連載は続く~SF掌編『機微な辺りへ工夫を注ぐ』編




ヒトが今の心身に不都合を感じて、その時に、どの年代の頃に向かおうと観念を働かせて、どういった内容から不都合なり好都合なりを思い浮かべているのだろう。今や100歳台のヒトが珍しくない。そういう時期についこの間とはいえ、100歳台が貴重に思えるような年代構成の発想のままで、ヒトはやりくりできることがヒトにとって成り行きとして良いのかどうか。良いかどうか、という問いかけは相応(ふさわ)しくないとも言える。ヒトの実際的感受においてそれに相応しいように発想の形を育ててきたとは思える。関係性の過程でそう思い込めてしまうことというのはありうる。またその思い込みの入り組みから、ある年代での心身が発想させる形、表現型を老いて、やって、なぜ悪い、のような思い込み的決めつけが混ざってくる。今言えそうなのは、その心身においてかつての思い込みを払いのけてその自身にとっての試行、といったところだ。それはかつての自らへの無理強いとは相当に違ってきそうに思える。年代なりの・・・がそもそも長寿がざらな世の中ではかなり様を異ならせる。わがままなやつらからの解き放ちは不可能としても、わがままなやつらが強いてくる子作り、子育てへ極端に収れんさせる諸々のこれまでヒトのある年代が経験してきたこと、そこでの表現型とは異なることへの試行が長寿が当たり前の世の中では当たり前になる、というか、そうなっていないと無理を強いることになってしまう。ヒト個々への無理。それが関係性で更に育ちへと誘(さそ)う。スポーツはそうではなく、しかも継続的だからその年代の幅発想は無効だ、という異論も出てきそうだけど、既に発想を注ぐ高齢者が周囲で機能していることは既成事実だ。昔からそうだったと考えるならば、ただ役割分担の一面、局部だけ見てスポーツは若者のもの、と思い込んでいただけだった、ようにも映る。そう、・・・、映っていた。もう少し言うなら、年寄りなりの興味をたまたま具体的に持てている諸氏において、それこそ若いころならそう面白がれなかったくらいに身を入れて楽しめる。江戸期のある一面、趣味を同じくする連中が小さい仲間をこしらえて楽しめていたし、それなりに方向性の個々においてより育てていく事の邪魔ともならなかった頭の働きも込みの心身に育つ愉(たの)しみの過程を想像したくさせる。自らの工夫も関係性の工夫も、長寿が当たり前に向けて、試行も当然だったわけだ。巨額資金循環の巷、(固い職種も含めた広い意味で)芸能とかマスメディアにまつわる業界だとパイをいかに分け合うかの苦心が先行するくらいに、限られた稼ぎ口をめぐっての競い合いにしがち、と巷からは空想してしまうのだけど、するとトコロテン器具のように年代を追って押し出すことも必要、とつい考え勝ちにしてしまう。そこも思い込みの発生源の一つになる。リアルにはそれではかえってヒトの集団性、個々を育み合える集団性にとってはかなりの不都合に働く。とにかく年を取ったら知り合いがどんどん減っていく、という時代からかなりの年代まで似た世代に囲まれて老いていくしずっと長い人生を歩む。だったら市民社会っぽい参加をして人生に張り合いを持たせればいいじゃないか、と軽はずみなことを言うどなたかが現れるかもしれない。そこはリアルには、より込み入った政治、当方的にはフーコー氏発想からする政治の闇が人生に不必要に入り組みを持ち込ませて、試行錯誤の芽を摘む方に機能してしまいそうだ、と指摘しておきたい。実際、政治のあり方についてはもう一辺おさらいして、やり直すくらいのことを試行錯誤してみないと、参加が(列島でのニュースになりやすいのよりも実際には込み入っている)利権の網の目で弄ばれかねない(広瀬本から学べる事は19、20世紀の工夫がオルタナティヴ試行にとって邪魔ともなりかねない辺り。一つにはそのための資金循環の問題。これは今時までの平等論発想では集団の営みにとって解決案を提供しない)。広範、精緻なプロセスをヒトの量と質から達成できている。そういう”製品”の恩恵の上で成り立つ世の中を意識できる。そこを離れることは簡単。けれども集団的な利便を応用し合えている状態、そのプロセスゆえに緩やかにつながっている事態を根こそぎにもできるはずがない。そこらは貧富の格差的な見方で所有のどうのこうのを問題にできても、抜け落ちてくる要素として重要だ。役割分担や合議の本質的なところでの難しさをごく初期から気付けてきたヒトにおける集団の営みであることを振り返りたい。その後の試行錯誤である今、ということだ。相対的に良いアイデアをめぐっての議論は成り立ちうる。しかも覇権争いもそこにはついて回る、となっただけでもうどうにもならなくなる。その先についての乱暴な試行錯誤をヒトの世はたっぷり知ってきた。役割分担についても同様。そして啓蒙をより意識して取り組む試行錯誤を続行している。しかも大変だったことにかなり以前から気付かれているし、インターネットタイプのオルタナティヴを試行中だったりする。





君:長いわ・・・、段落、ないでしょ。
私:住み着いて、時々仕事に外へでる探偵氏は、虐待のニュース、主に子供たちのだけれど、流れるたびに施設に強い地震が起こることを知ったそうだ、よ。ぐらぐらぐら、って。
君:でしょうね。同意しては、ダメよね。でもいつかは介護の施設、変わらないと。列島のお年寄りが人生の一部分をそこで過ごしているわけ、よ。・・・介護施設、だけじゃない、病院とか、色々。・・・で探偵さん、地震、で、逃げた、の?外。
私:さ、どうだか・・。
君:その探偵って、あなたがこしらえてる、のではなかった、のかしら。
私:そうだけど、そのうち一人歩きするものなんだ。
君:ウソっぽい。それぇ。
私:地震って、長くても数分間とかほんの束の間のことだよ、ね。
君:うん。
私:そのわずかの時間に起こることがその後の長い日常に影響してしまう。そこをやり過ごせれば、つい先ほどと同じようにその後が続く。発想を固定しかねないけれど(そこは注意してもらうことにして)、映画の『マグノリア』で空からウシガエルっぽいのがどしゃ降りした一時(いっとき)の効果に似てる。ヒトは忙しさにかまけてつい惰性のままを放置してちょっと改良したいのに、手を出しかねている、ってことがありがちさ。そのきっかけにもなりうる。でも準備を怠(おこた)っていれば悲惨このうえない。
君:話、逸れてない。探偵さん、よ。逃げたの?どうなの。
私:激震、で、さっと逃げるわけない、でしょお。たとえ、地震、たとえ、でしょお、この場合。・・わかってるくせに。テレヴィのながらで見るやり方は、時間を無駄に流しがちにするね。
君:また、突然、話題、逸らした。
私:視覚の独特さ、を言ってみたかった。視覚は占め勝ちにする。耳で聞いてる場合、視覚はそこそこだけど”自由”を保持している。視覚に迫ってくる情報は占めさせる。とかく。訓練してそれぞれの感覚情報を別々に整理してしまう同時の心身なんてこともあるのだろうけれど、たとえば自転車に慣れてくると見てる情報が勝手にハンドル操作に関わる心身を適格に動かす。ハンドルにはハンドルやブレーキやサドルとかフレームへの身体圧など含めて、ね。
君:私だったら、調理している時の包丁さばきとか、そうかも。・・それより探偵、どうなったの、よ。
私:ちゃっかり、他所の施設から入り込んでずっと住んでるらしいだれかがいるそうだ、っていう話をこの探偵氏、小耳に挟んでしまった。で俄然、興味を持って密かに調べ始めてたんだ。
君:介護費用のことで直ぐにわかってしまう、でしょ。
私:ところが、そこに住んでいないことになっている部屋だから請求書が出ない。しかも中央が全てを取り仕切るしくみの支店のような施設だったので、本店からなにか出てこなければそれで良しでやってきていた。たまたま本店も支店であるその施設も関知していなかった、っていうわけ。
君:かなり都合がいいこと、ね、話。でもそんなこと調べたって、稼ぎにはならないんでしょ。
私:流石、リアル発想のキミ、だね。そうなんだ。仕事待ってる状態。暇を持て余して・・。で。
君:そんなところだろうと、思った、わよ。
私:ところが、テレヴィのニュース、ラジオ、ネットでもいいんだけど。それが流れて、激震、さ。
君:どうなったの。
私:こんなことしていられない、って、ネットで虐待の事件のことを調べ始めたって、わけ。だから今回も事件にはならず。話もそこまで。
君:お茶、淹れよ、なによ、あなたの探偵、まるで探偵してないじゃない、の。
私:しょーもない奴、なのさ、その探偵氏。とてもおいしいお茶を淹れるから、今回はどうかご勘弁を、なんて。
君:出た、なんて。ごまかしてもダメ、話、つくりなさい、よ。
私:激震だったらしい、から。
君:さっき、たとえ、って言いましたよ、ね。たとえ、って。
私:白状します、確かに・・、言いました。
君:あなたに言ってるのか、探偵さんを責めてるのかわからなくなってきたわ、よ。
私:きょうの、キミ、こそ、迷探偵、いや、、名探偵。良いモデルができたかな、って。
君:手、動いてないじゃない。いいわ、その話の先、外で聞くから。お茶、外でいいから。
私:上手い!では散歩がてら、途中でお茶など・・・。
君:ふふふっ。でも10㎝より近づかせない。
私:2cm(センチ)。
君:ダメ。
私:5cm。
君:ダメ。
私:1cm。
君:だめ!
私:1mm(ミリメートル)。
君:いいかも。