになる。様々な利用の仕方へと(ボロ儲け仕事として人の仕事あっせん・移住を担う人々も介在してくる)。
 厖大に作って余剰を生じさせてそれを他所へかなりの確度をもたらす条件付けを使って売りまくることはかつての植民地経営の名残現象とも言えそうな発想だ。
 国民国家の各地がそれなりに育っているかどうかは、万が一の天然自然の災害時に援助が届くまで自力でどのくらいの期間衣食住を支え切れるかなどの力量で測れそうだ。
 そういうグローバルないつもにしておかない限り、自然現象の災害の性質がわかっていても、その短期なり長期に生じさせてくる事態が大抵、予想通りに対処できなくて、その時点での多くの人々が大変な目にあった、ということを、ただ大き目なニュース報道で流して、いつかは忘れてくれるタイプの出来事にしかねない。
 住み慣れが人々が住み慣れている状態であれば、自然現象の性質にある程度人生を付き合わせてきた人々なら特に、詳しくなっているはずで、だからこそ土地柄ごとの工夫が育つ。
 そこに実の衣食住の準備が備われば、一応、なんとかなりそうと踏める。
 そして、しかも、全的包摂の発想の土地柄に応じた試行錯誤が動いているかどうか。

 そこらへ、理想論的には、ぐれた・ガルボ氏熱演の映画の登場人物氏のような、家族利害をとりあえず超越した位置をそこそこ試行しておけるような人生たちがかなりの要所を構成している世の中の営みが日々動いていることもそれなりに頼りになるし、それとの対比から家族持ち諸氏の理想論の制約ということを意識出来ておくことも大事だ。
 ただし、東北での津波非難知見が、声を掛け合える関係性も大事だけど、最終的には個々の適格な判断・行動がなによりもモノを言う場面もありうることを示唆した。
 つまり家族的な紐帯の相対的な位置づけもイメージ的には可能にしている偶然を今時は活きることができているとも言えそうだ。
 でも、先の欧米では形化しているような家族的な利害と距離を人生において持てているタイプたちが公務のどこかを構成している営みを、そういう形ではないとしても要点を押さえて各地で担い手として持てていることの重要さに変わりはない一面も押さえておくことが必用そうに思えるな・・とまた素人老人の余計なお世話で今回はしめくくりたい。