連載は続く~ SF 掌編『小文の缶詰過ぎ』編


 経済の営みについて経済学の発想から(或る区切った期間内でのひっくるめた事象)マクロ現象と押さえた時に、以下の把握が可能
    Y=C+I
    Y:所得
    C:消費
    I:投資
 某超大国のリーダーシップの下、金本位制の制約を取っ払って、経済の営みをカジノ化して、しかも劇的インフレとかバブルがはじけるとかの災いが自国発とならない巧みを含ませる準備も怠らなかった。
 計り知れないほどの現実的支払い手段として相対的に通用しやすい(超大国である)自国通貨(事態が急変して、自国通貨が支払い手段として通用しにくくなる場合は、採用した手法も通用しにくくなりうる)を蓄積的に発行され続ける。
 それらが市場で個々の消費のための支払い手段として使われようものなら途端にハイパーインフレ間違いなしだ。
 けれどもそこは金融通からの継承を経た超大国、がっちり管理した。
 つまり、支払い手段として使用可能な莫大量が、工場新設とか、生産→流通→消費とかで在庫もあったりを含め、量的安定とか量的な継続性の攪乱要因については、市場原理に寄り添わせて新陳代謝の激しさも時に有りで、市場のサイクルの破綻を監視しながら、或る意味、"安定性"を保たせる関与は公的筋が関わる。
 支払い手段の莫大さの大半については、だから、そういった不安定要因を持ち込みやすい市場には廻らないように管理しまくる。
 雇用にしても、生産量調整にしても、固定のなんらかの増減が社会的にダメージを与えにくい部門に莫大な支払い手段を注げるようにコントロールするわけだ。
 だから実は、公的なコントロールではない市場原理依存のようでいて、黒子的な関与としては、公的なり私的なりの強大な権限が作用している。でもそれは一切見えない。
 同じ消費であっても、それが個々の商品生産のためということで不可抗力を発揮しだすようなことにはならない消費部門に莫大量が消費される。ではどういう具合?それはもう少し先だ。
 同じ投資であっても、消費同様に巷にサイクル上必ず還流してしまって、インフレとかバブルとかを生じさせにくい分野への投資がコントロールされている。
 芸術家が突然大金持ちに、ということもあるにはあるだろうが、桁違いが、大した作品と見なされないのに生じたら、それは事象として、裏を探られ易くする。
 そういうことがあってはまずいから、ある程度の規模の雇用もあり、しかもその一人一人がべらぼうな支払い手段の額を毎年得られるような部門を何個も営んでもらう。
 ただそれだけではなく、施設とか、その営みに必要な更に巨額の出費が伴うような部門として育て続ける。個々の日用品購入のような巷に還流し易い消費よりは、単品でも巨額の出費となるような消費行動を取りやすいだれかたちが雇われている。そういうニュアンスで受け取ってもらえるとそのコントロールの様を想像し易そうだ。
 更に人口増の工夫も怠らない。この辺りについては、Mr.キッカワが移民と住宅購入のサイクルということで20年ほど以前に解明している。
 現地表面各地の政府は苦境にある。
 かつて二番手をいっていた国の経済は、一番手の一人がちが継続中のレジームの中、他の二番手候補にその場を譲ることを、暗黙、強いられて久しい。
 でも他の諸国でもそれなりに景気が良くて、生活環境、労働環境改善して貧しい諸国からの移民が殺到するようになるほどの好条件を法的に整備はしてしまったものの、経済の営みは低調傾向を余儀なくされている。一番手の超大国が一人がちする仕組み、レジームの下、どうにもならない。二番手がこれまでのように静かに煩くすることを嫌って、二番手、三番手と作って、競わせて、一番手からは遠ざかったところで、煩くしてくれる手法さえ試みられている始末だ。
 それでも巷は暢気なもので、そういった基底のところを見ないまま、一番手の稼ぎ上手を学べとかで利用され易い人々が、ことばを乱用しまくる。
 でも現実の窮状を消し去ることは出来ないから、今になって、そういった空の宣伝は通用しにくくなってきた。
 しかし、超大国の事情への配慮を欠くわけにもいきにくい。
 巨大消費国なりの効能は貴重なのだ。しかしその副作用は一人勝ち趨勢しか生まないことだ。
 つまりレジームとしては失敗しているけれど、依存関係はきつく固まっていて、オルタナティヴの発想の急所のところを読み間違えたまま、経済本が沢山流通してきただけだので、勘違いの修正と学び直しから出発するだけではダメで、オルタナティヴの具体性を準備しつつ、それでもって地表面規模での経済の営みのおたがいさまをいかに営めるのかが探られるようにならないとダメだったりする。修正の同時並行性を平穏にこなせる事が不可欠な条件だけど、ちょっと勘違いした趨勢は今時を局地的混乱状態にして、オルタナティヴ発進のきっかけを邪魔しまくっている状態だ。
 さて、どうする?!

 

 その昔、唐の高宗・武則天の体制は、鎮めて喧嘩っぱやい半島三国のうち、百済をまず攻めきった。そして罰せず赦す。
 しかし最リーダーは囚われの身となって数日後、長安で亡くなってしまう。
 一人、後継候補が居たが、どうも頼りない。
 それはともかく、唐は、百済の行政区画と制度について、変更したものを実施させる。
 その際、各土地の有力者を首長に採用した。
 倭から出向いた反乱軍のうち、生存者たちも赦されて、帰国する。
 千人規模か数百人規模かの唐からの使節もやってきている。
 戦争状態じゃなかったのか、一体半島の勢力争いって?と疑問を素人老人はつい感じたくなるくらいなのだけど、斉明が亡くなった時、高句麗百済新羅から使節がやってきてもいる。
 そして日本を対中国関係で名乗る以前の倭は、半島三国に対して、仕切りたがっている文章を残しているわけだ。
 そういう発想もあってか、列島においては、古くからの渡来系と時期時期にやってきた相当量の渡来系に660年以後、新規に断続的にやってくる高句麗百済新羅からの渡来移民諸氏を、各地に振り分け、住んでもらうようにしている。
 そこらは、加耶系の既に小規模な行政を営んでいたかもしれない自律系の各単位の自律性が列島環境で土地によっては更に自律意識を醸成していたかもしれない辺りと関わらせると、上手く共に工夫しあって住み合えたところもあれば、ちょっと軋みを生じさせてとか、色々ありえたかものあたりを、素人老人なので資料的な検証をしないまま想像してしまいたくなる。
 そこに幅広の直線道路を作るような発想も含ませた"技術"が介在して中央集権化が目論まれるのだから、初めはビックリ、段々、内容とか仕様とか、将来展望とかが透けて見えるようになると、おいらはそういうことよりももっといいアイデア持ってるシィ・・、などなど異論も生じやすくして、いかに中央集権が貴重であっても、その過程には相当な工夫の準備が欠かせない辺りを現代人にヒント発進してくれているように、これも素人老人ゆえ想像したくさせる。

 

 WEリーグの試合がはじまった。
 前半しか見ていないけれど、ポーランドチームとのU-17の男子サッカーの試合もはじまった。次はアルゼンチンチームだ。
 女子サッカー選手たちにはなにを今更なセリフになりそうだけど、ゲームでは好機を逃さずの瞬間判断は熟練も中堅も新人も場面性質を受け止める場数次第、な辺りは繰言の繰り返しになるけれど、年寄りゆえ、つい口走ってしまう。
 そして、日ごろ積み上げた体の覚えがその際の確実プレーにつながる。

 

   川柳もどき

    11月の第二週が寒くなりだした起点だった。
    そう来年のこの時期まで覚えていられれば・・・・個人的には
     少しだけ安心材料にできそうな。