連載は続く~ SF掌編『クライフ・オフト・オシム・ミシャサッカーを継承してもきた列島版サッカー』編


 NHK+でだったか、サッカーの小野選手がインタヴューに応(こた)えていた。
 その中で、大怪我して入院して、その後、それ以前ならサッカープレーの中で泉のようにイメージが湧き出てくるので伸二ならぬ瞬時の連携プレーでの応じ方ができたけれど、以後ではそのイメージは湧き出すことが無いと。
 ここらを素人老人ならではの強引な引き寄せ方で受け止めてしまうと、入院の過程が小野選手に内省の機会を提供してしまった、それも、大人が体験するような頭の体操クラスの何度も租借するタイプでの内省を体験させてしまったと見たくさせた。
 大人という対象として意識しだすと子供でいられにくくする。といった辺りをなんとなくわかっていただけるとありがたい。
 スポーツ事、体を動かし温まる以上に汗をたっぷりかき、十分くらいに楽しめて、じゃ、またとかでスポーツ仲間と別れる。ちょっとばかり心地すら好い。
 大人っぽさを意識しないで居られる幸福な時期であれば、傍目には無邪気に他人の視線をまず意識することなくそのこと自体を楽しめてしまえる。体か誘うように動いて楽しんでのような時間経過を過ごせる。
 その無邪気さを子供っぽく感じるきっかけは突然のようにやってきて、意識して、そうじゃない表現形を身につけていくようにしていつの間にか変身の方に居たりしている。
 その状態は無防備だからプロ選手諸氏には向かない。
 かといって考えて動く身心系に傾くと、天然ともいえそうな発想、湧き出るイメージとは無縁の人生に近づかせる。
 以前NHKBS番組のヒューマニエンスの中で、ヒトを襲えるくらいの動物達をイメージしてもらって、そいつらは美味そうなヒトとか獲物を見たら瞬間反応してそのための動作に移るスピードがごく当たり前に反応系としていつも作動できるように育っているそうだ。
 だからヒトの思い込めている瞬時の反応では0.1秒以上も遅い。
 ヒトの場合、どう頑張っても、すごく遅いわけだ。
 素人考えは、今の時点で少し付加したくなる。
 女子サッカーと男子サッカーとを典型的という仮想の比較対照を置いた場合、典型的女子筋肉系の動作によるサッカープレー動作は、更に男子と比べて0.1秒(1秒の10分の一だからごくごく短いわけだけど)連鎖的に遅延を伴っている感じだ。見た感じで言うと、ちょっと重力の少ない空間にふわっと動作している感じ。ダッシュの様が、白筋のグリグリと力強く動作するのにちょっとスポンジが噛んでグゥリグゥリ感に少しだけ近い感じ。
 動物達の猛烈な瞬間動作と男子との比較と比べたら相対関係としては微々たる物だけど、見た目の動作として違って見える。ヒトの感受性は微細だ。
 その動物達との比較からする遅延は、躊躇を可能にする。
 武術における寸止め技の冴えを披露できる程度のごく短時間を含ませている。
 もしもそこらについて厳密に気づけるようになるなら、武術系の披露においては、寸止めの精度を競う形がより相応しそうだ。実際にそれができなくて相手を傷つけてしまうならそれで失格とできる。自らのスピードを制御できない(から相手のスピードも見抜けない)タイプで、実践の場でも弱点丸出しと見なしうる。
 無邪気な時期はその遅い男子・女子の筋肉系においてすらいくらか早く反応してみせる可能性を秘めさせていたと見なせそうだ。
 反応系においてそうだとしても、肝心の筋肉の動かしに必要な力量不足の子供時代だから、最終的動作としては子供っぽくなってしまう。
 でも小野選手の場合は、楽しく、面白くサッカー技を身につけるだけではなくゲームするに当たってもかなりの"高齢(大怪我する年齢)"の段階までその身心を保てていたと見なせるとか仮定を置きたくさせる。
 体がその技量の身につけについてきてしまうタイプもいればそうでないタイプも様々に沢山おられるわけだから、だれもが同じように可能、という話しにするわけにはいかないけれど、大人イメージが思い浮かぶ年代になっても、無邪気さ、ノー天気にスポーツ動作を楽しめるだれかの部分を大切にできることで、(連携を含む)技の数々を、苦心する方向性と切り替えて段階に応じた楽しめる過程を持ち込めることで、かなりのだれかたちが身につけられる可能性を示してくれているように素人老人は現状、受け止めている。

 とはいっても基本のところが大事なのは、何事にもだ。
 スタジアムでの女子サッカーの試合を見るようになって気づけたことに、芝に邪魔されて減速が目立つようなパス出しを結構プロ選手諸氏が繰り出しがちにしている辺り。
 女子サッカーの場合170cm台の身長で大柄っぽい。
 ということから憶測すると、できるだけ効率よく力がボールに伝わることも技のうちと言えそうだ。
 すると多用して、一試合辺りでさえ相当な仕事量となりうるインサイドキックにしても、しっかり力の伝わり易い基本の通りのキックを個々のからだつきに応じて工夫できていることが必須と想像できる。
 ここらの仕事量についてピンと来難(にく)い場合、普段ボーリングをしていない諸氏に通じるたとえになるけれど、それなりに思いボーリングのボールを投げることをゲームを重ねる毎に、コントロールの為の腕周りでの支え感が頼りなくなってくるなどを指摘できる。
 プロ野球の投手並に数を放れば、それと似たことになりそうだ。
 見た目、でかいし、レーンの規模感はコントロールしやすそうに感じられるし、下手でコントロールできにくいにしても、変化球にしない工夫でそれなりの投球はできてしまうのだけど、投球がかさんでくるとそうも言ってられなくなるくらい、微妙に定型で投げるのが苦痛になってくるものだ。
 サッカーのインサイドキックも相当量試合中ではこなしているから、キック・パス効率がかんばしくない蹴り方をしている場合、必要以上に負荷となって体に返ってくる。
 結局、インサイドキックも基本に立ち返るしかない。慣れがそこらを忘れさせているかもしれない。
 体重が伝わり易いし無理の少ない姿勢になっているかとか、基本型についてなら自身が感触として点検できそうだ。
 そしてゲームの中での変化技の際も感触において適切さの度合いを瞬間微調整できて思惑通りのパスを蹴ることができそうだ。
 その感触感知慣れは、トラップの時のセンサーとしても同じように使いこなせる類と素人的には察する。
 折角もらったパスだ、とペナルティエリア内での志向がシュート、という瞬間を持ったなら、そのセンサー応用の一つとしてより正確なコース狙いのシュートを放てそうにも思えてしまう。
 ただ、このシュートに関しても感想を持っていて、多く見かけるのがGK目掛けたかのようなシュートだったりして、ネットでのシュート練習とかの項目から小さなゴール応用などが紹介されている辺りの副作用かも、など素人老人的に想起してしまった。
 低くて小さいシュート域、となれば、広いゴールのキーパー位置に近づく。
 だからそこらへも広いゴールに、(ベレーザチームが余興で使っているとかネット記事では読めたりしているタイプの、或いは、かつて"99(能登半島地震で避難中のお年寄り向けに99の(かつてよりは少しくらいは年取っているはずの)オカムラ氏がなぜNHKとかに番組を売り込む形でお笑いブレイクダンスラジオ体操を画面一杯使って元気の素を提供しないのか不思議だ)"の番組にてアルゼンチン代表チームの朝有名選手が似た遊びに挑戦して(見事小さなゴールに蹴り入れている)いたような)遊びのペナルティキックのような穴部(1mx1m位)を設けて、そこへ蹴り入れる練習の方が、応用力が身につくのでは、と素人老人的には発想してしまう。

 最近、オシム氏の(サッカー構想の)ことを扱った番組が放送されていたり、小野選手の引退試合ではその弟子ともされる愛称ミシャ監督のサッカー技についての考えなども紹介されていたりで、オランダチームのクライフ選手・監督のサッカー技に関する考え方とも響きあう様々がサッカーの世界では試行されてきたあたりを素人っぽくちょっとばかり感動しつつ更にネット記事とかを参照していたりする。
 そこから気づけたのは、クライフ氏についてはかつての山本監督世代は熟知されていて、オシム氏やミシャ氏などとなると、実際に今時の40代くらいのJリーグ卒業諸氏は一目置くようにして実地に学ぶ事が出来ていたらしい辺り。
 ただ現に見るJリーグの忙しなさは、(状況察知から動いてパスコースをボールの持ち手に示せる技も含めて)個人技を身につける前にの、多くを抱えているJリーグの現状かも、などまたもや素人老人ゆえの強引なことば使いをここでは使ってしまうけれど、実際、オシム氏のユーゴスラビア代表チームには、Jリーグの試合でトンでも技を披露し続けた選手もその一人程度に凄い足技そろいだったことがネット検索から直ぐに知れる。
 パスを回しすらにも個人技が欠かせないけれど、シュートに持っていくところでは更に必要だし、点を取れるには、(連携プレー込みでの)個人技が不可欠要素になりそうだ。
 そして、卒業年代の各氏がコーチとなっていまや全国各地のクラブチームに個人技をたくましく身につけた若者達が女子チームにも男子チームにも育ちつつあることは、何度も素人的に指摘してきた。
 似た経験ではないスペインチームの若手はどういった経路をとってきたのか、そこらはちょっと知りたいところだけど、現状の改良の凄さをプロの試合の大勢の観客を集めるヨーロッパ勢は特に、今この現在において相当な工夫をされていそうなことを想像するのは難しいことではなさそうだ。
 アメリカの女子サッカーも諸外国からお金の力で人材を集めてのような各界の真似事をしている限りで、チームプレーにおいて遅れを取ってしまうから、長い目での地元のユース年代からの育成を多分手がけ始めているのではないか。
 だからユーラシア(東南アジア域も含めて)域のサッカー界も列島版の試行錯誤を参考にしてもらえれば、ついでにコーチとして列島育ちを招聘したりすれば当面の水準まではユース年代が年をとっていくに応じてそれなりの選手層を形作らせられる。
 南北アメリカ、ヨーロッパ域に独自のリーグが発達しているように、ユーラシア域でも観客を沸かせられるサッカーのゲームを披露できるようにする。
 列島の若者達は偶然にも偶然に、幸運だったようだ。その持続的発展をサッカー界が支え続けてくれれば、見る、見に行く娯楽としてもずっと楽しめる対象であり続けてくれそうだ。