連載は続く~ SF 掌編『脳の癖を知って季節性風邪治療で稼ぐ』編


 以前録画していたので、わざわざCMを間に挟むような視聴を我慢しながらそれを見続けることもないな・・とも思えたけれど、つい見続けてしまった。
 『ある日どこかで』('80)。マーロン・ブランド氏、ジーン・ハックマン氏らが脇を固めた『スーパーマン』でもお馴染みの役者氏が劇作家を演じている。
 老女が強烈な圧を持って登場している。そういう演出だ。
 それも束の間、帰宅して家政婦っぽい、実はその老女=かつての大女優氏の伝記を手がける作家氏と同居する我が家で、その夜から翌朝にかけてのいつか亡くなってしまう。
 なぞのことばかけと、懐中時計を大学を出て数年の若い劇作家へ手渡している。
 もちろん、その後の展開こそが映画のシーンを埋め尽くす。老女はごく稀(まれ)に静止画のようにして現れるだけだ。
 しかし・・・(と介護職を経たシロウト老人は)だれもにとって無縁ではありえない死を介した別れ、時間の悪戯(いたずら)のことを想(おも)う。
 むしろ、そう想像できてしまえることのもたらす(生理的に沈潜するようにしてやってくる)苦痛を、具体的に(生きてきた人生の中身が)ばらばらで、それへの繊細さを欠くわけにはいかないお世話する立場に一応身を置く職業(生活のための稼ぎ要素を無視しえない)の日々の中で、その日々の介護の質が試されるだれかたちの死にゆく様として現われてしまう一方で、だれもがそれに近いはずの一人逝くその様が、たとえ想い出一杯とかで形容されるような人生たちであっても、見えている姿からして、その直ぐ直前の他人との関り方が少しくらいは、ある日どこかで得た濃密さのほんの一滴分くらいは足しになるのかとも思いたいが、逆にある日どこかで得た濃密さゆえの、一種の絶望的一方向性にも気付けるように仕向けられる。
 人気商売に人生を委ねると、少しだけ具体的な人生たちを想起していただいて、するとファンのだれもにとってとか、これからファンになってくれるかもしれないだれかたちにとって包容力シグナルとともに、一線を超えるわけではないのに、なぜか惹き付ける魅力も様々に使いこなすゆえに、異性付き合いの契機すらが、その流れとともに時間とともに流れ去りがちにする。
 心の揺れが誘う体験は積んでも、不遇をかこつ方へと誘いがちにする。
 そういう芸能系の人気商売に人生を委ねた人気者たちは、なんらか工夫が要ることを想像くらいはしている。
 そしてそういう人生を知る現場でどうこうできる立場のだれかは一応オルタナティヴなアイデアを提案している。
 ジャン・ルノアール監督の『フレンチカンカン』でのジャン・ギャバン氏演じる興行主は、死に際、なんとか近くにいてくれた時には、そうしてもらえるかもしれないけれど、野垂れ死にの可能性大の人生を受け入れることで、人気女優諸氏に(独特な立場での)自信を持たせることになんとか成功し続けている。それでも人生は一方通行で、老いていくほかない。
 『ある日どこかで』でも似た立場の人物が登場するのだけど、ちょっと卑屈な位置を採っている。だから近づきすぎることを女優氏から煙たがられている。
 老女はある種の確信を得て、若い劇作家にことばを投げていた感じだ。
 その表情は実に印象的だ。
 錯覚に任せれば、その老女との出会いを契機にして、いつまでも時間は循環し続けてしまうのではと思わせる。
 その一方で、はたと気付かせて、一方向性を濃く印象付け、出会いの濃縮した時間を保てるよりは、放り出されることの自由よりもずっと、足腰の弱っただれかが手すり無しで階段の上り下りを強いられる感じだ。
 介護施設で死に逝く人々が、手厚く葬られる過程の端緒を得ているとして、それでも、この世を得ただれもがある日どこかで濃密な時間たちを通過しているがゆえに、絶望にも晒されやすいことに想像豊かにしておけるといいなとも素人の上にごく老人であるがゆえに思えてくる。


 そう想起したりできる脳の働きを育て、持ってしまったがゆえにヒトは決定打的案をテキパキと持ち出せない性質(たち)をも得ている。
 その不安定を、より多くと直面できていると思えるほどに歴史的経験の年月を積んで、しかも並行的に持つようになった脳の働きを働かせてたとえば推論したりして、確実な束ねにも馴染ませてきている。
 だから、恐らく経験との照らし合わせからして、外す度合の制御ということについては関心アンテナがより機能しやすくなっているということで、間違いをとりあえず避けるようにはできている。
 でも関心アンテナをいつでも万全に働かせることはリニアに引っ張り出すようにして使う(中では並行的に同時的に様々が発火している)脳であるがゆえに、難しい。
 なぜこうも(確固とした一連のS-Rでシンプルに行動を誘わない)不安定にしか働かせにくい脳を育む方でヒトは進化してきたのだろう。
 (フローチャートの分岐へ誘う)価値の軽重を持ち込めば、それに従って、厖大なデータを処理する機械が、より万全な答えへと導いてくれる(はずだ)。
 動物たち、ヒトを除く生き物たちにも、なにやら思考的な、試行錯誤的な経験の積み上げとかが場面に応じて発揮されていそうだ、ということは既知のことだ。
 それでもヒトのように試行錯誤して工夫して成果を得るようなことはしでかなさない。
 ヒトからすれば力不足に映るかもしれないけれど、適度の判断を有意な時間内でテキパキこなす。(ヒトから見ての)錯誤についてもテキパキと下して獲物になることもある。
 数式、数値を扱って、それなりの精密な近似手法を駆使できるようにして、動物たちとは遥かな距離を得た感じになれていそうだ。
 あくまでも(共生するその他の生き物たちとの連関も含めて)地球環境の変化に生(せい)を委ねているかのようにして生き続ける動物たちとヒトとの違いは顕著だ。
 ヒトは変化にただ身を委ねたりはしない。なんらか工夫したがる。
 その時点で、既に、とてつもない問題群を招き寄せてしまうのがヒトだ。
 またそれでいいわけもない。仲間意識が実に濃密で、お互いをとことん大切にし合えるヒトの場合、寿命的な生のあり方に委ねさせることをずっと選ぶようにしてきた。
 なんらか観念の肥大の辺りが、脳の力量でもあり不安定さの源でもあるような方向性でずっと進化をとげて、種の絶滅ではないままで来ている。
 生き物の脳的な組織は、進化フィルターにおいては、様々に生かせてきている。
 どれが最適、ということがないように、様々な働き方を生む組織の状態を、世代継承させてきている。
 ヒトは(思考)弄ぶことにかけては一流だ。でも最適かどうかの判断は、その瞬間において、明確にはできない。形式上の指標を用いて、それこそが正しいと見なすことにしてなんとかやりくりしてきている(長年月の経験の賜物(たまもの))。


 そんな脳の働きを使えるならば、風が大流行というのが冬の風物詩だった地表面において、たまたま一つの変わった風邪タイプが流行って、感染患者数すらもこれまでの常識では考えられないほどの小規模に抑え込もうと企むことも充分にありえそうだ。
 その一方で、季節性の風邪という扱い、形式上の位置づけが可能になることで、冬場の稼ぐ病であった風邪患者を沢山呼び寄せて、一般の医院がそれなりの収入を、異常な補助金頼りにしないで済ませ、しっかり普段の働き者のお医者さんや看護師さんたちが稼ぎまくる、という事態へ誘う、という設計を持ち出すこともできるようにする。