連載は続く~SF掌編『列島古代文字ことば事情研究への期待』編


 講談社のページにて"AI"も煎じ詰めれば・・・の話が載っており、ふむふむと年寄りっぽく読んだわけだけど、遺伝子の編集技術にしても、先日NHKBSで放送されていた番組での専門家お二人の話から察するに、煎じ詰めれば・・自然界および地質年代の期間の"振るい"以前の一種の(人為的)突然変異のような事態なので、非常に脆い状態とも取れるし人為ゆえの多少は今的環境下での優位を保ちつつ長期にはべらぼうな試練が待ってそうな実験的提供の一つのように取れた。

 ところで列島版"仏"の話の続き。
 三方良しという深慮遠謀タイプの試行錯誤はいつでもひたひたとで継続中な気がするけれど、怨恨を引きずることのないような工夫の一つと見做せるように老人的には受け止めたくさせる。
 やるからには勝って、それも絶対的に勝って文句を言わせない、という個々における試行錯誤的向き方が生じがちな時代的気運も過去にはありえたろうけれど、ヒトは集団の営みの中で学んでしまうので、そういう怨恨が尾を引いて子孫たちがまずい関係を持ち込んで更にというような悪循環に陥らないような想像力を働かせてきた、その想像ゆえの工夫も相当に持ち込んできているようにも推察される。
 ただ弁証法応用というか、市場まかせっきり主義発想から、帰結として、一時を占める勝者を絶えず生み続ける競い合いに仕向ける作用の持ち込みは、一方に落ちつきのない巷へと働き掛けてしまうだろうし、一時の勝者はまったくごく少数というか一つで他は敗者でくやしいから敗者の中でランクをつけ合ってそれでもって落ちつきを得ようとさえしてしまう。(需給ということのヒトからする制約(飢餓状態以前に体調を整え続けられるとか)を踏まえた、調整装置としてどうつかいこなせるか、使える局面の絞り込みが可能かの具体的品目別の技等)
 ヒトの一面として余程の動機を得られないと、せっかくの時間を集中して、結果、やっておいて正解!とか合点がいくような人生の中の一時的過程を持つことさえ、いつの間にか時間は過ぎてのようにしがちにしてしまう。そこらを半端に押さえてわたったつもりの指導的なだれかたちは、つい、事件とか何かしら不都合に遭遇するとそれの解決のためにヒトは必死に努力し始めるとかの発想を持って、その線で集団への作用を考えたりしてしまう。そして迷惑な世の中の一面を構成させることになったり。
 ただ、多くの場合、様々に必要が明示化されやすい環境であれば、それを満たす手だてを探り始めた順に、じゃ、だれそれにそこらは任せとこう、で、自分は・・となって、集団の営みの中で、広い意味から仕事を探り当てようとする。
 そういう様を全体的に見渡せるだれかたちは、そこらから、得手不得手を個々に探り当てて、より研究的探索が粘り強く、我慢強く必要な分野へと、選択的に誘ってみたりも試行される。
 様々な日常のやりくりの中に楽しさほかの快へと響くなんらかを見出して、自らの人生時間を切り売りして、残りはそちらで過ごしてみたいな、というタイプたちもそれなりに沢山育つ。そういうある時間幅を輪切りにしたときには、ヒト集団というは、面白いほど、それぞれの志向の持ち主としても育っていて、それぞれの志向と世の中の必要を巧みに組み合わせられるような工夫の回路次第で、より円滑な個々にとっての持続的人生の手ごたえを得られやすくする。
 つまり、計画依存以外であってもそれは市場を巧みに使いこなしつつ、市場依存や、市場の都合に振り回されるヒトの位置にしないで済む、ヒト圏内に市場を操れるやり方も可能だという辺りに気付けそうだ。
 その先に一時の勝者を作って、いつでも追い込みまくって、目的化した勝ちほこることへとは誘うわけではない、普段の巷の活動というイメージが持てる。
 ただ公務系が裏方として、黒子として、危ない分野ということでの市場という場を想定して、そこでのせめぎ合いでは、いつでも関与して勝者の位置を外さない工夫が求められるのが現代の未完成状態、制約面とも察せられる。
 公務系の関与抜きに闇の勢力がそこを占めて、闇の支払い手段ルートが成り立ってそれが馬鹿にならない額となって、となれば、簡単に想像ができるように巷にしらずしらずか時には顕著な困った方の影響が生じやすくなる。刑事ドラマだったら汚職警官組織に困らされるどこかの市町村というケースだ。
 お金もたっぷりかかるけれど、犠牲者も沢山だす戦争タイプも、怨恨を引きずらせる。
 遠回りであっても、また実際に時間をかけて話に持って行って、話にしても時間をけちらない手法は、担い手の気質が自慢しないから、表の重要な手法のような振舞い方はしないだろうけれど、派手に力で抑え込むタイプと違って、納得づくのお互い様を目指すということで怨恨を引き面セル手法とは対比的と見做せそうだ。
 ただ直面する事態に不都合を感じて、すぐにでも解決してほしいという願望へはただちにの返答を示さない手法ゆえ、勘違いして、解決の妙を持つ側に向かって八つ当たりを誘い兼ね合い要素を含む。そこらはだから、その深謀遠慮をお互いが理解し合える達人をいつでも必要以上に育てあえていることがそういった集団の営みには必要になりそうだ。
 そうなれば、だれかれと勘違いしそうな誰かへ向けて、良好なささやき作戦が可能になる。
 八つ当たりを煽るようなささやきに誘うのが勝ち負けにこだわらせる手法に付かれている巷の人々のはずで、そこらは、今どきの巷にとって注意が要るともいえそうだ。


 倭国の役割を引き継ぐ必要を感じ取れる人脈には漢字を営めるだれかたちを含んだ。
 それがずっと続いたことを想起させる。
 聖徳太子はその系統なのか、そうではないのか。
 仏教以前から漢字を使いこなすごく少数、ということでは日常会話としての漢字的発想を共有できる相手がほとんどいない特異な境遇の継承を重ねる人々のような感じだ。
 多分職業的とか家業のような継承を想像させる。
 指導層が担って・・という感じではなさそうだ。
 しかし、なぞの記号を読み解き、意味内容を人々の前で披露する、っぽいパフォーマンスをこなすことだって可能だから、まったく指導層が漢字の読みこなしの継承と無縁だったかどうかは断定しづらい。
 中国由来の紙が基本の資料だとするなら、巻物だ。
 印刷しないで増刷するには、書写が簡単な方法。
 だからそういう性質を保持している時代は、特権的か立場上の偶然でもない限り、紙資料をいつでも参照できる立場は得られにくかった。
 こどもが新ことば環境に順応してしまえるのは相互的環境を得ているからの面が強そうだから、特別な場と人数の環境において、(漢字系)文字言葉を自在にこなせる世代が育つことも、そう簡単ではなさそうだ。


 では川柳もどきをひとつ

  涼しくない早朝散歩、11がそこかしこで熱気を発散中