連載は続く~ SF掌編『老人性古代史関心症に女子サッカー熱中症』編


 重要物資"鉄"を手掛かりに古代の列島を含む東アジア(と言葉を用いてしまうこと事態が素人では推し量れないくらい先入観ぶちかましの状態にしてしまうくらい知見は蓄積されてそうだけど素人使いということで)域ないしより大陸地続きの広域に渡る交易脈を想定しつつの古代の勢いめいた辺りを探ることは欠かせそうにない。
 そういう素人には無茶な博識の辺りは専門家・事情通諸氏の発信に任せるとして、素人老人的には古代列島においても、外部の怪しい連中のようなイメージをふりまきつつ、実は自在余地大ありだった古代列島においてちゃっかりか中央すら関わってかしての遠方交易脈が活発だったらしいことをエミシ記述の巧みを考古知見から読み解いて著者の一応仮説として一般に紹介してくれている松本氏に依ってしまうなら、多賀城仮説についての現主流の記述とは実質のところではかなりの違いを想定させることになる。
 ただヒトの動きとしての事実の捉え方となれば、その限りで相違よりは同じ事態についての解釈の違いのようなことにできるので、合意形成もそう遠くはなさそうだ。
 だからヒント満載と素人老人的には一応押さえたくさせているつい最近の専門家氏のネット発信については、説そのものへの言及はできないくらいドのつく素人老人ゆえ、ヒントが鉄からみで(ということで鉄からみでの同じ著者による古代史の一面の展開を期待はしているのだが(大宮の有名過ぎる氷川神社とからめた地域史に広域の脈絡が透けてくるかもの辺り))現状、当人がこんがらからせてしまうかも、ということで少々材料集めするかという所なのだけど、たまたまその集団的移動が生じた先行の脈に乗っての400年以後の動態と関わった集団の営みは男が主の立場で物事を動かす習慣の中にいたようだ(申氏ヒント発信)。起源とか自分たちの伝統と思い込む機縁はそういう偶然を時期的な壮大な通じにおかずに、たまたま性が関わって起源とか伝統の求心点とか思い込めたりが関わりやすいので、その後の人々の間で、女性よりは男性こそが担うべしの発想を継承化しやすくしたと想像してしまう素人老人ゆえ、その人々のきっかけの偶々(たまたま)性に気づいてもらえて壮大な時間軸と関わらせることでよりたまたまだったことを実感しやすくして、列島でも権威筋がそうだったようにずっと女性リーダー(呪術的なリーダー)を持ち上げて、担わせて、なんらか平穏を保とうと試行錯誤してきたことを受け止めてもらって、政治状況の男たちの忖度が渦巻く停滞状態へちょっとした変化のきっかけくらい(女性たちとて政治のなんらかを関係性に持ち込んで男たちと同様の陥穽(かんせい)を持ち込ませかねない)は持ち込めると素人老人は性別の応用面を想像したくさせる。
 スカスカ列島各地へ広域鉄交流で鍛えられた集団の営み手法を成した自律的な各集団が移り住んで・・・となれば、軋みも生じるしで仕切り役も自ずから育つ。
 一方に昔からの継承された権威筋は未だに活発だ。
 しかも鉄と関わる知見を集積できている大集団がその構成小集団の散らばりとして息づいている。
 お互い一目置き合える関係性を読み取れそうだ。
 鉄脈の後継と思える地域には新羅が育っている。
 そして三国のひしめき。
 列島には鉄脈の大勢と少数の権威筋で中国との関係を保つ。
 ある時期の三国のそれぞれと中国とそして列島の権威筋と大勢筋において、ちょっと関わり方が違っていておかしくない。
 そこらをどうとらえられて、その後の展開で記紀に残る具体性とをどう関わらせうるかがより具体的に押さえることをできそうに素人老人にはちらっと思えたり。

 ということで古代史についての素人老人の作業はもう少し先までちょっと整理すら難しそうで、その間、女子サッカーのパスプレーの辺りを追ってみたい。

 旧プレースタイルは、男子ブラジル代表サッカータイプのパスサッカーと組織的サッカーが上手なプレーを見せてそれなりに、沸かせてきた。
 日本男子サッカーはその他の似たタイプが沢山あるはずだけど、パス精度が当てにならないことが原因する組織サッカーにするかとかの迷いを時々生じさせながら、確率的サッカーというもう一方の世界をこなしてきている。
 パス精度がいまいちな世界の各チームはほとんどがこのタイプだ。
 女子サッカーについても同様。
 女子スウェーデンチームのようにパス精度が確かな状態(パスし合う間で似た高精度を期待しあえる)に持って行けた場合、確率サッカータイプは相手として弱体過ぎてしまう。興行性を意識出来たときに、一方的な試合となりやすく効果を生みにくい相手となってしまう。長い目で見たときに興行を一緒にやり続けるには不都合ということになりかねない。
 確率サッカーは、パス精度がいまいちな選手が集まって、その各選手において、期待したパス(精度やパスボール質)がいつ期待した通りにくるかわからないことを前提に俊敏な動作を関係性として完成させているタイプだ。
 わかりやすく言うと、先日の大量得点してしまったなでしこチームのような試合になりやすい。
 点を取ることをただ一つの目標にしやすくしている。
 パス回しの技を相手チームとの状態の違いを考えて、点を取ることは容易な相手チームのコンディションだ、と見なせて、どう試合としての魅力につなげられるかを考えられるのは、パス回しが上手なチームだ。
 だからパス回しの様々を試し、最終的にはシュートでおさめる。時間をかけてそうできる。結果的には何点かは取れる。大量得点になるかどうかは、試合中の試行錯誤のためのケースの持ち込み方次第ということになる。
 逆に相手チームにボールを渡して、パス上手のチームがどういう防御を可能とするかの試行錯誤も持ち込めそうだ。そうなると90分間は短すぎるカモと、素人老人からは思えたりする。すると結果的には2点とか3点とか、ひょっとしたら最初の1点のみで終わってしまうかもしれない。
 手を抜くわけではないし、できることについてプロフェッショナル質を保つ試合をこなすのだけど、親善試合の質も保ってファンとかサッカーをめぐる状況を賑わすことができる。
 ミドル、ロングの精度良いパスで得点機会に直結させるタイプのチーム相手に、パス回し上手のチームは、ほぼパスボールゆえの速さで抜き去り抜き去り自チーム内でのボール回しを可能にして相手チームはうんざりしてくる。しかも、得点を取れそうなシュート場面が少しずつ迫ってくる精度上げのための状況つくりまでパス回ししながら積み重ねられる。シュートの後、相手チームにボールが行っても、キーバーがロングのあてずっぽうの蹴りをするならば、早速自チームボールにしやすいし、そこらに気づいてキーパーが相手チームだれかにパスできたとしても、その後のパス回しが動の方でよりも静の方で精度を築いてきたチームのはずだから、ちょっとしたくせを読み取ることを怠らずに試合をすすめていたならば、中盤頃には、ある程度好きなように相手チームのパスボールを奪いやすくなっている。パス回し上手の習性がそういう観察眼を育てている。
 動的パス回し上手なチームの各選手にとって、パスが失敗した当座の責任はパスを出しただれかにあると受け止めて事態を押さえる癖ができている。受け取る相手の動きの読みを勘違いしたとかの類として想起されている。
 実態がどうだったかなどは試合後にスタッフほかがビデオで厳密に確かめることができるから、不都合は生じにくい。
 旧ノリのプレーヤー諸氏の先輩タイプのような場合、折角いい発想のいいパスを出したのに読んで動いてよとかつい思いたくなるかもしれないが、それは大いなる勘違いということだ。
 現状際立っているのが2022年U-20世代のスペインチームと日本チームだ。
 だからパス上手チームを構成できる事情のところは、むしろその土地で熟達することを選べる。そして海外のこれから、という状態のチームと現状を知るために、人的交流を図るために資金次第では沢山試合を重ねられることが若者たちのその後へと生かせそうだ、と素人老人は勝手に想像している。
 その後、スペインチームの若手選手たちはどういったチーム構成でその技を活かせているのか、そこらも交流試合をしてみないと実際のところわからなそうだ。
 折角スペインから監督ほかが女子サッカーと関わっている時期、混成チームを作って、その混成チーム間で試合をして、パス回しの感覚の違いとか共通性とかを確かめ合えることも育ちの材料にできそうだ。営業部門がそこらを汲み取って営業的に成功させられる演出とか興行の技をたまに試してみる、ということもバブルのりではない工夫の数々の一つにできる。
 スペインの女子サッカーリーグに日テレベレーザチームのようなタイプ(若手大勢にフォローの先輩選手数人タイプ)のチームがあれば、実験的に女子サッカーの見ても面白いクラブチームの対抗試合を興行できる。
 そういったことの積み重ねで各地で女子身体、筋肉の付き方に応じた面白いサッカーゲームができるということを知った各地選手がその技をネットやビデオやたまにテレビとかで見て育って、各地でパス上手タイプのチームが育って互角に際どい試合ができるようになれば、男子サッカーが単調にながれがちな今時、女子サッカーの方が面白いじゃない、ということで、男子サッカーにもちょっとした刺激となるかもしれない、と素人老人の空想は全開の一歩手前だ。

* 確率サッカー:数うちゃ当たる方式(ことばはちょっと・・だけど、そんな所)
         ただしサッカー自体が通常、簡単に得点できない性質あり


   川柳もどき

    数年前から彼岸の時期を外して少し遅れて咲くようになった彼岸花
    毒っけを持つ球根だけど、性格も・・・・
    とか勝手に想像するかなりの年寄り