連載は続く~SF掌編『映画「シャイアン」から話が始まった』編




私:キミがそこを車で通りすぎるなんて、ありえない、とは思いつつ、つい目で追ってたり・・・。
君:大変、ね。大忙しの時期に。でも、ありがたいわ、よ。気持ち。
私:そっ。よかった。そんなこんなで、ボクも結構キミ並にいそがしいかも。なのに、録画の映画やドラマとか見てたりもして・・・。
君:それで大忙し?なによぉ。それって、自分で自分の首しめてるみたいじゃない。なにか工夫できないの?
私:そこは年寄りというか、年取ってくるときっとわかってもらえそう、とにかく、これまでやってきたことが一つ一つ片づけてみたいならいいけど、積み上げの要素でずっとやってるようなことや日々こなさないといけないこととか、そういうことって年取るともう沢山になっている、いつのまにか。捨てられないし・・・。
君:捨てられない。そこよ、ね。そこ。
私:馴染んじゃってるけど、他人様の視線が向けば、驚くだろうね、散らかってて。
君:私だって、きっと驚くわ、よ。それより、忙しいのに、また見てたの、ね。
私:うん、ジョン・フォード監督の『シャイアン』。西部劇によく出てくる荒地が舞台。その荒地の広大な自然観がけっこう美しく映っていた。そういう自然の中で列島史だと明治の20年代かな、シャイアン族にとって辛い事件が起きていた。そういうエピソードを扱いつつ、映像がともかく当時のが今の姿だといって勘違いさせられるような鮮明さでその土地を紹介している。テクニカラー社方式のカラー処理ということで知られている画面。実は評判の良いカラー処理で、実際に『イースターパレード』とか『アンドロメダ』とかBSで放送されたのを見ても、4Kで見たくさせる。時代を意識させない資料と言ってしまうと多少資料扱い上困ったっぽいニュアンスも伴わせそうだけど、最近の昔撮られた映像の上映、放送については国立のフィルムセンターとかも関わった処理方法の開拓によって今見てる人はごくヒトっぽく見ることができるようになっている。コマ合わせを工夫して、当時のヒトの動きも映像から探れるようにした。チョコマカ動作ではなくなった、と言ってわかる人はその昔の記録映像を見てきた人たちに限る。それくらい今では、修正済みのが一般的になってしまっている。『シャイアン』は1960年代の土地の様が撮影されている。その資料になる。映画作りの都合からする合成映像も混じってるけど、沢山、当時の土地の姿がヒトの動きと共に映っている。だから1960年代の土地で、1890年代のなにがしが演じられている、ってことになる。法治はその理念として尊重されるだろうけれど、それがだれもにとっての支えとはならない状況もありえて、その場合にぎくしゃくをどう解決できるだろうか、となると、法律の網の目でがんじがらめに近いところから固く一方の利害で出勝ちにするかも、の辺りで、そうは動かないヒトの思考力のようなのが相当効くこともあるようなエピソードにもなっている。アメリカ英語の一面の解釈でヒトを誘おうとしてもこの映画でのシャイアン族のことば観からする指摘に出会うと、ご都合主義にもいくらでも使えることばとしてしか見えなくもする。約束するなら含みまでことばにしておくことだ。じゃないと後日に誤解を生みかねない。ただ列島の人々はそこらはことばを使い慣れてきたから、どう頑張ってもことばの複雑さを払いのける訳にはいかない辺りを踏まえてことばを営み続けている。ことばで追い込むことは不毛に近くなる、実際上の運用においては。だけどそこをズルさが介在してくると、どこかでせき止める必要は出てきてしまう。そういうタイプのエピソードが大自然テクニカラーの映像の中で演じられている。ネットでちらっと調べたところ、テクニカラー用の撮影装置は相当に高価になってUSとかUK以外の国々ではほとんど使われていなかったような話だった。ちなみにヒッチコック監督はテクニカラーで作ってたそう。
君:デジタル化とは正反対、な感じがするけれど。
私:みたいだよ、だから今は使われなくなってるみたい。でもさ、テクニカラーでどこそこを撮っていてくれた、ってだけでも貴重な気がする、よ。
君:あなた的、には、ね。
私:そね。それとロシアもののテレヴィドラマ。実はの辺りが話としてやっと出てきた。トップのようで更に上からの指示があるみたいだけど、そいつが独断専行で相当にヤバいことに手を付けてしまっている。薬名エクスタシーで一種の感染症にしてその特徴までつい最近の話で紹介されてたけど、集団を狂暴化して操れるようにしてしまおう、って構想してるやつが一方にいた。それにそれらはあくまでもヒト生命だからヒト肉体として脆いのは同様。この先については、既にシリーズものになってヴィデオ化されているので、先に見たければテレヴィ放送を見ずに筋を追える。大まかな展開についてはだれもネットで調べえ知ることができてしまう。とにかく今時はかつて中公新書で吉川氏が描いてくれた19、20世紀の経済上の営みの転換のテクニックのこれから版をどうする、どうしたい、にしろどうなってしまうとかの絡みとしてその関係者の一端として生きていることができている一種の幸運のように体験してみたくわない?
君:それって、いきなりぶっ飛んで、ってあなたの真似だけど、飛躍してない、かしら。ちょっとわかりにくいわ、よ。
私:表向きは資本主義とかのことばを弄ばせておいて、実質差異のからくりの応用が機能していて、具体的には資金巡りをどうするのか、が秩序をめぐる指示系統を保つうえでかなりの枢要となるので社会工学パスカルの原理の応用が働き続ける一面をいつでも伺うことができると思う。だから担い手たちがばかげた思惑で動かないとか啓蒙と挑戦ととか既知と既知で処理しきれない事象をどうお互いのものにしつつが可能で、不可抗力的に危ない事象をどう発見しつつ未然にできて、集団の営みとして平穏無事をより濃くしていけるかとかヒトのこれまでを試される過程とも言えそうに素人なので大雑把にことばにできる。
君:それでも、よくわからない。ちんぷんかんぷん。2千何年問題とかって食糧不足のこと、あれどうなったの?
私:表立って騒ぎ立ててどうなるものでもないのかもしれないけど、表向きのニュースにはなってないみたい。けど、グローバルに指導層とか経済活動を引っ張っていることに関わる人々の中では着々と下地作りはこなされてないと間に合わない。グローバル行事のオリンピックとかがグローバルな各地の具体的事情の今時と密接でないと、グローバルに啓蒙の役を担う一面がないと・・って素人発想だけど。一応、経済の自立単位の各層を瞬間的に一覧して、どこにどう無理が行くのかって感じで即応できるに越したことはない。緊急の援助的即応性が要る事態か、商売のやりくりに任せておけば均されそうな事態かとか、大きく移動してもその先での規模の小さい経済的自立単位(村とか町とか市とか県とか個人とか家族とか家庭とかそういったそれぞれの事情を持つ具体的な単位)を充たせるのかどうか、とか。食糧となる物資生産の面と移動の面。列島の流通ノウハウは緊急時に一応発動してるけど中身の問題は流れている感じ。どこに何がストックされているのか。それで足りるようにした中身なのか。緊急時の知恵として、心身の疲労困憊が並じゃない、ということから長持ちするし、堆積とか重さとかが無理にならない嗜好品や嗜好品に近いけどしっかり栄養分としてバランスの良いものなどを自分が用意できるようにすること。その中には水や好みの飲み物を含める。それはあくまでも緊急時だけど、ある中期間の食糧不足の中でもそういうことがありえないわけじゃないからきっと役に立つ。中期間ってのは長めに見て数十年間、10数年間がピークになりそう。そこを克服して、しかも人口の趨勢には素直になっていれば自然減の傾向が見えてくる。列島の人口減の傾向は経済規模にも直接響いてマイナスのように受け止めがちだけど、膨らみ過ぎたのを無理なくバランスさせる自然の力に任せられるとかで受け止めれば、それに応じた経済の見方を可能にできれば、グローバルに人口規模縮小を恐れずに済む。それは無理やりの死を招かずに自然の流れとして縮小する過程にできる。飢えや極端な貧困を遠ざけつつのプロセスになりうる。ヒトが少ない時にはもう少し人数(ひとかず)があればもっと仕事がこなせるのにとかおもってたはずなんだけど、いざ膨大な人口を抱えたグローバル世界となると、そうもいってられないようなことにしがち、っていう経験を通過してきた。そこらをしっかり整理して理解に乗せて、もう一辺、人口に応じてどう応用したヒト世界ができるのか試したい、よ。
君:それって、ちょっと、ちょっとぉ、大げさに、なってない、かしら。
私:かも。
君:かも?!じゃ、ないと、思うわぁ。でもあなたが言った、ということでなければ、それなりに、頷(うなづ)ける、わ、よ。大変な人口を抱えることができたにも関わらず、じゃ、どれだけのことができたの、っていう話、でしょ。少ないなら、少ないなりに、工夫して、今以上のことができる?できる、の?
私:わからない。そこは、人口と結びつかない、ヒトならではのもう一つの不思議面、そこがわからなくても、これまでのヒトは工夫してきたからね。経済規模というよりは、いつでもどこでもしっかり基礎知識を開拓し続けていて、必要な時必要な知恵を使えてみたいな在り方が生きていればいいわけだ、よ。それができそうでできない。他人に自分同様の忙しさ。似た忙しさをつい求めたくなる、ヒトの何とも言えない心の問題。そこはでもさ、今時は少しずつだれもが休日をより多く取れるようにしてきた。ひがみっぽい心を生じにくくさせるかも、で。しかし、相対的に働く心の一面はそうたやすくない。一方にローマ帝国っぽい指導層発想としての帝国、というしきりの知恵が大事にされてそうだから、事態は入り組む、ってわけ。戦争好きとかそういうニュアンス抜きでも可能だからね。帝国。様々な規模でうごめく自立単位が帝国的な秩序を実は求めてしまうようなパフォーマンスを取りがちなのか、そうではなくて帝国的な意味合いではない発想が自立と協力のようなことを瞬時にも長い目でも可能にし続けてしまうのかってことがヒトにはどこかから問いかけられてそうにも思えてね。
君:長くなりそうね、お茶入れたから、どうぞ。それから先を話して。
私:アリガト。じゃ、いただく。(うまい。体がほっかりほっかり、ほっかり、さ)
ということで話は続く(予定)。